花冠
好きだった花。それを一輪、贈られた。
忘れないでくれ。
そんな言葉とともに。
忘れたりなんかしない。
いつだって想ってる。
その証拠に、こうして夢にまで見るのだから。
焦がれる想いはすこしも色あせてはいなかった。
そんな一護の言葉にそうか、と男は笑み崩れる。
その笑顔が好きだった。へらりと、こちらまで気が抜けてしまいそうなその笑顔。
好きだよ。
今でも想ってる。誰よりも、何よりも。
男はますます笑みを深める。
それを見ていると一護の胸は暖かくて仕方がない。
その手を広げてくれ。
抱きしめてはくれないのか。
だが男は首を振る。笑みのまま。
どうして、と一護が聞くと男は無言で指を指す。
一護の後ろ。
思わず振り返る。
誰かがいた。二人、一護の知っている、親友の二人。
十四郎、春水。
どうしてお前達が。
一護がもう一度、男を振り仰ぐ。
だがそこには誰もいない。
初めから誰もいなかったと錯覚するほどに、男は姿を消していた。
いってしまったのか。
夢でしか会えないというのに。
相変わらず女心というものをすこしも解していないと、一護は男を罵った。
だがそれでも男は出てこない。一護が怒れば情けなくも名を呼んでくれた、あの男は。
ひどい男。
名を呼んでほしかった。
もう逃げない。だからあと一度だけ。
一護。
聞こえた言葉は後ろから。
一護の背中に優しくぶつかった。
一護ちゃん。
花が雫を受けとめる。
愛しい男。
お前は、本当に。
「大馬鹿野郎め‥‥‥」
薄らと目を開ける。
「大馬鹿野郎とはひどいな」
「起きた?一護ちゃん」
目を開けたものの、一護はぼんやりと親友二人の顔を見つめていた。二人の顔がぼやけている。
「近い」
近すぎる浮竹と京楽の顔をぐい、と乱暴に押しのけた。
ようやく体を起こす。辺りを見れば一番隊の副隊長室だった。そこに置いてあるソファで書類を眺めている間にいつのまにか眠ってしまったらしい。
「あー書類、拾ってくれ」
体にうまく力が入らない。一護は突っ立っている親友二人を遠慮なく顎で使ってやった。
顔の筋肉をほぐす。どうやら涙は流れていないようだ。
夢での出来事。当然、花はどこにも見当たらなかった。
「疲れているようだな」
「あんまり無理しちゃ駄目だよ」
労りの言葉。それに一護は軽く手を振った。
「お前らがもっと真面目にやってくれたら、俺の負担も減るだろうよ」
欠伸をひとつ。手で押さえずに豪快にしてやった。
馴れているのか親友二人は気にしない。
「で、何しに来たんだ」
一護は固まった体を動かした。腕を上げて肩をほぐす。そのとき見えたすらりと引き締まった二の腕が浮竹と京楽に眩しく映った。
「あ、ああ、その、まだ来たばかりだろう。何か困ったことでもないかと思ってな」
「そ、そうそうっ、何か手伝おうか」
視線は釘付けのまま。突然振られた会話に二人はどもってしまいながらも何とかそれらしい答えを言う。本当はただ会いたかっただけなのだが。
「困ったことはない。あるとすれば仕事サボってお前ら二人がここにいること。手伝うことなんてねえよ」
一護は視線も合わせずに辛辣な言葉を吐いた。その冷たい態度に浮竹と京楽は互いの顔を見交わすと同時にため息をついた。
「‥‥‥‥すまん」
「‥‥‥‥帰って仕事します」
珍しく素直に帰っていった親友二人の背中を、一護は複雑な表情で見送っていた。
「機嫌悪かったな」
「‥‥‥浮竹が名前呼ぶからだよ。浮竹のせいだ」
「お前だって呼んだだろうが。お前のせいだ」
二人並んで歩きながら、それぞれに罪をなすり付ける。いい歳をした大人がまるで子供のように言い合いを始めた。
すれ違った隊員達がぎょっとして振り返るものの当の本人達は隊長の威厳も忘れてぎゃんぎゃんと騒ぐ。馬鹿だの阿呆だの今時の子供のほうがまだマシな喧嘩をするだろう。
「一護の頬を撫でたりして、やらしい奴めっ!!」
「君なんて髪触ってただろうっ!」
一護に会いにいくとその本人はソファに横になって眠っていた。気配に敏感が一護が訪問者に気が付かないほどに疲れているのだと思い、二人は邪魔をしないように静かに起きるのを待っていた。諦めて帰るという選択肢はない。
だが心を寄せている女性を目の前にして、ただ忠犬よろしく待てる二人ではなかった。気が付けば傍らに座っていまだあどけなさの残る一護の寝顔を堪能していた。我慢ができずにすこしだけ触れてしまったのだが。
「浮竹のバーカっ!!」
「京楽のアホめっ!!」
幼稚な言葉で怒鳴り合う。そして睨み合うこと数秒。
「‥‥‥いい加減やめよっか」
「‥‥‥そうだな」
虚しい。一護に冷たくされてつい八つ当たりをしてしまった。
罵り合いから一転二人はとぼとぼと歩き始める。京楽は八番隊に戻るつもりはないらしい。浮竹とともに十三番隊の隊舎に着くと、ぐったりと寝そべった。
「一護ちゃん、どんな夢見てたのかなあ」
「‥‥‥知らん」
そんなこと、見ていないのだから分かる筈がない。
「彼の夢を見てたのかなあ」
名を呼んでいた。愛おしそうに。
それを聞いてしまえば一護がどんな夢を見ているのか想像するのは容易だった。聞いた瞬間、胸が締め付けられた。それに耐えられず、浮竹は一護の名を呼んでしまったのだ。
「分かってたんだけどさあ、つらいもんだよね」
「忘れられるものではないからな」
今でも想いは存在する。二人の間には、それこそ他人が入る隙などないような気がして。そしてそんな二人の間に今自分達は割り込もうとしている。罪悪感がいつだって己を苛んだ。
「こんなことならあいつが生きている間に奪えばよかった」
「またできもしないことを」
京楽の言葉にむっと顔をしかめるものの、きっとそんなことはできなかっただろうと浮竹も思い直す。あんなに幸せそうな二人の仲を引き裂くことなどできる筈がなかった。
「二人で別れろーって目で睨んだよね。彼限定で」
一護には穏やかな目しか向けていなかった。愛しい想いがときどき漏れだしていたが一護はすこしも気が付いていなかったのが今思い出しても悲しい。恩師にはいとも簡単に見破られ、周りも知っていた。親友という名の皮をかぶった狼二人の視線を分かっていなかったのは一護だけだ。
「想いを告げていたら、すこしは何かが変わってたんじゃないかと思ってしまうんだ」
浮竹の言葉を京楽は黙って聞いていた。
「もしかしたら、一人でいなくなることなどなかったんじゃないかってな」
あの日のことを思い出す。後悔してもしきれない。一護がどれほど悲しみに浸っていたのか、分かっていた筈なのに。
後悔を噛み締めるように、顔を伏せてしまう親友に京楽は口を開いた。
「もうどんなことをしても過去には戻れないんだよ」
「分かっている」
「それに戻ったところでどうするんだい。好きだって言って、どうするの。そんなこと言ってるけど、一護ちゃんの幸せを潰すような真似を君ができたとは思えないな」
あまりにも短かった一護の幸せ。
もしそれを奪うようなことをしていたらと想像するだけで心臓が凍り付きそうだった。
「ありもしなかったことを考えてどうするのさ。もう何もかもが済んだことなんだよ。あの時こうすればよかった、ああすればよかった、でもできないよね。どうしてできないのか、それはそうするべきではないからなんだよ」
「京楽、」
「まあ聞いてよ。そのときどんなに辛くても、悲しいことだとしても、それは未来へと持っていかなきゃならないんだ。過去じゃなくてさ」
いつになく斬り込むような京楽の言葉に浮竹は黙ってしまう。そんな親友を京楽は困ったように見返すと頬杖をついてごめん、と謝った。
「今のは山じいの言葉でした」
「先生の?」
「そう。同じようなこと、ボクも言ったんだ。そうしたら怒鳴られたよ。大馬鹿者っ!ってさ。あの杖で殴られたんだから」
戯けてみせながらも頭をさする。あの痛みと言葉は忘れられない。
「ここからはボクの言葉。‥‥‥さて、あの時から時は経って今はもう未来となりました。だからもう突っ走るしかないんじゃないかなーとボクは思うわけなんだよ」
「お前らしい」
「どうも。で、浮竹はどうするの。まだここでうじうじ考え込んでるの?いくら親友だとは言っても、ボクはそんなに待っていられないよ。一応恋敵なんだしさあ、足並み揃える必要もないでしょ」
それもそうだ。つい忘れがちになってしまうが京楽は統学院時代からの浮竹の親友で、そして宿敵だ。
浮竹は顔を引き締めると立ち上がる。
「後で先生にお礼を言わないといけないな」
「あれれ、ボクには無いの」
「恋敵なんだろう。そんな必要は無い」
すっかり闘志の戻った浮竹の顔を見て京楽は元気になりすぎだと内心複雑だった。だが自分一人が出し抜いたとしてもそれはそれで張り合いが無い。
親友なのだから。
初めの位置は同じでなくては。
「寒いな‥‥‥」
呟いた後で当然か、と一護は独りごちる。
開けた丘の上で一人立ち尽くしていた。冷たい風が容赦なく一護の体を叩き付けてくる。その強い風に打たれて体がふらりと傾いた。膝をつく。
正座するような体勢で一護はただぼんやりとしていた。冷たい風と冷たい地面が一護の体から暖かさを奪っていったが、それでもかまわないとそう思った。
これからは前へと進んでいく。そう決めた。だがときどきでいい、こうして弱って落ち込んでもいいだろうと一護は許しを乞うように問いかけた。ここでなら、いいよと言ってくれる、そんな気がしていた。
辺りを見回す。花は咲いていない。
この凍えるような季節に、それは当たり前のことだった。
春になればそれはもう美しく、そこら中に花が咲き誇る。二人でよく通った想い出の場所。
「一人で来ることになるなんて、思ってもみなかったぞ」
責めるように言ってみるが、答えてくれる者などいない。
ついには体を丸めて一護は蹲った。
無常だ。この世はなんと無常なのかと一護は嘆く。死者を導き、虚を倒し、だがどれほど多くの魂を救ってきてもそれはただの驕りにしか過ぎなかった。真に救いたかった魂は、まるでそんなことは必要ないとばかりに一護のもとを去ってしまった。
花はもう贈ってはくれないのか。
ここへ来るたびに一輪、一護の髪に飾ってくれた。ガラじゃないと、すぐに照れてはいたけれど。
霜で湿った草を誰かが踏みしめる音が聞こえた。
「一護」
目が熱い。
「一護ちゃん」
目が熱いんだ。
「顔を上げてくれ」
「ねえ、こっちを見てよ」
できない。きっとひどい顔をしているに違いない。それに今日、ひどい八つ当たりをした。顔なんて見せられる筈が無いだろう。
首を振る。スンと鼻をすすった。
「あっち、行けよっ、」
声は情けなくも震えていた。今は一人にしておいてほしい。
「泣いている親友を一人にしておくほど俺達は落ちぶれちゃいない」
「そうだよ。胸くらいいつでも貸してあげるからさ」
「いや、俺にしておけ。京楽はきっと酒臭い」
「浮竹こそ、薬臭いよ」
そのいつもの応酬に一護はつい笑ってしまう。だが泣いていたこともあって、変に咽せてしまった。
「だ、大丈夫か」
二人掛かりで一護の背中を撫でてやる。大きな手が二つ、ぎこちなく一護の背中を何度も往復した。寒さで冷たくなっていた背中が暖かくなる。
そうしてしばらくするとようやく一護は顔を上げた。心配そうに見つめる親友が二人、一護の機嫌を伺うように顔を覗き込む。大きな図体をした男達の上目使いに一護は再び笑ってしまう。そのせいで涙もこぼれたがそのままにしておいた。
「ごめん」
泣きながら笑いながら、一護は謝った。今日のことだけではない、色々なことに対して一護は謝ったのだ。
そんな一護の涙を大きな手が包むように拭う。そしてそのまま顔が肩へと押し当てられた。薬臭い。きっと浮竹だろう。懐かしいにおいを一護は胸一杯に吸い込んだ。
「一護」
鼓動の速さを自覚しながらも浮竹は幸せだった。腕の中に収まる一護が愛しくてたまらない。
「浮竹、交代」
小さな声だったので浮竹は無視する。この幸せをもうちょっと噛み締めていたいのだ。
だが忘れてはいけない。もう一人の親友は恋敵なのだ。
「あっ、」
すかさず浮竹から一護を奪うと京楽は己の膝の間に入れて抱きしめてしまった。
頭上で繰り広げられる男達の攻防にも気付かずに一護は微睡むように目を瞑っていた。ほんのわずかに香る酒のにおいから京楽なのだろうと思い、遠慮なく胸を借りて泣かせてもらう。
自分にはもったいない二人だと思う。それも親友であり続けてくれるなんて、なんて自分は果報者なんだと一護は二人に感謝した。どんなに過ちを繰り返しても、二人は見捨てないでいてくれる。
そんな浮竹と京楽に報いたいと、そう思った。
「俺は、お前らに何をしてやれるんだろうな」
「一護ちゃん?」
体を離して一護は二人の顔を見据える。
「なあ、俺はお前らに何をしてやれる」
何でも言ってくれと一護は言う。その真摯な想いが込められた目を二人は同じく真摯な目で見つめ返した。
やがて懇願する。
「過去に、戻ってしまわないでくれ」
「振り返ってもいいんだ。でも戻ったまま、いなくなったりしないで」
再会した時と同じように手を握り込まれる。いなくならないでくれと言わんばかりに。
「俺達がいるということを忘れないでくれ」
「ボク達のこと、ちゃんと見てほしいんだ」
「一護」
「一護ちゃん」
夢を見ているような、そんな錯覚を覚えた。
無いのは花一輪。
「春になったら、」
きっと咲き誇っているだろうこの丘に。
「またここに一緒に来てくれるか」
そのときは、親友二人の髪に花を飾ってやろう。
今度こそ、心の底から二人に微笑みかける。
来年の春が待ち遠しかった。