お聞かせ願いたく候ふ
「ごめんなさい‥‥‥‥、」
そう謝ってすぐ、一護はズピ、と鼻を啜った。
「気にすんな」
首だけで振り返った海燕は快活な笑みを向けた。その笑みを申し訳無さそうに一護は見返して、そして今度はくちゅんとくしゃみをした。
「寒いか?」
「らいじょうぶれす」
ちょっと気を抜けば鼻水が垂れてきそうだ。一護はスンスンと鼻をすすり、万が一海燕の死覇装を汚さないよう細心の注意を払った。
今、一護は海燕におぶわれて四番隊へと向かっていた。
「風邪、移ったらごめんなさい」
「大丈夫だって。俺は生まれてから一度も風邪ひいたことねえからな。気にせず咳でもくしゃみでも何でもしろ」
気にする必要はないと言ってくれる海燕に、一護は改めて尊敬の念を抱いた。そして風邪をひいたことがないという事実に驚愕した。
生まれてから16年。一護は寝込んでいるほうが多いというくらいに病弱だった。友達は布団と枕、少し外に出ればすぐに風邪をこじらせ死にかける。一護の部屋は常に空気を綺麗に保つため、鬼道で結界を張っているほどだった。
「せっかく護廷に来れたのに、」
そんな一護だが少しずつ健康というものを手にしつつあった。万年床から一週間に一度寝込むくらいの回復ぶりである。
そして今日、渋る夜一を説き伏せて憧れの海燕がいる十三番隊を尋ねたというのに、運悪く発熱してしまったのだ。
「情けねえ‥‥‥‥、」
「そう落ち込むな。こういう日もあるって、な?」
返事の代わりにズピピ、と一護は鼻をすすった。
「浮竹隊長を見ろ。あんなに病弱だけど立派に死神やってんじゃねえか。風邪がなんだ、あの人なんてしょっちゅう血吐いてんだぞ」
「‥‥‥‥‥‥大丈夫なんですか」
「あの人にとっちゃ鼻血みたいなもんだ」
なんだかんだ言って浮竹は死なない。よく寝込んでいるが半分が仮病だ。
「‥‥‥‥‥‥俺、死神になれるかな」
「今みたいにうじうじしてたらなれねえな」
う、と一護はたじろいだ。
「根性入れろ。霊圧は申し分ねえんだ、あとは気合いだ、気合い」
「気合い、」
「病は気から、って言うだろ。鉄は打てば強くなるんだ。お前も鍛えりゃ強くなる」
海燕の言葉は妙に説得力がある。一護は神妙な心地でその声に聞き入っていた。
大きな背中は頼もしい。幼い頃白哉におぶわれたことがあるが、あれは少々緊張を強いられるものがあった。海燕は極力振動を与えないようにと歩いてくれているのに一護は気が付き、その気遣いに感謝した。
海燕さん、そう呼ぶとおう、と答えてくれる。
それが一護には何よりも嬉しくて、何度も何度もその名を呼んだ。
「だからっ、妹だって言ってるでしょうっ」
海燕の切羽詰まった声に一護は目を覚ました。眠っていたのか、頭が少しぼうっとする。頬が熱く、関節が悲鳴を上げていた。
「妹?」
一護の知らない声には訝しむ色が含まれていた。
誰だろう、と一護は顔を上げ、海燕の後ろから覗き込んだ。
「たしかに似てますねえ」
「分かってくれましたか、それじゃ」
失礼します、と海燕は立ち去ろうとしたがそれは叶わなかった。
「嘘おっしゃい。その子、妹じゃないでしょう」
「なん、」
「高級な着物だ。これほどの品を纏えるのは上級貴族に限られてる。アナタのとこ、没落してるでしょ」
悪かったな、という海燕の小声が一護には聞こえた。
相手の男は白い羽織を纏っていた。ということは隊長だ、一護は焦点の定まらない視界で必死にその人物を捉えようとした。
「こいつ、今具合が悪いんです。もう行っていいですかっ」
「よければアタシが診て差し上げますよ」
「結構です!!」
こんなにも苛々とした海燕の声を聞くのは一護は初めてだった。余程苦手な相手なのだろう。海燕にもそういう相手がいるのかと、一護は不思議に思った。
「ちょうど発熱を抑える薬を持ってるんですよ」
「あんたっ、実験台探してただけかっ!!」
敬意も敬語も忘れて海燕は絶叫した。
四番隊へと向かう道すがら、よりにもよって浦原と遭遇してしまった。軽く頭を下げた海燕に対し、いつもなら他人は無視というか眼中に無い浦原はそのまますれ違う筈だった。
しかし、なぜか今日に限って声をかけてきたのだ。その理由が今判明した。
「病人に何を飲ませるつもりだっ」
「ごくごく普通の薬ですよ〜ン」
それは浦原の基準でだ。世間一般ではそれは危険物質と言う。
海燕は一護を背負い、何とか逃げようと視線を忙しなく動かせる。浦原はピルケース片手にそんな海燕を追いつめるべく一歩足を踏み出した。
そのとき一護が激しく咳き込んだ。その動作でさえ一護の体は激しく痛みを訴え、生理的な涙がぽろぽろと零れた。
「大丈夫か!?」
「大丈夫ですよ、この薬を飲めば」
「あんたは近づくな!!」
力の入らない一護は海燕の首に回した手を離してしまった。海燕は慌てて手を伸ばして支え、床へと下ろしてやった。
「この子、早く点滴打たなきゃマズいですよ」
熱を測るために浦原が手を伸ばす。それを海燕がバシっと叩いて撃退した。
「指先に薬を仕込まないでくれますか」
叩き落とされた浦原の指先には海燕から見えないように薬が隠されていた。なんという科学者魂、いやこれはただの変態だと海燕は思い直し、諦めの悪い浦原を思い切り睨みつけた。
「海燕さん‥‥‥‥」
か細い声に海燕は打って変わって心配した表情で一護を見下ろした。しかし一護は涙の溜まった目で海燕ではなく浦原を見上げ、その手を握りしめた。
「大丈夫だから‥‥‥、」
「い、一護?」
大粒の涙を零し、一護は一心に浦原を見つめていた。
「俺、頑張るから、もっともっと、頑張る‥‥‥‥」
浦原は状況が呑み込めず、目を見張って静止していた。
一護は両手で浦原の手を引き寄せると、そっと自分の上気した頬に押し当てた。
「あんたみたいな、死神になりたいんだ‥‥‥‥っ」
涙を流し続けながらも一護はそう告白して、そしてぱたりと力が抜けたように浦原の手を離した。呼吸がひどく荒い。そのただならぬ様子に海燕は戸惑いからいち早く立ち直り、一護を抱き上げようとした。
「アタシが連れていきます」
「はぁ!? って、ちょっとっ、」
海燕の制止も聞かずに浦原は一護を抱き上げた。その拍子にあれほどしつこく飲ませようとしていた薬が硬質な音を立てて床に落ちた。
一護は抱き上げられ、無意識に死覇装に頬を寄せた。
「‥‥‥‥海燕さん」
そして小さな、本当に小さな声でそう呟き、意識を失った。
話し声が聞こえる。
姉の夜一と、そして最近知りあった砕蜂の声だ。
「おお、目を覚ましたか」
「具合はどうだ」
一護は大丈夫だと言うようにわずかに頷く。それを見てほっとしたように二人が息をついた。
「ここは? 四番隊?」
たしか海燕の背負われて四番隊に向かっていた筈だ。しかし見上げた先には一護のよく知る天井が広がっていたので、どういうことかと一護は首を傾げた。
「四番隊から屋敷に移ったのじゃ」
「そんなに時間が?」
どれほど時間が経ったのだろうか。
しかし夜一は渋い顔で首を振った。
「まだ日にちは跨いでおらぬ。それよりもの、一護」
「うん?」
砕蜂が差し出してくれる水を飲み、一護は不思議そうに姉を見上げた。何やらひどく苦悶しているというか怒っているというか、困惑しているというのが一番大きかった。
もしかして自分が倒れたことに憤慨しているのかもしれない。夜一は一護の外出には非常に気を遣い、その体調を過保護なほどに案じてくる。
そのせいかと不安になったが、どうやらそれは違うようだ。
「その、おぬし、浦原と、」
「浦原?」
「手を握ったとか、」
「浦原って、それ誰?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
夜一と砕蜂は互いに顔を見合わせて無言になった。
海燕から聞いた話では手を握り、頬に擦り寄せたとか何とか。
「‥‥‥知らぬのか?」
「聞いたこともねえよ」
誰? 友達?
まったく知らないというように一護はきょとんと目を瞬かせていた。
「‥‥‥‥いや、そうか、それならいい」
「何だよ、誰なんだよ」
「誰でもない。想像上の生き物じゃ」
「他人の苦しみを糧とするそれはもう嫌な生き物なのだ、架空のな」
夜一と砕蜂は説き伏せるようにそう言った。
浦原と遭遇したと聞いたときは心臓が止まる心地がしたものだが、今の一護の反応を見て合点がいった。
「もう眠るがよい。姉様が手を握っていてやるからの」
浦原という謎の生物について聞きたいことはあったが、夜一の優しい声音に一護の瞼はとろとろと落ちていった。
今日は海燕に情けない姿を見せてしまった。次に会うときはもっと強い自分でありたいとそう願い、一護は完全に眠りへと落ちた。
「は? 一護って誰ですか」
「アナタの妹の」
「妹は空鶴だけです」
海燕はすっとぼけた。それを相手にして謎の生物浦原は盛大に顔を引き攣らせた。
「そうですか、あくまで白を切ると」
「夢でも見たんじゃないですか」
一護と浦原を遭遇させてしまったことに海燕は激しく責任を感じていた。ここは何が何でも知らないフリを突き通す。
あの日、一護を四番隊へと連れてきた浦原を見て卯ノ花はすべての事情を悟り、そして迅速に行動してくれた。浦原を引き止めている間に夜一に連絡を取って、一護を屋敷へと移してもらったのだ。
「一護サンはどこの誰です、え? 素直に答えたらバラバラにした後、ちゃんと元に戻してやりますよ」
バラバラにすることは決定事項らしい。だが海燕は引き結んだ唇から一護の正体を話すつもりは決して無かった。
「俺は何も知りませんよ」
「そうですか。ええ、アナタがそういうつもりならアタシにも考えがありますよ」
なんだ、と海燕がぴくりと眉を跳ね上げる。
「技局には技局のやり方があります」
「‥‥‥‥‥だから?」
浦原は底意地の悪い笑みを浮かべ、生意気な口を利く海燕を睥睨した。
「これから摂取する飲食物には気をつけることですね」
今度は海燕が顔を引き攣らせる番だった。
信じられないような鬼畜な手段を暗に示してくる浦原を、怒りよりも驚愕の眼差しで捉える。
「まあ、アタシも鬼じゃあありません。言いたくなったらいつでも訪ねに来てください」
「‥‥‥‥‥! ‥‥‥‥‥!!」
言いたいことは山ほどある。罵りたいことも千とあった。
けれどそのどれ一つとして言葉にならない。
「お待ちしてますよ」
嫌味なほどに爽やかに笑むと、浦原は身を翻し去っていった。
あの日、一護と出会った廊下で浦原はふと立ち止まった。
泣き顔が胸を焦がす。
自分は一護の笑みを知らない。
浦原は一人、痛んだことの無い胸を抑えて溜息をつく。
あの頬の熱さが忘れられなかった。