戻る

  けれど心は君だけに  

「お願いや、結婚せんといて!」
 ひょろりと背の高い男が哀れっぽい仕草で一護へと縋り付いていた。
 それを見た乱菊が怒りに表情を歪ませると、一護へと張り付いた男を引き剥がそうと試みる。
「ギンっ、離れな! 妊婦に無理すんじゃないよ!」
「お腹の子の面倒は僕が見たるさかいー!!」
「いや、結構」
 女二人の冷たい態度にもギンはめげるつもりはない。本気を出せば男の自分に、女の力では適わないのだ。邪魔をする乱菊を無視して、ギンはせめて一護の唇を奪ってやろうと顔をぐっと近づけた。
「うわっ、やめろよ変態!」
「あんた何考えてんの!?」
 一護がギンの顎を押しやって抵抗し、乱菊は背後から脇の下に腕を入れて羽交い締めにした。
 ギンは分かっていなかった。女が本気を出せば時に男以上の力を発揮するということを。
「どうしても結婚する言うんやったら、ボク、切腹したるからな! 気まずい雰囲気で祝言上げたらええんやー!」
「なんて嫌な作戦を!」
 捨て身の行動を宣言するギンに、なんて縁起の悪い祝言だと一護は呻いた。だが乱菊は幼馴染の扱いには馴れたもので、ふんと鼻で笑った。
「だったら私が介錯してあげるわよ。そこに正座しな」
「嘘! 嘘です! ごめんなさい‥‥‥!」
 背後から本気の殺気を感じとり、ギンはすぐさま前言撤回した。くたりと力の抜くと、油断したのか乱菊の腕の力が弱まる。その隙を狙って一護の頬に唇をさっと押し当てると横跳びに地面を蹴った。
「ギン!」
 化猫顔負けの形相で乱菊が吠える。それを化狐のようにニタリと笑って返すと、ギンは殴られないよう距離をとった。
「はん! これで終いや思うなよ!」
「二度と来んな!」
 中指をびしっと立てて乱菊は追い払ってやった。だがこれで終わる筈が無い、一抹の不安とともに乱菊はそう思った。




「はい、一護さん、あーん」
 怪しげな丸薬片手にそう言って近づいてきた浦原。
 当然そんなもの、飲む筈が無い。一護は不審者を見る目つきで浦原を眺めた。
「飲んでくださいよぅ。怪しいもんなんかじゃありませんから、ね?」
 じっと丸薬を見つめると一護はその丸薬を受け取った。その行動に嬉しそうに顔を輝かせる浦原を見て、分かっていたが碌なものではないという確信を深めた。
「ほら、浦原、あーん」
「っう!」
 一護は逆に浦原へと勧めてやった。
 浦原の心の中で、初めての「あーん」に喜ぶ気持ちと、この丸薬を自分が飲むわけにはいかない気持ちがぶつかり合う。やりたいことは何だってやってきた浦原に、葛藤という貴重な体験をさせるのは一護だけだった。
「あーーーん‥‥‥」
 どこか意地悪そうに瞳が煌めく一護。そういう小悪魔的なところもまた素敵だ、なんて考えている場合ではないと浦原は気を取り直す。近づいてくる丸薬から一歩二歩と後じさりながらも言い訳が口をついて出る。
「アタシが飲んだって仕方ないですよぅ。一護サンが飲まなきゃ意味無いんですから」
「俺がここまでしてるってのに飲まないつもりか、ああ?コラ」
「口移しなら、考えなくもないですけど」
 調子に乗った浦原を一睨みすると、一護は丸薬をぴーんとどこかに弾き飛ばしてやった。
「何するんですか!アレ一つにいくらかかったと」
「俺が飲まなきゃ意味無いんだろ?だったら俺は飲まないからアレはいらないもんだ」
 至極もっともな理由に浦原はそれ以上何も言うことはできなかった。一護が結婚すると聞いてからは、仕事をすべて部下に押し付けて、寝食忘れて先ほどの丸薬の製作に没頭したのだ。それが、ぴーん、であっさりお終いだ。
「俺、今大事な時だから。まあ、普段でもお前の薬は飲まねえけどな」
 一護の手は腹を撫でていた。そこに自分以外の男との間にできた子が宿っていると思うと、浦原はやるせない気持ちになる。そこには自分との愛の結晶が宿る筈だったのに。
「はっきり言います。結婚しないでください」
「ほんとにはっきり言うな。でも駄目。結婚する」
 男らしいほどにはっきりと言うと、一護はもう用は無いとばかりにその場を離れようとした。だが背後から浦原に抱きしめられてしまう。
「お願いです。考え直してください」
「考え直すことなんて無えよ。誰かに考え左右させられるような俺じゃねえって知ってるだろ」
 知っている。そういうところにも惚れているのだ。真っすぐに立つ佇まいだけでなく、その心根も真っすぐで、浦原のような男にとっては眩しいばかりだった。
 だからこそ手に入れたい。そう思っていたのに、一護は既に別の男のものだと言う。
「そんなこと、許せる筈が無い」
 気安い口調が一変して低いものとなる。その変化に一護が振り返ると、間近に見つめる浦原と目が合った。いつものおちゃらけた雰囲気など微塵も感じられない。どこか切羽詰まった表情の浦原が、そっと顔を近づけてきた。
「っうらは」
「何をしておる」
「いっ!‥‥‥‥たぁ」
 顎に強い衝撃を受け、首が仰け反った。一護だけしか見ていなかったため、周りへと注意を配っていなかった浦原に、突如として邪魔が入った。
「邪魔が入る頃じゃろうと思っておった。案の定じゃの」
「夜一サン‥‥‥」
 幼馴染の邪魔に顔をしかめて、浦原は無言の抗議をした。顎に容赦のない攻撃を加えられて、失神しないのは腐っても護廷の隊長だからだ。
「去ね。研究室にでも籠っているがよい」
 夜一の態度に対し、浦原は一言も喋ろうとしない。無精髭の生えた顎に手をやると、不穏な光を灯した目で夜一を睨む。
 そして一護には苦しげな心情を宿した目を向けると、無言でその場を去って行った。




「一護ちゃん大丈夫?」
「なにが」
「ちょっかい掛けられてるってさあ、訴えが続々と寄せられるんだけど」
 京楽の元へと毎日のようにやってくる女性陣は、一体お前何やってんの一護(くん)をちゃんと守りなさいよ、という内容の一点に尽きていた。
 結婚のことは内密にことを進めるつもりが、どこから嗅ぎ付けてきたのか、藍染を初めとする過激派達に知られている。それからは邪魔、そして邪魔の繰り返しだった。
「四楓院のお姫様が言うにはさあ、藍染が黙っているのがすっごい不気味なんだよね」
 ギンと浦原のちょっかいは毎日降るようにやってくるというのに、藍染は沈黙を保ったままだった。だが時折遠くからこちらを眺める藍染からは、言い知れぬ威圧感のようなものが滲み出ていて、京楽にはそれが恐ろしさに似た不安を煽らされるのだ。
「藍染さんねえ。でもあの人はさ、春水さんが思ってるほど悪い人じゃねえって俺は思う」
「騙されてる。あいつの術中に嵌ってるよ、それは」
 京楽も最初は騙された。温厚篤実な好青年だと一瞬思ったが、こっそり見えた皮肉げな笑いに、邪悪な気配を感じたのだ。お人好しの浮竹は誰にでも二面性はあると語っていたが、一週間後に「あいつ好きじゃない」とこっそり漏らしていた。
「俺も最初は恐い人だと思ったけどな。でもそれだけじゃないような気もしなくはない感じはする」
 ものすごく曖昧な返答に京楽は苦笑した。
 一護は浮竹以上にお人好しだ。心底人を嫌いにはなれない。あの藍染にさえ、いいところはあると本気で思っているのだ。
「春水さんも人のこと言ってらんねえよ。だって俺、あんたのことただのエロ親父だと思ってたし。いや、それは今もか‥‥‥」
「ちょっとちょっとー!」
 確かにそう言われるようなことをした覚えはあるが、それはすべて愛ゆえ、と理解してもらいたかった。
「藍染さんのことよく知らないからな。知ってたら、もっとマシなこと言えるんだけど」
「いや、知らなくていいからね」
 一護の猫のような警戒心の高さは、知った人間の前になると一気に影を潜めてしまう。だが京楽は言いたい、男はオオカミだと。
「一護ちゃん、気をつけてね。男と二人きりになっちゃ駄目だからね」
「現在進行形で二人だけど?」
 そう言って一護は部屋を出て行こうとした。それを慌てて引き止めると、京楽はすっぽりと腕の中へ抱き込んでしまった。
「あんたが一番のオオカミだ」
 胸へと伸びた不埒な手を叩き落とすと一護は下から睨み上げた。その強い眼差しを笑みで受けとめると、京楽はなおも文句を言おうとした一護の唇を塞いでやった。
「ねえ、誰にも奪われちゃ駄目だよ」
「‥‥‥ん、」
 それは唇か、それとも存在自体なのか、一護には分からなかった。ただどちらも今目の前にいる男以外に奪われるつもりは無い。
 舌を絡められ、口付けに夢中になる。薄ら目を開けると、眉を寄せどこか苦しげな表情の京楽と目が合った。
「可愛い、僕のものだ」
 声が微かに震えていた。
「‥‥‥‥不安?」
 濡れた唇に一護のほうから合わせると、京楽は困ったように微笑んで首を振った。
「そうやって隠すなよ。俺に隠して、一体誰に本音を言うんだ。浮竹隊長か?」
 彼は親友だ。一護に言えないことも色々と相談しているのだろう。だがこれからは家族となるというのに、隠し事はしてほしくなかった。悩みがあれば言ってほしい。力になれるかどうかは別として、一人で考え込むよりかはずっと軽くなる筈だ。
「‥‥‥一護ちゃんは、ずっと僕といてくれるのかな」
 いつになく頼りないほどに瞳が揺れていた。
 そんな京楽に胸を打たれ、どうにか不安を拭ってやりたいと一護は思う。そしていつも自分にしてくれるように、顔中に口付けを贈った。
「なんだよ、マリッジブルーか?逆だろうに」
 髭をなぞって口付ける。自分よりも大きな唇を必死になって開かせて、口内を探って舌を絡ませた。きっと京楽にとっては稚拙な愛撫だろう。それでもうっとりと目を細めているのは自分を想ってくれているからだ。
「ずっと一緒にいる。誓うものなんてあんた以外にないから、この言葉を信じられるのはあんただけだ」
「もちろん、信じるよ」
「不安は?」
「無くなった」
 それは良かったと、一護はもう一度唇を落とした。




 最近の一護はガードが半端無かった。一護自身がそうなのではなく、その周りを固める女性陣がまさに最強の布陣を敷いているのだ。瀞霊廷を覆う遮魂膜など目じゃない、と言ったのは浦原だった。
「あいつら女とちゃうで、猛獣や。瀞霊門守ってへんのが不思議なくらいや」
「ですよね。近づいただけで、まるで昆虫でも見るかのような目で見られましたよ」
 夜一にいたっては害虫を抹殺しようと本気の拳が浦原へと襲ってきた。
「藍染はんはー? 何を企んどるんです?」
 元上司が動いた、という話は聞いたことが無い。真っ先に策を巡らし、二人の仲を引き裂く為には動いていてもよさそうなのに。だが実は何もしていないと見せかけて、既に策は完璧なのかもしれない。
「黙っとるんが余計不気味やわ」
「あなたが何もしないなんてあり得ませんよ。一体どういう腹づもりで?」
 それを聞く為にわざわざ五番隊までやってきたのだろう。だが藍染は先ほどから一切来訪者とは口を利いてはいなかった。無言で、書類をぱらりとめくる。
 それに焦れて、二人が口を開こうとしたとき、藍染がふと顔を上げた。
「出ていってくれないか」
 二人に向かってさらりと無下に言い捨てると、藍染は再び仕事に戻る。
 本当に何もしないつもりなのかとギンと浦原は顔を見合わせた。
「諦めるんですか」
 藍染は書類に目を通しながらも思考はまったく別のことを考えていた。

 諦めるのか。




 鏡花水月。
 五感すべてを支配し、一護の目には今、自分以外の女と睦み合う京楽が映っている筈だ。
 驚愕と失望が同時に襲いかかった一護は顔を真っ青にさせ、今にも崩れ落ちそうだった。
「あんな男、忘れるといい」
 背後から一護の目を覆い隠し、藍染はそっと誘惑の言葉を囁いた。
「楽になるよ」
 無意識に腹を押さえている一護の手の上から、大きな藍染の手が重なった。その手を掴み藍染は己の唇へと押し当てる。
「僕がいる。君には、僕が、ね」
 優しくゆっくりと言い聞かせた。まるで絡めとるかのように一護の体に腕を回して引き寄せれば、簡単に胸へと収まってしまう。
 そして自分以外には何も見えなくさせてしまえばいい。
「一護」
 脳へと染み入るような声に、一護の視界が不安定にぶれる。
 振り向けば藍染が慈愛に満ちた目でこちらを見つめていた。
「‥‥‥藍染さん?」  
 名を呼ばれ、藍染は一層笑みを深めて一護の背中を抱く。一護の目はどこか虚ろで、自分の姿がちゃんと映っているのかどうかも疑わしい。だがそのまま、唇を重ねた。
「一護?」
 ぽつり、と雫が落ちた。
 それから止めどなく涙が頬を伝う。目は虚ろなのに、心が痛いと泣いていた。
 ただ一人の男を想って泣く女。あれだけの裏切りを見せつけられたのに、一護は今も京楽を想っていた。
「‥‥‥なぜなんだ」
 足りないとでもいうのか。もっと酷い光景を見せつけてやれば、一護は自分の元へとやってきてくれるだろうか。
 だが頭の中で、否、と誰かが言う。
 一護はきっと、どれほど傷つけられても京楽から離れることは無いだろう。たとえ身は引いたとしても、愛する心は京楽に預けたままだ。だからこそ、今目の前にいる一護は虚ろで儚い。
 欲しいのは心だ。抜け殻ではない。
「君ほど、残酷な子を僕は知らないよ」
 一途だとしても、あまりに己を省みない真っすぐさだ。このままだといずれ、本当に儚く散ってしまうだろう。
「それは嫌だからね。だから、君に返してあげる」
 幻の男にそう言って、藍染は鏡花水月を解いた。
 きっと好きになってはいけなかったのだ。手に入れられないのなら、自分こそが一護を忘れてしまうべきだった。




「諦められたら、どんなに良かったことか」
 一護の記憶を消し、何事も無かったように振る舞った。周囲は自分が何もしていないと思っているようだが、既に策を講じ、そして破られていた。
「忘れられたら、と思ったよ。でもそんなことは無理だ」
 もう心奪われてしまった。
 だったら、
「彼女にあげてしまおうと思ってね。心を、預かってもらうことにしたんだ」
 一護が意識を手放す間際、

『君に、僕の心をあげる』

 そう呟いて、藍染は諦めきれなくて狂ってしまいそうな気持ちをなんとか抑えることにした。
「諦める必要は無いんだ。けれど、彼女の幸せを願うと、僕らはどうしても邪魔だろう?」
 いつもと様子の違う藍染の言葉に聞き入っていたギンと浦原は、同時に困惑し、同じような表情をした。心の底では分かっていたことだ。それを言われて、苦い顔は隠せない。
「辛くて死にそうだと言うなら、彼女に心をあげるといい。一番大切なものを、彼女が持ってくれていると思えば、それはとても幸せなんじゃないかな」

 そう、それは、きっと幸せ。






 昔のことを思い出し、藍染は切なさに身を浸らせていた。
 あれから一護は無事祝言を上げ、子供まで産まれた。今隣で会話をしている一護、とてもじゃないが一児の母親には見えなかった。
「この菓子、美味いんだって」
 お裾分けだと言って持ってきた菓子箱の蓋を開ける。そして顔を上げると、何やらこちらを熱心に見つめている藍染がいて、一護は首を捻った。
「甘いの苦手だったっけ」
「いや、頂くよ」
 自分が微笑むと一護も微笑んでくれる。出会った当初は険悪だった仲も今ではとても良好だった。
 そして悪戯心が芽生え、菓子を差し出した一護の手を引っ張ると、藍染は額に唇を落とした。
「藍染!」
「やあ。菓子でもどうだい」
 京楽が近くに来ているのを知っていてわざと見せつけてやった。
 顔を怒りの表情にして京楽は足取り荒くやってくると、藍染から一護を引き離し、二人の間に強引に体を割り込ませて座った。
「狭い!」
 額に口付けられたのも忘れて、一護は抗議の声を上げる。
 だがそんなことはお構い無しに、男二人は濃厚な睨み合いを繰り広げていた。
「君ねー、人妻なんだよ、モラルってもんがあるでしょーが」
「あはは。そういう君は統学院時代に人妻キラーって呼ばれ」
「お菓子! 食べたいな!」
 無理矢理会話を切ると、一護へと笑顔を向けて菓子をねだった。
 だが振り向いた瞬間、顔面に菓子を投げつけられた。
「死ぬまで食ってろっ、人妻キラー!!」
 京楽が仰け反っている隙に一護は立ち上がり走り出していた。
「ま、待ってー!」
 実家の母親にまた言いつけられる。京楽はすぐさま一護を追って、駆け出した。


 二人を見送ると藍染は一人、菓子を食べる。
 辛くはないと言えば嘘だ。だが、幸せではないと言えば否だった。
 心は一護にあげたから、だから、幸せだった。




戻る

-Powered by HTML DWARF-