瞳で語る
ぐちょ。
ぐちゃ、べちゃ、などなど。
技術開発局の一室では不気味な音が響いていた。ここでは特に珍しいことではなかったが、局員達は極度の緊張状態でもってその音を聴いていた。
「またか‥‥‥」
部屋に入った瞬間、目の前の光景に阿近はうんざりする。機嫌のいい日は鼻歌を唄いながら解剖をしているが、逆に機嫌の悪い日はひたすら無言でぐちゃぐちゃと手を動かしているのだ、我らが局長は。
局長浦原喜助の周りには不自然な空間ができていた。近寄りがたい雰囲気がひしひしと伝わってくるため皆避けて通るのだ。局員達は怯えてしまって仕事にならない。資料をめくる音さえも立ててはいけないとばかりに、慎重に行動している。その作業の効率の悪さに阿近はため息をつく。
原因は分かっていた。
黒崎一護。
浦原の運命の人らしい。
『夜一さんの妹っていうのは嘘だったんですって!』
そう言って浦原はぐちゃぐちゃと解剖している以前は何かの生き物だったものに嬉しそうに報告していたのが数ヶ月前。
出会った当初は殴られたものの、持ち前のしつこさでどうにか普通に話すところまではこぎつけたらしい。浦原が恋など局員達には信じられないことだったがどうやら本気らしい。いつも気まぐれな浦原の機嫌は一護によって左右された。
そして今日の浦原はどうやら機嫌の悪い部類にはいるようだ。
局員達の視線を感じる。お前が聞け、という目だった。いつのまにか損な役回りになったものだと阿近は再びため息をついた。
一応出口を確認しておく。
「‥‥‥何か、ございましたか」
ぴくりと浦原の肩が動く。ごくりと局員達の喉も鳴った。
浦原がメスを置いて、ゆっくりと振り返る。阿近は知らず腹に力を入れた。
「愛が、痛いんです」
逃げてえ。
阿近はそう思った。他の人間もそう思っているに違いない。なぜなら研究室の空気が非常に痛々しいものだったからだ。もしくは居たたまれない。
だがそんな痛い空気には露程も気にかけず、浦原は苦悶の表情でため息までついている。返り血が衣服を染めていた、それなのに愛だの何だのと言っている浦原は非常にちぐはぐな姿だった。
「痛いのはあなたです」
「何ですって?」
「いいえ、何も」
とりあえず逃げよう。先ほど確認した出口に阿近は足を向ける。
だが浦原は逃がさなかった。
カッ!
阿近の顔すれすれにメスが突き刺さる。じわりと汗が出た。
「いいでしょう、聞かせてあげます」
浦原は語り始める。
阿近は思わず顔を覆った。
「こんにちは。一護さん」
「出た‥‥‥」
一護の顔が引きつる。気付かない振りをして去ろうとする前に浦原があっという間に近づいてきた。
「なんか、用かよ」
じりじりと後ろに下がろうとするがその分浦原が距離を詰めてくるので一護は仕方なく足を止めた。相変わらずにこにこと見つめてくる浦原の目を一護は極力見ないようにする。
一護は浦原が苦手だった。初めて出会ったとき殴ってしまったことを後になって悪いと思っていたのだが、そんな思いは再会とともにどこかへ消えてしまったらしい。
再会は唐突だった。喜びで一護の手にまたもや接吻した浦原を一護は殴り飛ばそうとしたのだが、それを余裕の動きで浦原はかわし次の瞬間信じられないことを言った。
『あなたに惚れました』
真剣な目と態度。それに一護はわずかに目を見開くものの、すぐに我に帰ると一目散に走って逃げた。
浦原の目に本気の色を見たからだ。それが恐くて自分でも分からないうちに一護は走っていた。その後ろ姿を浦原がいつまでも見つめていたことを一護は知らない。
それからは頻繁に姿を現しては口説いてくる浦原に一護は辟易していた。
「そんな嫌そうな顔しないでくださいよ」
口を尖らせて抗議してくる。その子供のような仕草に一護は困ったように眉を寄せた。苦手ではあるが嫌いではないのだ、厄介なことに。だが気を抜けばやたらと接近してくるので一護は完全には警戒を解こうとしない。
そんな一護を浦原は頬を緩ませて見つめていた。声に出さずともそれが愛しいものに向ける視線だと一護には分かっていたから、一護は浦原の目が見れないのだ。
「十二月三十一日」
「は?」
「何の日だと思います?」
「大晦日だな」
一護は自信を持って答えた。だが浦原は不満そうだ。
間違ったことは言っていない。なんだよと、一護が浦原を睨んだ。
「誕生日なんです」
「誰の」
「アタシの」
「‥‥‥‥ふうん」
それで?
一護のつれない態度に浦原が泣き崩れる。もちろん振りだが。
「それだけですか!?なんかこうもっと言うことってあるじゃないですかっ!!」
「歳とってめでたいな」
「いや、そうじゃなくて」
それに言うならおめでとうだ。あんまりな態度に浦原は本気で泣きそうになる。だが浦原は諦めなかった。
「なんて言いますか、こう、祝ってもらいたいなーっと‥‥‥」
両手を胸の前で握ってお願いのポーズをしてくる浦原に一護は呆れた眼差しを送る。
「自分で言うなよ。図々しい奴だな」
「だって、言わなきゃ一護さん絶対祝ってくれないでしょ。それどころか誕生日すら知らないじゃないですか」
哀れっぽく言う浦原に、だが一護はどこまでもつれなかった。
「言ったところで祝うとは限らないけどな」
浦原は今度こそ崩れ落ちた。
「ヒドいっ、アタシの心は砕け散りました」
心なんてあったのかとは言わない、いや言えない。阿近は寸ででその言葉を呑み込んだ。
「局長でも誕生日を祝ってもらいたいって思うんですね」
話を聞いていて意外に思ったものだ。むしろ浦原に誕生日があったことが意外だった。普通はあるのだろうが、浦原と誕生日がどうしても結びつかないのだ。
「何です、その言い方。アタシだって人の子ですよ」
嘘だ。
そう思っているのか部屋にいた全員が一斉にぐっと何かに耐えるような顔をした。
「まあ祝ってもらいたいのは一護さんだけですが。他はどうでもいいです」
最後の台詞は心底どうでもよさそうだった。人の子だと言っておきながらその態度は何なんだと、心の中で皆がツっ込んだ。
「本当につれない人。まあそこが魅力的でもあるんですが」
阿近は何度か一護の姿を見かけたことがあった。目立つオレンジ色の髪。初めて見たときにこれが浦原の思い人なのだとすぐに気付いた。短い髪と鋭い目に、話を聞いていなければ男だと勘違いしてしまうだろう。それに特に秀でて美しい顔立ちではなかったように思う。
どこがいいのか阿近には分からなかった。浦原の気まぐれなのだと最初は思っていた。だがそれは間違いだということに気付かされる。
一護といるときの浦原を見たときに、これは現実なのかと目を疑った。
浦原の全身が、一護を好きだと言っていた。軽い態度に隠れてはいるものの、阿近がこれまでに見たことがないほどの誠実さでもって浦原は一護に接していたのだ。
阿近は一護を見直した。浦原が惚れるとは、これはすごい女なのだと。
「それでどうするんです。諦めるんですか」
「まさかっ!アタシがそんな甲斐性のない男に見えますか」
だらしのない男には見えるが、浦原は一度こうと決めたら必ずどんな卑怯な手を使ってでもやりとげる男だった。おそらく今回も卑怯、もとい巧みな手法でもって一護に迫り誕生日を祝わせるのだろう。
「がんばってください」
「棒読みですよ、阿近。言われなくてもやりますけどね」
浦原のしつこさは尸魂界一だと阿近は思う。だから一護は逃れられないだろう。そこに同情を感じるものの巻き込まれることだけは御免被りたいので、阿近は結果だけを聞くことにする。失敗しようが成功しようが浦原は勝手に話してくるだろう。
「あのー‥‥‥」
おそるおそるといった声だった。振り返ると扉を少し開けて覗いている局員がいる。
「よ、よろしいでしょうか」
緊張した部屋の雰囲気にその気弱そうな局員が縮こまっている。手には何かの紙を握っていた。
言え、という阿近の視線に局員が握っていた紙を差し出す。
「先ほど、これを局長にお渡しするようにと、受け取ったのですが、」
どこにでもあるような半紙だった。字が透けて見えるがどうやら書類とは違うらしい。適当に折ってあるそれを浦原ではなく阿近が受け取り中身を確認する。
「‥‥‥局長」
「なんです。呪いの手紙ですか」
浦原に敵は多い。ときどきそういった類のものが送りつけられてくるのだ。
「その反対かもしれませんよ」
ぴらりと阿近がその紙を浦原の眼前にかざした。
それを見た瞬間、浦原が駆け出す。ちゃんと紙を阿近から奪い取って。
青春だな。
だがそう言おうとして阿近はやめた。なぜならあまりにも浦原に似合っていなかったからだ。
手紙に書いてあることは至極簡単なものだった。
俺が初めてお前を殴った場所に来い
漢らしく豪快な手紙だった。果たし状と言ってもいい。だが浦原は頬が緩むのを抑えきれないでいた。
見えた。愛しい人は木の下で空を見上げて座っている。
「一護さんっ!」
浦原は駆け寄る。勢いのまま一護に抱きつこうとしたがそれは寸でのところで阻まれた。
「い、一護さん、痛いんですが」
何かの包みで浦原は顔をぐいぐいと押さえつけられていた。これでは抱きつくどころか一護の顔すら満足に見ることもできない。
「それ以上近づいたら俺は帰るからな」
その言葉に浦原はおとなしく適当な距離をあけて一護の隣に腰を下ろす。浦原は満面の笑みで一護を見た。
だが一護は相変わらず浦原の目を見ようとはしなかった。
「嬉しいです。恋文なんて、アタシもうこれを家宝にしちゃいますからね」
「なっ、恋文じゃない。これはあれだ、召喚状だ」
「召喚状って、裁判じゃあるまいし。でもいいんです。一護さんから貰ったものはなんだって嬉しいんですよ」
目を細めて笑う浦原から顔を背けて一護はぎゅっと眉を寄せる。不満そうにすこし突き出した唇が可愛いと浦原は思った。
「今日は仕事が無いんですね。その着物、よく似合ってますよ」
乳白色の地に花の小紋の着物。高価なものではなかったが、一護の髪によくあっていた。
「ああ、京楽さんに貰ったんだ」
あの人趣味いいよな。一護の何気ない一言に浦原は食いついた。
「なんで京楽さんから着物なんて貰ってるんですかっ!?」
「なんでって、くれるから?」
何かと物を贈ってこようとする京楽に一護はできるだけ断ってはいるものの、断りきれずに頂いてしまうものがいくつかある。その一つが今一護が着ている着物だ。
「今すぐ脱いでください」
「‥‥‥歯ぁ食いしばれ」
「じょ、冗談ですよ、ってなんで斬魄刀抜こうとしてるんですかっ! 歯を食いしばっても死んじゃう!!」
仕事は無いが斬魄刀はもってきていた。念のため。
なんとか許してもらった浦原に、一護が持っていた包みを渡す。
「なんです、これ」
「誕生日って言ったら贈り物だろ」
「‥‥‥‥‥! 一護さんっ!!」
まさか何か贈られるとは思ってもみなかった。浦原が感動のあまり抱きつこうとするが、それは一護の鋭い視線で制された。浦原は仕方なく包みを開けることにする。
「これは‥‥‥、一体どういう意味で?」
中に入っていたものに、浦原は首を傾げた。
「現世じゃ誕生日はケーキっていう洋菓子と相場は決まってるんだよ。でもこっちにはそんなの無いだろ。それは代わりだ」
「‥‥‥‥羊羹」
なんだか複雑な気がしなくもないが浦原はありがたく受け取ることにする。一護からの初めての贈り物だ。
「本当はそれに歳の数だけ蝋燭を突き刺すんだけどよ、悲惨なことになりそうだからやめた」
「それはたしかに」
羊羹がいくらあっても足りないだろう。
浦原は一護に貰った羊羹を大事そうに包み直す。その動作を一護がぼんやりと見ていた。
「誕生日、おめでとう」
「え、」
浦原が顔を上げて一護を見るがすでに一護は目を逸らしていた。だがそれでも嬉しさがこみ上げてきて浦原が一護の手をそっと握る。ぴくりと動いたが一護は振り払わなかった。
「ありがとうございます」
「おう」
「今までで一番嬉しいです。アタシがどんなに嬉しいか分かります?」
「おう」
「嘘。アタシの目を見てください」
一護は見ない。
ただ遠くをじっと見つめていた。
「一護さん」
「なんで、」
「はい」
「なんで俺なんだよ。俺のどこがいいわけ?」
初めて会ったときに殴った女のどこがいいのだろう。がさつで女らしいところが一つも無い自分を好きだとどうして言えるのか一護には分からなかった。
一護の問いかけに浦原がにっこりと笑って答える。
「どこと言われても困りますねえ。だって会うたびに違うところが可愛いと思うんですから」
「なんだそれ」
「ちなみに今日はそうやって突き出している唇が可愛いと思っていますよ」
「っ!」
一護は咄嗟に口を押さえる。そんな慌てた様子がまた可愛いと浦原は思ってしまうのだが。
重ねた手に力を込める。
「好きです。あなたにどうしようもなく惚れてしまっているんです」
真剣で、そして切実な声だった。
だが一護はまだ見ようとしない。
「こんなアタシを少しでも憎からず思ってくれているのなら、どうかこの気持ちを無視しないで」
沈黙が続いた。
冬の寒い風が二人に吹き付ける。耳や鼻の先が冷たくなっていったが、二人の重ねた手だけは温かかった。
やがてふう、と一護が息を漏らす。
「‥‥‥俺が殴ったせいで頭がおかしくなったのかもしれない」
ぽつりと一護が言った。それに浦原がくすりと笑って返す。
「だったら、もう一度殴ってみます?」
「いい、やめとく」
「そうしてください。それにきっと、殴ってもアタシの気持ちは変わりませんよ」
「だろうな」
この日、いや浦原が最初に思いを告げた日から初めて一護が浦原の目を見つめた。甘く細められた目。こんな目でいつも見つめられていたのだと思うと一護は少々恥ずかしくなった。
知らず赤くなった一護の頬を見て、浦原はますます笑みを深めた。
家まで送るときかない浦原に一護は折れた。浦原はただ手を繋ぎたかっただけなのだが、誕生日だからと言われて一護は我が儘を聞いてやることにした。
「一護さんの誕生日には着物を贈って差し上げますね」
「俺の誕生日知ってんのかよ」
「もちろん調査済みです」
「‥‥‥恐えな」
それを着て今度は一緒に出かけましょう。
大きな手で包まれて、浦原に見つめられると一護は何も言えなくなる。
自分はもしかしたら浦原の目に弱いのかもしれない。