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  言葉にできぬなら、それは  

「美味い‥‥‥‥」
 一護は愕然とそう呟いた。
 ちら、と上目で藍染を見れば、困ったように微笑まれた。
「本とか、読んだ?」
「いや、適当に」
 一護は項垂れた。
「あーあーいるよなーそーゆー奴ー」
「拗ねることないじゃないか」
 いや、拗ねる。
 一護は面白くないといった顔を隠そうともせずに藍染のつくった料理を手早く食べると空になった椀や皿を流し場へと持っていった。
 流し場はもちろん藍染の部屋はどこもかしこも綺麗に整っていた。普段使わない部屋は人を雇って定期的に掃除をさせているそうだが、日常的に使う場所は自らが掃除をしているのだろう。本人の印象を裏切らない整理整頓された空間に一護はしゃがみこんだ。
「まだ拗ねてるのかい」
「べっつにー」
 藍染が自分よりも遥かに料理の腕が上なことに一護は少しも拗ねていないと言い聞かせた。
 自分に料理の才があるとは思っていないが、腐っても女だ。手料理を食べさせてやりたいと思っていたのに、男のほうが上手なのでは一護に出る幕は無かった。
「機嫌を直してくれないか」
「拗ねてねえし怒ってねえし」
 ただちょっとプライドをぶち壊されたくらいで。
「独身男の家事能力を甘く見てた」
 恨めしげな一護の視線にくすくすと藍染は笑って返した。
「それで?君の手料理を頂けるのかな」
「あんなの食べさせられた後で料理なんてつくれない。恥かくだけだ」
 料理なんて米が炊けて味噌汁がつくれて、魚が焼ければいいと思っていた。家のことは働いている一護に代わって料理はもちろんのこと妹二人がやってくれている。特に遊子は料理が上手で、一護が手を出す出番はまったくと言っていいほどなかったのだ。
「水炊きなら作ってやってもいーけど」
「それは手料理じゃないだろう」
「うっせーうっせー!」
 料理のうまい人間に何が分かる。
 一護は普通に料理はできるが上手というわけではない。普通だ。
 いっそぶきっちょで包丁すら碌に扱えなかったら諦めもついたのだろうが、平均的な料理の腕を持っている一護にはその中途半端さが許せなかった。
 食器を洗おうと思っていたがそれはやめだ。一護はすたすたと藍染の前を横切ると羽織を纏って玄関へと歩いていった。
「帰る。じゃあな、料理の上手な藍染隊長」
 根に持った捨て台詞を吐くと一護は家へと帰ろうとした。
 が。
「帰れるとでも?」
 下駄を履こうと浮かした足は地に下ろされることはなかった。体ごと浮き上がった一護はそのまま馴染みの寝室へと連れて行かれて、ぽーんと投げ出された。既に敷かれてあった褥が一護の体を柔らかく受けとめる。
「なに?手料理の代わりに俺を食べようってか!」
「敢えてその常套句は使わないでおこうとしていたのに」
 近づいて一護に覆いかぶさった。いつものように唇を重ねると、一護がじっとこちらを見つめていた。
 冷静なその眼差しに、藍染は遣り辛くなる。
「食べても美味しくないと思うけど。俺の手料理のようにっ」
 これは相当根深い。
 よほど自分の手料理にショックを受けたのだと藍染は理解した。
「君はとても素晴らしいよ。とてもね」
「料理はできねーけどな」
「それはもういいから」
 よくない。よくないのだ。
 一護はむうっと口を引き結ぶと藍染に抱きついた。このやるせなさをぶつけるように、思い切り力を込めてやったが藍染は少しも堪えていないようだった。それがまた腹立たしく、一護はごろりと反転すると藍染の上に馬乗りになった。
「そつが無い男って嫌いだ」
「僕がそうだと?」
 余裕の笑み。
 このまま首を締め上げてやろうかと一護は指を藍染に這わせた。
 藍染は動かない。そつが無い男は、一護がそうしないことを知っていた。
「出来ないことなんて無いくせに」
「君がそれを言うのかい?」
 え、と一護が声を漏らしたと同時に藍染は起き上がり、向かい合うようにして座った。
 ころころと変わる体勢に内心で笑うと、一護の表情を伺うように覗き込んだ。
「何でも出来る人間なんていないよ。もしいるとすればそれは、まだ出来ないことに出会っていないだけだ」
 かつての自分がそうだった。
 すべては掌中にあると、信じて疑わなかった。
「僕の鼻っ柱をへし折ってくれたのは誰だったかな」
 料理の話から随分とかけ離れた話になってしまった。けれど一護はそんなことは気にもせずに、思うところがあったのか今はもう藍染を拒む雰囲気は微塵も出していなかった。
「俺も。あんたとの出会いは衝撃的だった。意地悪で鬼畜で他人のことなんて何も考えない自己中で、なんて嫌な奴だろうって思ったよ」
 膝の上にちょこんと座りながらも一護は清々しいほどの笑みでそう言ってのけた。
 そして藍染の帯に手を掛けると着流しをするすると脱がしていった。
「好き」
 そう呟いて、一護は唇を重ねると藍染を押し倒した。





 持久力の高さは褒められるべきことだ。
 世間ではそういう認識であるのに対し、藍染はそうではなかった。
 ここに恐るべき持久力の高さ、もといしぶとさで邪魔をしてくる男が二人ほどいた為にである。
「塵も残さずに消え去ってくれないか」
 本心からそう言った。
 だがそれで胸を抉られるような人間らしさを持ち合わせていないのが浦原とギンだった。
「聞きました〜?今のヒドいお言葉」
「ええ、ええ、聞きましたとも。一護サンが聞いたら一体どんな顔をするでしょうね?」
 近所の嫌味なおばちゃんのように二人は囁き合っていた。
 藍染はそれに不快感を露にすることはせず、鼻で笑ってやった。
「あの子はもっと酷い言葉を僕に言うよ」
「‥‥‥‥へえ?」
「嫌い、とかね」
「ははんっ、ざまーみさらせ!」
 ギンが悪態をつき、浦原が意地悪げに笑ったところですかさず藍染は言ってやった。
「でもそのすぐ後に謝って、僕に何でもしてくれるけどね」
「「‥‥‥‥‥‥‥」」
 何でもって何だ。
 ただれた男二人の脳裏をありとあらゆるいけない想像が駆け巡った。そしてすべてを想像しきったところで忌々しいとばかりに藍染を睨みつけてくる。
 二人とも掌で転がされていることに気が付いていない。藍染は一護には見せないどす黒い笑みで負け犬二人を前に余裕の態度で構えていた。
「昨日は特に可愛かったよ。何でもしてくれてね。僕は生娘のようにただ寝転がっているだけで済んだのだから」
「はあ!?」
「それってっ、」
「みなまで言わせるのかい?」
 二人は鼻白む。
 目の前の男が羨ましい。他人を羨むことなどあり得なかった二人だが、今心の底から藍染のことを羨んだ。
「いい加減諦めたまえ。しつこい男は嫌われる。世の常だよ」
 そう言う自分が過去に一護をしつこいほどに付け狙ったがそれは都合良く忘れることにする。結果的には一護は自分に振り向いてくれた。
 初めて手に入れられないと、出来ないと思った人間が一護だった。こればかりは自分一人がどうあがいても詮無いことで、どうしても一護の協力が必要だったのだ。
 君が欲しいと望んだ答えを出せるのは一護だけで、それが叶った今はただただ幸福だった。混沌を欲していた過去が遠く感じられる。
 今は少しでも長く、二人寄り添え合えればそれで良かった。
「そう言われて諦めるとでも?」
 凍えるような冷たさを称えた声を発し、浦原は優雅に振り仰いでいた扇子を翻した。
「アタシはアナタに劣るべくところなんて、何一つ持ち合わせちゃいませんよ」
 開いた扇子をぱちりと折りたたみ、それを藍染へと突きつけた。
 普段はどろんとした浦原の目が鷹のような鋭さでもって見据えてくる。
「ボクかてそうや。負けや思たんはあんたさんの性格の悪さ以外に何一つ無いわい」
 細い目を見開いた。
 本気を現すそれは憎い男を突き刺すように睨んでくるが、藍染も負けてはいない。
「愚かだね」
 くっと唇を吊り上げて嗤ってやった。
 目の前にいる二人は分かっていない。そう思うのは嫌なことにかつての自分が二人と同類だったからだ。本質をまるで知らない彼らの頭の中は、手に取るように理解できた。
 けれど自分は変わった。変わらざるを得なかった、と言うべきか。
「劣る劣らないの話じゃないんだよ。そんなことも分からないのか」
 分からないのだろうな。
 かつての自分も含めて、藍染は嘲笑った。
「一護が僕を受け入れてくれたのはそんなくだらない理由じゃない」
「‥‥‥‥じゃあ、何だと言うんです、」
 それは。
「それはーーー」





「どうして僕だったんだい?」
 汗ばむ肌と肌を寄せ合って吐息とともにそう尋ねた。一護は疲れたのか藍染の体の上でぐったりとしていたが、その言葉にふと顔を上げた。
「どうして、って?」
「そう」
 今こうして抱き合っているのがなぜ自分なのか。
 一護の口から聞きたいと思っていた。
「分かんね」
 考えるそぶりも見せずに一護はそう言って、また藍染の胸に頬を寄せた。
「少しは考えてくれると嬉しいのだけど」
 すっきりきっぱりな一護はそこらの男よりも男らしい。そういうところが好まれる要素でもあったが、今の問いはもう少し考えてほしかった。
 一護はもう半分眠りかけていたのか言葉にならない声を発していた。今日はもう聞けないか、そう思った藍染が自分も眠ろうと掛け布団を手繰り寄せたとき、
「どうしてかなんて考え尽くしたよ」
 眠ったと思っていた一護は目を開け何も無い空間を見つめていた。
「でも答えは出なかった」
 少し肌寒いのか一護は脱ぎ捨てられた襦袢に手を伸ばした。そしてそれに袖を通しながら、藍染へとにやりと笑ってこう言った。
「少なくとも性格に惚れてこうなったんじゃないってのは分かる。だって惣右介さんて性格悪いし」
 藍染に苛められていた日々を思い出し一護はまたも笑った。
 あの頃は顔を合わせただけでも不快感がこみ上げていたが、今はそんな過去も笑って話せるようになっていた。変わったと思う。彼も、自分も。
 一護は過去を思い出すように、しばし無言になった。それから、「ああ、」と声を漏らすと数回瞬きをした。
「皆俺に優しかったけど、惣右介さんだけは意地悪だった。だから余計気になったのかもしれない」
 藍染の存在は自分には脅威だった。恐ろしいと感じたこともある。
「なんて怖い人だろうって思ったよ」
 でも、
「なんでかな、嫌いになりきれなかった。知れば知るほど、嫌いが消えていった」
 枕元に置かれた眼鏡を手に取る。いつ外しただろうかと首を捻った。
「嫌いが無くなったら後は好きしか残ってない。あんたとこうしてるのは、好きだから」
 月並みだけど、どうですか。
 そう言って藍染に眼鏡を掛けてやった。外している姿も好きだが眼鏡を掛けているのも好きだった。
「あんたほど考えさせられる人はいないよ。‥‥‥そうだな、どうして好きなのか考えるんじゃなくて、好きだからこうして考えたり悩んだりするんだ。そうしてもし痛みを覚えないのなら、それは恋じゃない。だから愛にもなり得ないんだろうけど」
 髪を優しく撫でつけると一護は藍染の隣に体を滑り込ませた。明日も仕事がある。心地良い疲労感で今すぐ眠れそうだと思っていると体を引き寄せられた。
 そして口付けが降り注ぐ。一護が掛けてやった眼鏡をいつのまにか外した藍染はそのまま眠るのかと思いきや、一護の襦袢をはだけさせると肌に唇を寄せた。
「ありがとう。十分だよ」





「それは?」
 つかの間、回想に浸っていた藍染はその声に呼び戻された。
 そして訝しむ男二人にふ、と笑った。
「聞いても落ち込むだけだよ」
 簡単なことだ。好きだから。
 考えても分からなかったことは、このたった一言で十分に事足りてしまった。好きだからこそ想い悩む。答えなど本当は始めから分かっていたのに、すぐそこにありすぎて気が付かなかっただけだ。
 先に理屈を求めてはいけなかった。そもそも男女の情にそんなもの、野暮と言うものだ。
 だからこそ、どうしてかなんて言葉にはできないけれど、する必要も無いのだと今では思う。
 けれどこれだけは言える。

「魂が震えた。それだけだ」  

 そう、それだけ。



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