メドゥーサの瞳
「いやだ」
「どうしても?」
「絶対駄目だ」
「こんなに頼んでるのに?」
「断固拒否する」
「一護さぁん」
「‥‥‥‥‥」
「ああっ、目を逸らさないでくださいよ」
一護は目を逸らし、ついでに両手で覆って隠してしまった。
「お願いします。頼めるのは一護さんだけなんです」
「別の奴に頼めばいいだろ」
「アタシってば人見知りなんです」
「じゃあこれを機会に克服しろ」
「‥‥‥仕方ない」
諦めたか。一護がほっと息をついたのもつかの間、目を隠していた両手を掴まれるや否やばっと引き剥がされた。そして真正面から浦原に見つめられる。
「お願いします」
「う、」
「ねえ、一護さん」
金の髪に見え隠れする瞳が一護を貫いてくる。それに見つめられれば一護はうまく思考が働かなくなるのだ。
「一言、はいと言ってくださいな」
「ううう、」
駄目だ、言うな俺。
だが抗えない力が浦原の瞳には宿っていて、一護がこれから逃れられた試しなど一度もなかった。
「頼み、聞いてくれますよね」
吐息が触れそうなほど近くで囁かれて、一護はついに観念した。
「‥‥‥‥はい」
一護は浦原のことを密かにメドゥーサと呼んでいた。その瞳に見つめられてしまうと固まってしまい、己の意志を保っていられないからだ。実際のメドゥーサはそんな甘っちょろいものではないのだろうが、一護はこれほどうまい例えはないと思っていた。
目の前に迫ってくる技術開発局。相変わらず「オゲゲゲゲ」とか「グギャー!」などの奇怪な叫び声が聞こえてきていた。幼い頃に行ったお化け屋敷を一護は思い出す。違うのはここにいるのがすべて本物だというところだ。
「よお、一護」
「阿近さん」
廊下から曲がって出てきたのはもうすっかり顔なじみとなった阿近だった。浦原のツッコミ役、と密かに思っていることは内緒だ。
「局長に呼ばれて来たのか?」
「ああ」
「お前も大変だな」
阿近は一護が浦原の目に弱いことを知っていた。見つめられると否と言えないのだと相談されたことがあるからだ。だったら目を瞑ればいいんじゃないかと言ってみたが、その間に何されるか分からないからそれはできないと一護に言われた。
それもそうだ、目なんか瞑れば浦原は口付けしてもいいと勝手に解釈しかねない。
「眼鏡でも掛けようかな。そうしたら歪んで見えていいかもしれない」
「やめとけ」
よほど切羽詰まっているのか最近の一護は突拍子のないことを言う。
阿近はため息をついて憂鬱そうな表情の一護の頭を撫でてやった。自分にできるのはこれくらいだ。浦原の眼力を無効化する眼鏡の設計図を考えてはみるが、結局は一護の心の持ちようなので無駄だとすぐに打ち消した。
「!!」
「わっ」
突然阿近に頭を引き寄せられて一護は驚いた。だがすぐ横の壁にカッと硬質の音が響いたので見てみると、そこには銀色に光るメスが突き刺さっていた。
「一護さんから離れなさい」
「局長‥‥‥」
やっぱり、と呟いた先にはメスに負けないほどぎらぎらとその目を光らせた浦原が立っていた。投げたのはもちろん浦原だ。
「てめえっ、何しやがるっ!!」
「ご、誤解です、アタシが狙ったのは阿近のほうで」
「どっちにしろ駄目だろっ!!」
ばしん、と浦原の頭を叩いて一護は説教した。
阿近はその光景を見て、浦原相手にこうも容赦のない態度が取れるのは一護ぐらいだと感心した。自分が言うのもなんだが浦原は鬼畜だ。ついでにねちっこい。
己に対して無礼な態度をとる輩には誰であろうと容赦しない。それが女であってもだ。浦原にとっては雌か雄、それぐらいの違いでしかないのだから。
だが一護にどれほど殴られようが踏みつけられようが浦原の表情には怒った気配は微塵も感じられなかった。むしろ嬉しそうだ。
「ニヤニヤすんな。反省してんのか」
「してますとも。次は麻酔針にします」
「すんなっ!!」
まるで夫婦漫才だ。すっかり忘れられた阿近はそっとその場を離れることにした。気を利かして二人にしてやる。無神経に居続けるといつまたメスを投げつけられるか分かったものではないからだ。
浦原の頼みは簡単で、そして一護にとって危険極まりないものだった。
二人きり。気を抜かないでおこうと一護は警戒を高めた。
「きったねえな‥‥‥」
部屋一杯を埋め尽くす書類や研究資料、唯一綺麗なのは実験台周辺のみだ。
そして散らかされた場所を片付けることが今回一護が頼まれた仕事だった。
「どうにも整理整頓って苦手でして」
「片付けられない男か」
浦原の変態的な性格もその頭脳や死神としての実力で十分補っていると思っていたのだが、身の回りに関する雑事がからっきし苦手とは、結局は駄目な部分が一歩抜きん出ていると一護は結論づけた。
「おい、」
「なんです?」
「鍵閉める必要があんのか」
浦原が後ろ手に扉の鍵を閉めたのを一護は見逃さなかった。
「やっぱ帰る」
「待って! 冗談です、お約束ってやつですよっ!」
「俺になんかしたら夜一さんに言いつけて当分は口利いてやんねえからな」
「肝に銘じておきます」
ものすごく胡散臭いものでも見るかのような一護の視線に浦原は真面目な顔で受け答えした。それを見て納得しきれないものの一護は袖をまくり上げると掃除に取りかかった。
浦原にとっては眩しすぎる二の腕を惜しげもなく晒す一護に、部屋の主である浦原はじっと眺めて過ごすことにした。どうにも顔がにやけて仕方がない。ときおり一護が睨んでくるがそのたびに顔を引き締めていた。
部屋の掃除などただの二人きりになる口実に過ぎなかった。普段は夜一やその他による邪魔が多いが、この技研の研究室ならばそれはないだろう。
なんだかんだ言って一護は浦原に甘い。今日のことも夜一には言わなかったようだ。
自分の目に弱いと知ったときから、浦原は己の目を最大限に活用するようになった。じっと見つめればたちまちに一護は顔を真っ赤にして固まってしまう。それを見ると自分の想いは一方通行ではないと期待してしまうのだ。
少しでいい、想いを傾けてほしかった。だが素直でない一護はなかなか友人以上の好意は見せてはくれない。浦原はそれがなんとも歯痒かった。
とりあえず遠回しに攻めてみる。
「家事の上手な女性って素敵ですね」
「ふーん」
「あ、アタシ料理だったらできるんですよ。肉と魚の解体なら任せてください。一護さん一人に家事をさせたりはしませんから」
「何の話だ」
一護は極力浦原のほうを見ないように努めた。そして掃除の手を早める。
「なんかもう後ろ姿が奥さんって感じですよね。幼妻とか、いいなあ」
うっとりと呟く浦原は無視だ。一刻も早くこの部屋から脱出しようと一護が乱暴に手を動かした瞬間。
「うぎゃあ!!」
一護が悲鳴を上げて飛び上がった。
「どうしたんです? というか『うぎゃあ』って。もっとこう『きゃあ』とか」
「いいい、今、足下、」
一護は聞いちゃいなかった。信じられないものでも見たかのように目を見開いて床を凝視していた。
「ネズミでも出ましたか」
「ネズミ!? 明らかに足が四本以上あったぞっ!!」
浦原が近づいてみるがそれらしいものは陰も形も見えない。
「一体何飼ってんだ」
「何も飼ってませんよ」
どこかの実験動物が逃げ出したか、そう考えたとき足下を何かがさっと横切った。
「出たっ!!」
「あらら」
傍にいた浦原に一護が飛びついた。かつてないほどの密着感に浦原の顔が途端に締まりのないものとなる。
「み、見たか、今のっ!足が、ぞろぞろってっ」
「滑らかな動きでしたねえ」
浦原にはそうでもなかったが一護にとっては気持ち悪くて仕方がないらしい。ぎゅうぎゅうとしがみついてくる一護にちゃっかりと腕を回して、浦原は謎の生物に感謝した。
「気持ちわりい。俺、ああいうの、駄目」
「虚もどっこいだと思いますけどねえ」
「あれとこれとは違うんだよっ」
一護にも一般の乙女のように苦手なものがあった。怯えて体を縮こませる一護が小動物のようで庇護欲を誘う。実際には小動物を見ても何とも思わない浦原だが一護は別だ。新たな一面を発見し、その嬉しさに浦原は一護の体に回した腕に力をこめた。
途端に一護の肩が跳ね上がる。
「も、もういいから」
離れようとするが浦原が解放するわけもなく、逆に一護を深く抱き込んでしまう。
「浦原、」
「一護さん」
そして正面から一護の目を覗き込んだ。さきほどまでは謎の生物に釘付けだった一護は今度は浦原の目に釘付けになる。少しも逸らすことのできない浦原の視線に、一護は石になったようにぴくりとも動くことができなかった。
だから嫌だったのだ。こうなるのではないかと一護は分かっていた筈なのに、それでも浦原に見つめられればそんな考えは思考の彼方へと消えてしまう。気付けば浦原の接近を許してしまい、危ういところで夜一や他が助けてくれるのだが、今回ばかりはそれは望めない。
「ぅぎ、」
腰に回った手が一護の背中を撫で上げて、思わず変な声を出してしまった。顔が先ほどよりもずっと近い。
「口付けしても?」
「だ、駄目、だっ」
浦原の胸に手を突いて少しでも距離を取ろうとするが、そこはやはり力の差か、肩に腕を回されて引き寄せられれば一護にはどうしようもない。
「よ、夜一さんに言いつけるぞっ」
「どうぞ」
「口、利いてやんねえからなっ」
「それは、寂しい」
そう言って本当に切なげに眉を寄せるものだから、感じなくていい罪悪感を一護は感じてしまう。そしてなんだか胸がきゅんとするような、これは何だと思ったところで頬に何かが当たった。
「‥‥‥怒った?」
怒るも何も一護は呆然としていて浦原の声さえ聞こえていなかった。何をされたのか脳が理解しきれていないらしい、その後の驚きなり怒りなりの筋肉の動作が始まってもいないのだから。
だがゆっくりと手を頬へと当てると一護は確かめるようにわずかに撫でた。
「嫌でした? ねえ、何か言ってください」
反応の無い一護に不安になってしまう。いくら目に弱いといっても一護が自分の我が儘を聞いてくれるのは少なからず好意があるからだ。そう思って頬に口付けたのだが、早まっただろうか。
「ああ、俺、」
ぽつりと呟いた一護の様子が変だ。頬は先ほどから紅かったが、今の一護は首元まで真っ赤だった。目も潤んで困ったように浦原を見上げてくる。
「どうしよう」
「一護さん?」
ゆっくりと瞬きをすると一護は告げた。
「俺、嫌じゃないんだ。‥‥‥どうしたらいい?」
一瞬理性を失った。
気付けば浦原は深く一護に口付けていた。食らいついていたと言ったほうが正しいのかもしれない。突然の浦原の行動に一護は驚いて目を見開くものの、浦原の愛しげな視線とぶつかるとそれに安心して再びその目を閉じた。
少しも嫌ではない。意外にも柔らかい浦原の唇を受けて一護はぼんやりと思った。
浦原の金と一護のオレンジの髪が混ざり合う。さらに深く口付けてきた浦原に一護は抱き上げられると、唇は重ねられたまま実験台へと乗せられその身を横たえられてしまった。
覆いかぶさるように口付けてくる浦原に、一護の息が上がってしまう。自分が横たえられているなど気付きもしなかった。
だがしゅる、という布が擦れ合う音にさすがの一護もおかしいと目を開けた。そこには見たことも無いくらいに目をぎらつかせた浦原がいた。逆光で陰る羽織姿が別人のようで、そしてその手に握られている物を見て一護は目を剥いた。
「ああっ、てめ、いつの間にっ」
死覇装の腰帯だ。どうりで緩いと思ったのだ。慌てて一護がはだけないように衿の合わせを握りしめるが、同じく実験台に乗り上げて上から見下ろしてくる浦原に対しては極めて劣勢だった。
「怖がらないで。大丈夫、優しくしますから。まあちょっとは痛いでしょうが」
「何の話だっ!!」
やばい、ここまでは許していない。互いに情を持っていることは認めるがそれとこれとは別問題だと一護は青ざめた。好きだと自覚してその日のうちになんていくらなんでもあれだ。恋に対する憧れなんてものは持っていないと思っていたが、これでも一応女なのだと今さらながらに自覚した。
「怖くない怖くない」
「怖えよっ!!」
必死になって浦原を押し返すが、下からの体勢では不利だった。片手は死覇装を押さえているのでなおさらだ。
「そんなに暴れるんなら縛っちゃいましょうかね」
この腰帯で。
ぶらんと目の前に垂らされた己の腰帯を見て一護は恐怖におののいた。そして浦原の目が本気だったので更に恐怖した。
「無理! マジ無理!!」
「抵抗されると男ってやつは燃え上がるものなんです。ああでも、従順な態度もときには燃えますが」
にやりと野性的に浦原は笑む。その初めて見る表情に一護の背筋に悪寒が走った。好きな男に対して悪寒だなんてやはり自分の気持ちは勘違いなのではなかろうかと疑いを持ってしまう。
己の下でふるふると震える一護を見て浦原は知らず唇を舐める。いつも使っている実験台の上という要素も興奮を加速させてしまっていた。この上に上がった以上、自分の思い通りにならないことなど一つも無いのだから。
「防音はばっちりです。安心して啼いてください」
「よ、夜一さーーーーん!!」
心の姉を呼んだ瞬間奇跡は起こった。
覆いかぶさろうとした浦原に何かがぶつかって隙が生じたのだ。それを一護が見逃す筈が無く、すばやく浦原の下から逃れると部屋を飛び出した。
間際に見た謎の生物に感謝しながら。
一護は夜一に言いつけた。そして浦原を無視の刑に処した。
「一護さん、許して。ほんのちょっと早まっただけなんです」
「ほんのちょっとじゃと? よく言うわ」
「夜一さんは黙っててください」
あともう少しのところで浦原は一護を逃してしまった。その原因ともいえる謎の生物は目下捜索中だ。見つけ次第血祭りだと心に決めていた。
「一護さん」
浦原は一護の正面に回り込むとじっとその目を見つめた。ずっと無視をしていた一護が視線を合わせる。
しかし。
「‥‥‥っは!」
「ええ!?」
鼻で笑われた。
「夜一さん、行こう」
「大うつけめ」
けらけらと笑う夜一を伴って一護は去っていった。
一人取り残された浦原は呆然と立ち尽くすばかり。
一護が想いを自覚したとき、もうその瞳はメドゥーサの瞳ではなくなった。
今はもう愛しい男の瞳。
石になどなってられるかと、一護の呟きを聞いた者は誰もいなかった。