戻る

  後悔したその日から  

 冬の雨は冷たく厳しい。
 凍えるような雨に打たれつつ己の口から吐き出される白い息を見て、恋次は一層寒さが増したような感覚に陥った。
 とにかく寒い。どれほど霊圧が高かろうとも自然現象の前では何の役にも立ちはしない。耳の先にはすでに感覚は存在せず、引き千切れてしまいそうだった。指の先はじんじんとした痛みを感じるだけで、今斬魄刀を振るえと言われても満足に掴めるかどうかも怪しい。
 せめて雪なら、と思う。傘もささずに走っていれば当然雨の雫で死覇装は濡れ、余計に体温が奪われていく。まさか自分が風邪を引くとは思わないがこの寒さは勘弁してほしかった。
 近道を行く。人影は見当たらない。この雨だ当然か、と恋次が思ったとき視界の隅に見慣れた色が映った。
 咄嗟に足を止める。
「‥‥‥一護?」
 日はもうとっくに沈んでいる。それほど遅い時間ではないがこの季節だ、辺りは闇に覆われていて夜目に慣れた恋次だからこそ一護のオレンジ色の髪に気付くことができた。
 だがそのオレンジ色の色彩も、夜の闇の中ではひどく暗い。
「なにやってんだ、あいつ」
 恋次と違って一護は傘をさしていた。死覇装とは別の黒く見える着流しを纏う姿は恋次にはなぜか別人に映った。こちらが息をするたびに白い靄が形成されるのに対して、一護にはそんな様子はない。呼吸が極端に浅いのか、それはまるで息をひそめる獣を連想させた。
 そうしている間も雨が恋次の体を容赦なく叩いていたが、それが気にならないほど遠くに見える一護に目を奪われていた。
 何かが違う。普段見る一護とは何かが決定的に違っていた。
 その一護は恋次に気が付いていないのか、歩いては立ち止まりの繰り返しで、時折何かが見えているのか雨で湿った闇をじっと睨んでいた。
 声を掛けるべきだろうか。だが一護を取り巻く雰囲気がそれを許さない。
 呼びかけようとしてやめる。中途半端に上げた腕をのろのろと下ろして恋次は再び目を凝らして一護の姿を見た。
 本当に一護なのか。同じオレンジ色の髪をした別人ではないかと疑ってしまう。だが流魂街でも、この瀞霊廷でも一護と同じオレンジ色の髪を恋次は見たことがない。
 霊圧を探ってみるが何も感じることはできなかった。雨がその姿だけではなく霊圧までも覆い隠しているようだった。
 こんな雨の日に一人で何をしている。好奇心ではない、心配の念からそう疑問が生じる。
 気の合う友人、最近では気になる友人だが、どちらにしても放っておけない。やはり声を掛けようと息を吸い込んだときだった。
 カッと一瞬辺りを白い光が覆ったと思うと間髪入れずに大音量が響き渡った。
 びりびりと地を揺るがすようなそれに近いと感じつつ、おかしくなった耳に手を当てる。一瞬光に照らされた一護の髪はまぎれもないオレンジ色で、やはり同一人物だと恋次は確信した。
 だが雷に一瞬視線を逸らした隙に一護の姿は消えていた。あるのは一護がさしていた傘一つ。
「どうなってんだよ」
 一護が立っていた場所に行き傘を拾い上げる。柄の部分には先ほどまで握っていた体温の痕跡などはない。この寒さにそれは仕方がないとは思いつつも、本当に一護がいたのかと恋次は再度疑いを持ってしまう。
 だがこのまま突っ立っていても仕方がない。一護のものだと思われる傘をさして恋次は家へ帰ることにした。




「これ、お前のか?」
 翌日恋次は十三番隊の隊舎に出向き、一護に会うなり昨日の傘を眼前に掲げた。
「違うけど」
「本当か?見覚えとかねえのかよ」
「ねえよ」
 不審なところなど何もない。普段通りの一護の様子に安心するものの恋次は納得できないでいた。昨日見たのは確かに一護であったはずだ。
「お前昨日の夜何してた」
「何してたって、家にいて特に何もしてなかったと思うけど」
「外に出たりしなかったか」
「してない。つーかお前は刑事か。何で昨日のアリバイ聞かれなきゃなんねえんだよ」
 眉間に皺を寄せて一護は睨みつけてくる。その目には疾しさなど微塵も浮かんではおらず、昨日の出来事が見間違いだったのだと恋次に告げていた。
「‥‥‥悪かったよ、俺の勘違いだ」
「よく分かんねえけどそうだろ。昨日は雨だったからな、外に出る理由なんてないし」
 話しかけたときもそうだったが一護は霊子機器の点検を続行した。不具合はないかと見ている一護の隣に恋次は腰を下ろした。
「なあ」
「なに?」
 視線を上げずに一護は返事をする。最近気付いたことだが一護の睫毛は日の光に当たるとオレンジとはいかないまでも明るい茶色に反射する。長さはそれほどでもないが、恋次は一護のそんなパーツが気に入っていた。いつか肩に手を置いてみて分かったことだが、自分と違って筋肉もそれほどついてはいないようだ。
「恋次?」
「いや、」
 狼狽える。自分が疾しいことを考えていたような気持ちになってしまい恋次は言葉を濁した。 
 声をかけたものの恋次は何を言えばいいものかと考えを巡らせる。生じた沈黙に、だが一護は気にも留めず作業を続けていた。気まずいのは恋次のほうでとりあえず当たり障りのないことを聞いてみる。
「お前さ、なんか悩みとかあるか?」
「別に」
「そ、そうか。‥‥‥いや、何かあるだろ」
「悩みねえ‥‥」
 数秒考え込んだように沈黙すると一護は突然立ち上がった。
「わりいけど俺これから現世で任務なんだ」
 点検の済んだ機器を懐にしまうと斬魄刀を腰に差した。
「一人でか?」
「ああ、一人だ」
 なぜかは分からない。恋次の中に不安が渦巻いた。
「悩みはあるかって聞いたよな」
 振り返った一護の顔が、昨日の一護と重なった。
「悩んでなんかいられねえよ。俺は、生きていくことで精一杯だ」
「‥‥‥一護、」
 声を出すがそれは掠れてしまっていた。
「悩んでなんかいられない。覚悟を決めて、死神になったんだから」  
 なにを、と聞こうとしたときにはもう既にそこに一護の姿はなかった。
 それはまるで昨日の雨の日の繰り返しを見ているようで。
 その日尸魂界は晴れ渡り、現世は雨だった。   




 しくじった。
 脇腹から流れる血が地を汚す。それが腕から流れる血とは違い黒ずんでいるのを見ると、内臓のどれかをやられたのかと考えた。だがそれも雨と混じると薄まり、意志があるかのように四方へと流れていった。
 呼吸はましだ、まだやれる、一護は手の中の斬月を握り直した。
 虚の高笑いが不快でならない。できるだけ気にはしないように努めてはみても、それは滑り込むようにして一護の耳を侵す。
「黙れよっ、」
 一瞬虚の笑いが止む。だが今度は少女のように甲高い笑い声となって一護を苛ませた。
「は、‥‥‥今度は、妹かよ」
 見たことのない虚だった。姿形は他とそれほど変わらない。だが特殊で、これほど最悪な虚を一護は今までに見たことがなかった。
 一護の知る人間達の姿を次々ととり、動揺したところに攻撃を加える。
 いい気分はしないが虚と分かっているのだから一護に躊躇する理由はない。虚が追えないほどの早さでもって目前へと距離を詰めた。
 終わりだ、そう心の中で虚に別れを告げた。
 だが斬月が切り裂く寸前、虚の形がぐにゃりと変わる。視界を焼くオレンジ色、それを見た瞬間一護の耳には大地を打つ雨の音だけが響いていた。  




 話し声が聞こえる。雨の音はもうしていなかった。
 瞼を開けるのでさえ億劫だった。生きているのかと、指先に意識を向けてみると命令通りにそれは動く。
「一護?起きたのか」
 薄く瞼を開く。なかなか焦点を結ばない視界に一護は目を細めて相手の顔を見極めようとした。
「一護」
 だがぼやけた視界でもその鮮烈な赤は一護にたった一人しか思いつかせない。
「‥‥‥恋次か‥‥」
「おう」
 明るい声。気を遣ってそうしているのかもしれなかったが、今の一護にはありがたかった。
 わずかにする消毒薬のにおいが、ここが四番隊だと一護に知らせてくる。
「虚は?」
「お前が倒しただろ。覚えてないのか」
「‥‥‥‥そうだったな」
 脇腹以外にも傷が増えている。左肩、よく心臓を貫かれなかったものだと自嘲した。
「虫の知らせか」
「なにが」
「怪我して倒れてんの見つけたのは俺なんだぞ」
 礼はねえのか、と軽く頭を小突かれた。だが担当する区域の違う恋次がなぜ一護を見つけることができたのかと、そう疑問に思ったのが顔に出たらしい、恋次が困ったような笑みを向けてきた。
「お前、なんか変だっただろ。昨日のお前は更に変だったけどよ」
「昨日は、」
「お前だろ。雨ん中に突っ立ってたのは」
 一護は何も言わない。だが肯定しているも同然だった。
「傘、ありがとな」
 意外な言葉に一護が目を見開いた。
「それとよ、何か悩みはあるか?この恋次様が聞いてやる」
 偉そうに、胸を反らせて恋次は言う。その様がおかしくて一護は笑った。だが無表情に切り替えると、ぽつりと言葉が溢れた。
「悩みなんて、」
「ああ」
「そんな生易しいもんじゃない」
 後悔だとか絶望だとか、この世のあらゆる負のものを掻き集めて、それはできてしまったのではないだろうか。そこに優しい感情など入る余地などなくて、ただ一生背負っていく。そのことだけが一護には分かっていた。
「虚を倒すとき、俺は一瞬だけど躊躇したんだ。その隙を突かれてのこのザマだ」
 恋次は黙って一護の話に耳を傾けていた。その真剣な顔に安心して一護は話を続けた。
「けど、」
 最後に聞こえた断末魔。よく知っている人のそれは、そのまま一護の心を引き裂いた。
「俺は虚を倒した。殺したんだ。‥‥‥当然のことだけど、それがいま、つらくて、かなしい、」
 最後は嗚咽とともに吐き出された。泣いた顔を見られまいと手で覆い顔を背ける。ううう、とくぐもった声が漏れてしまい、それが恥ずかしくて泣くなと命令を出したが、麻痺したように両目は涙を流し続けていた。少しも言うことを聞かないと、一護は自分自身を厭わしく思った。
 必死に嗚咽を堪える一護を見て恋次の胸が詰まる。一護の言っている意味を察していた。
 恋次が駆けつけたとき、一護の斬魄刀が貫いていたそれは若い女性だった。初めて見る、一護以外のオレンジ色の髪の持ち主。

『ごめんなさい、でも、俺は決めたんだ、母さんがっ、‥‥になってたら、俺が、やるしかないって、ごめんごめんっ、俺のせいなのに、本当にごめんなさい』

 子供のように謝っていた。雨が一護の顔を濡らし、泣いているのか分からなかった。だが泣いていたのだろう、一護の両目だけでは足りないとばかりに天が涙を流し続けていた。
「一護」
 押し殺したような一護の声が恋次の心を波立たせた。こっちまで泣いてしまいそうで、いっそのこと大声を上げて泣いてくれればと思う。
「そんなふうに泣くなよ」
 掛ける言葉が見つからなかった。頭の悪い自分に嫌気がさす。
「一護」
 抱きしめてやりたい、そう思ったときには既に一護を抱きしめていた。体重をかけないようそっと、自分にこんな気遣いがあったのかと笑う余裕などなかった。
「一護、一護、」
 何度呼んだか分からない。眠ってしまうまで、眠ってしまっても恋次は一護を抱きしめ続けていた。




 ちゅんちゅん、という雀のさえずりではなく「痛えーーーー!!」という叫び声で恋次は目を覚ました。どこのどいつだ朝からうるさいのは、と苛立ったがここが四番隊だと気付き、先ほどの声は運ばれてきた負傷者だろうと思い当たる。
 一護は、と顔を上げるとすやすやと寝息を立てていた。それを見てほっと息をつく。
「俺、寝ちまったのか」
 ベッドの縁に顔を乗せて眠っていたらしい。腰が痛んでいた。体を伸ばすと再び椅子に腰を下ろす。だいぶ血色の良くなった一護の顔を恋次は眺めることにした。
 すこし目が腫れているようだが昨日よりはずっと健康そうだった。鋭い目つきも隠れてしまえば一護をおとなしくさせていた。
 細い首。自分の無骨なものとは違ってすっと鎖骨へと流れている。喉仏は無いが、十四、五歳の男ならばそんなものなのだろうと思った。
 抱きしめたときの感触を思い出す。全体的に細くて柔らかかった。傷を痛めないようにそっとだったが腕にすっぽりと収まったのには驚いた。落ち着いてくると段々そわそわしだしたのを覚えている。抱きしめるなど、随分と大胆なことをしたものだと自分でも信じられない。
 顔が熱くなる。手を当てれば火照っていた。
 もう観念して認めたらどうだ。そんな声が聞こえてきた。
 友人の一人だと思っている一護に、自分はどうやらただならぬ思いを抱いてしまっているらしい。
 だが男。一護は男だ。それが悩みというか壁というか、恋次を立ち止まらせていた。そんな趣味は断じて無かった筈なのに、いつの間に自分は宗旨替えしたのだと恋次には不思議でならなかった。
 しかし一晩経った今、それがどうしたと開き直っている自分がいた。どこの誰が決めたのか分からない常識に囚われることなどないと、不安定だった気持ちがしっかりと固まっていた。
『悩んでなんかいられない』
 お前のせいだぞ一護。この言葉を言った一護本人が、恋次の背中を押す形となった。
「おい、一護」
 とりあえず告白だ。だが恐いので一護が眠っている間にする。
「好きだ」
 ぴくりと一護の指先が動くが恋次は気が付かない。
「好きだ、一護」
 一護の頬がわずかに紅潮してきたが、必死な恋次にはそれに気付く余裕は無かった。
「‥‥‥お前が男でも、好きなんだ」
 そこで一護の眉が、ん?というふうに顰められた。だがすぐさまひくりと唇の端が引きつると一護は突然笑い出した。
「え、はあっ!?」
 突然の異変に恋次が動揺して立ち上がる。だがそれを気にもせずに一護は笑い転げいていた。
「うあははははははは!! ぐおっ、痛えっ!!」
 傷に響いた。一転呻き声を上げる。
「な、なんだよっ! てめ、起きてたなっ!!」
「‥‥あは、ははは、‥‥ううっ、やっぱり痛え、」
「無理して笑うなよっ!」
 最悪だ、聞かれていたなんて。しかも笑われてしまった。
 涙を浮かべるほど一護は笑うと、狼狽えている恋次に訂正を入れてやった。
「女だって、」
「ああ?」
「俺、女だよ」
 たっぷり数分は固まった。
「‥‥‥う、嘘つけてめー!! だって胸ねえじゃねえかよっ!!」
「悪かったなっ貧乳でっ!! これでも寄せて上げりゃあ谷間はできんだよっ!!」
「ありえねえってっ!」
「まだ言うかっ!」
「俺にとってこんなに都合のいい展開ありえねえ!!!」
 ついには頭を抱えて座り込んだ。怒鳴り合って疲れたのか一護もベッドに横になって恋次の回復を待った。
 扉の外からは騒々しい人の話し声と行き交う足音が聞こえてきた。先ほどの恋次との怒鳴り合いが漏れてはいないか一護は心配になったがそれはもう後の祭りだ。
 うんうんと唸っている恋次を一護は優しい眼差しで見つめた。目が覚めてすぐ傍に恋次がいてくれて良かったと思う。告白には驚いたが素直に嬉しかったと言えばこの男はどうするだろう。
「おい、恋次」
「‥‥‥‥なんだよ」
「告白、ありがとな」
 自分の『傘、ありがとな』くらいの軽さで言われてしまい、恋次はどう返していいものか迷ってしまう。だが黙っているのも男が廃るのでぶっきらぼうに返事をした。
「おう、どういたしまして」
 髪と同じくらい顔を赤くした男に、一護はからっと晴れた笑みを向けた。




戻る

-Powered by HTML DWARF-