あと十九個
付き合うことにはもちろん反対だった。
初めて聞かされたときはふざけんなって思ったし、一体どんな汚い手を使いやがったのよこの野郎と罵った。
その証拠に一護はなんだか疲れたようにぐったりしていて、無理矢理付き合わされてるなー感がひしひしと伝わってきたのだ。
このまま付き合ったって一護が振り回されるだけだ。そう言ったら、一護はもう振り回されてると力なく言っていた。これは良くない。
この男にガツンと言ってやれるのは自分しかいない。
「ギン、付き合うなんて駄目よ」
ガツンとまではいかないまでもゴツンと言ってやった。
だが案の定ギンはへらへら笑うだけで少しも堪えていないようだった。
「初めて付き合う男があんたなんてあんまりだとは思わないの」
一護も可哀想に。いきなりこんな男に捕まるなんて。
恋愛は徐々に階段を上っていくようなもんなのに、階段どころか壁、むしろ落とし穴に等しい男に目をつけられるなんてひどい話だとつくづく思う。
「乱菊はボクらのこと反対なん」
だからさっきからそう言っている。
睨んでやると相変わらず底の見えない笑みを向けてきた。いや、普段とはちょっと違う。どこがどう違うと聞かれてもはっきりとは言えないが、なんかこうあれだ、とにかく違うのだ。今の笑みは何か企んでいるときにする笑みなのだ。
「よーく考えてみ」
「何をよ」
先ほどから逃げようと試行錯誤している一護を引き寄せると、ギンは無理矢理頬ずりをした。
ちょっとちょっと、一護はぎゃって叫んで鳥肌立ててるんだけど。
本当に二人は想い合っているのかと疑いを持ったとき。
「僕と一護ちゃんが結婚したら、乱菊にとっては自分の妹も同然になんねやで」
そのときの衝撃を擬音で現すとなんだろうか。ピシャーン!もしくはガシャーン!みたいなとにかくすごい感じで。ついでにビビッと来たがそれは今はどうでもいい。
一護が妹。
私の、妹。
「どうや、ビビッと来たやろう」
来た。
いやいや、騙されるな。
「ボクと乱菊は姉弟も同然やもん。一護ちゃん、乱菊のことお姉はんって呼んだらなあかんで」
「お姉はん‥‥。ああ、お姉ちゃんね」
「!!」
おのれ、ギン。私のツボを的確に突いてくるとは。
自分の読みが大当たりしたからってにやにや笑うんじゃない。
「乱菊も嬉しいって。良かったなあ、ボクらのこと認めてくれたで」
「認めてなんか、」
「一護ちゃんのお姉はーん」
くそ。くそくそくそ。
こんなの反則だ。
「ほら、一護ちゃんも言うたって」
「‥‥‥乱菊、お姉ちゃん」
そんな、そんな頬を赤らめて照れたように呼ばれた日には。
「紹介するわ、私の妹よ」
乱菊は誇らしげにそう言った。
だが周りの反応はまちまちで、特に男性陣には受けが悪かった。
「何が妹ですか! 悪魔に魂を売って!!」
「そうっすよ! 己の利益のためにあんな男との交際を認めるなんて信じらんねえ!!」
「お黙り!!」
修兵には平手を、恋次には蹴りをくれてやった。
自分でもちょっと後悔しているのだ。だが一護に姉と慕われることに比べれば裏切りの一つや二つ、屁でもない。
「私がガツンと言ってやるってあんなに息巻いてたくせに‥‥!」
「そーだそーだ!」
小さな声でいまだに抗議をする後輩達は鋭い視線で黙らせた。
「ちょっとした油断が命取りになったわ。さすがの乱菊さんもまだまだってことね」
そう自分に言い訳して乱菊は大事そうに一護の肩に手を置いた。
「嫌なことされたらお姉ちゃんに言うのよ?」
「う、うん?」
一護はいまだ理解しきれていないらしい。戸惑ったように頷いた。
「無理矢理口付けされそうになったら目を突いてやりなさい。細いけど、狙えば致命傷よ」
基本的に好きな子は苛めるタイプの幼馴染みだ。苦労しそうな義妹の苦労が目に見えるようだったが、アドバイスといったらこれぐらいしか思いつかない。
乱菊は困ったように笑って一護の目を見返した。
「根は歪んでるけど、あれでもいいところがあるのよ」
「たとえば?」
「‥‥それはあれよ、あんたがいいと思ったところがいいところよ」
逃げたな、と修兵が呟いた。
それを無視して乱菊は一層優しい笑みを一護へと向ける。
「不肖の弟をよろしくね」
そう言った乱菊の顔はまぎれもない姉の顔で。
一護は今度は素直に頷いた。
「ぎゃー!!」
三番隊の隊長室から聞こえてきた断末魔に、今まさに入ろうとしていた平隊員がびくりと躊躇する。次いで殺気にも似た霊圧をぶつけられたので、扉の脇に書類を置くと一目散に逃げ出した。まるで入るなと言われているようなそれに、その判断は実に懸命だった。
一方部屋の中では遠ざかっていく誰かの霊圧に、逃げる好機を逃したと一護は愕然とした。だが死覇装の上から胸を触られそうになり慌てて向き直る。
「おお、お前、当分は何にもしないって言ったっ!!」
「そんなん嘘や」
隊長室での攻防。今回は一護の劣勢で始まった。
書類を届けにきてみると隊長室には誰もいなかった。自分でもナイスタイミングだと一護は思い、書類を置いてそそくさと帰ろうとしたところ突然後ろから抱きつかれたのだ。
迂闊だった。隊長室なんて敵の本陣も同然だ。気配を隠していた市丸に一護はいとも簡単に捕まってしまった。だが後悔先に立たず、一護は押し倒され死覇装を脱がされかけていた。
「ここ、職場っ! 今、仕事中っ!!」
混乱して片言になってしまっているが一護は必死で気付かない。
「仕事場なんて燃えるわあ。声、我慢せな外に聞こえてまうで」
「変態! 助平!!」
触れられまいとする一護は己の体をうつ伏せにして必死になって抵抗した。
その背後から覆いかぶさったギンが無理矢理手を入れようとするが、貞操の危機を目の前にした子羊は予想外に手強かった。
「恥ずかしがらんでええよ。胸なんてボクが大きゅうしたるから。まあ乱菊までとはいかんけど、それなりに」
乱菊、という名前に一護が思いついたように目を見開いた。
「そうだっ、乱菊さんはまだ口付けまでだって言ってただろ! それ以上やったら別れろって言ってた!!」
「ボクより乱菊の言うこと聞くんか」
「俺の姉ちゃんも同然なんだろ!?」
そう言って付き合いを認めさせたのだ。知らないとは言わせない。
ギンはむうっと眉を寄せた。そんなもの、付き合いを認めさせる口実に過ぎない。二人の仲について口出しするなんて、姉云々は余計だったと後悔した。
「触ったら別れる! 別れるからな!!」
「着物の上からでも?」
「別れる!!」
どうやら意志は硬いらしい。
だが顔だけを背後にいるギンに向けて睨んでくる一護ははっきり言って逆効果だ。そんな涙目で見上げられれば襲ってくれと言っているようなものだった。
だが男の勝手な解釈に気付きもしない一護の目からは今にも涙が零れ落ちそうで、それを勿体無いと思ったギンはぺろりと舐めとった。
「美味し」
「変態っ」
その変態と付き合っているのは一護だ。
一護自身、この男の何がよくて付き合っているのか自分でも分からなかった。分からなかったが、それでも好きだった。
「俺のこと、好きなら我慢しろっ」
「その言い方卑怯やわ」
卑怯と言われてかちんときたのか一護が一層睨んできた。
むしろ卑怯なのはギンだ。無理矢理力で押さえ込んでことに及ぼうなど男の風上にも置けない。
「好きやから我慢できひんの。好きやから、ひどいことしたいって思うんよ」
「いたいっ、」
うつ伏せになった一護の胸をギンの長い指が容赦のない力で掴んだ。そして涙ににじむ一護の目を間近に覗き込む。
「別れる?」
「‥‥わ、別れねえよ!」
悔しくてたまらないというように一護は目を逸らしてしまった。
いいところなんていまだ一つも見つけられていない。本当に、何でこんな男が好きなのか自分自身に聞いてやりたかった。
「乱菊さんに言いつけてやる、」
「乱菊乱菊言わんといて。恋人はボクやろう?」
うなじに感じた熱に、口付けられたのだと一護は分かった。逃げようともがいたが腹に両手を回されてがっちりと捕まえられてしまった。
その強すぎる力が恐い。このまま、骨が砕けるまで抱き締められそうで、一護は知らず唾を飲んだ。
「あんまり他の人間の名前言うたら妬いて妬いて、ボク、一護ちゃんに何するか分からんで。愛と憎しみは紙一重って言うやろ、ぎりぎりのところでボクの気持ちが愛にいっとるだけかもしれん。やからこそ、一護ちゃんのこと苛めてやりたいって思うんかもしれんなあ」
オレンジ色の髪に顔を埋めて耳へとそっと囁いてやると、そこが弱かったのか一護の体がわずかに震えた。
「可愛がってやりたいって思うんやけどなあ。なんでやろ」
それと同じくらい苛めてやりたいと思う。
泣き顔を見たいと思うのだ。
「俺はっ、」
「ん?」
「俺は、苛めたいなんて思わねえよ、お前のこと好きだけど、そんなふうには思わない、」
ぐす、と鼻をすする音が聞こえて、それから逸らしていた目を一護は再び合わせた。
「お前のこと、何で好きかも分かんねえんだっ、ただ好きで、好きだから優しくしてほしいって思うのに、」
お前は意地悪だ、と小さな声で訴えた。
そういえば泣かせたら別れさせると幼馴染みに言われたのをギンは思い出した。涙の一滴でも落とさせてみろ、そのときはしばいたる、と下手くそな関西弁で言われたのだ。
先ほど落ちそうだった涙は自分が舐めとったので無しだとして、だがこのままだと一護は泣いてしまうかもしれない。
「泣かんといて」
「泣いてねえ!」
ギンは女の甲高い声は苦手だが一護の声は高くもなく低すぎることもない。だから怒鳴られても嫌になることはなかった。
「ボク、一護ちゃんの声好きや。もしかしたら、そうやって怒鳴ってもらいたくて苛めるんかもしれんなあ」
露出した首に唇を寄せて、どこかうっとりとしたようにギンは呟いた。
「それに好きやからこそ憎うてたまらん。愛しい人のもんはどんな欠片でもやりたないって思うんや」
その声を聞くのは自分だけでいい。
その姿を見るのも自分だけでいい。
そして心は、自分のものだ。
「一護ちゃんは? ボクの欠片、誰かにやってもええって思う?」
恐い雰囲気が薄れたような気がして一護は体ごとギンへと向けた。
ようやく正面から見つめてくれた恋人に、ギンは唇を吊り上げた。
「どう? ボクが他の人と仲良うしてたら」
「‥‥ムカつく」
殴ってやりたいと思う。
嬉しいことを言ってくれる一護にお礼とばかりにギンは唇を啄んだ。
「分からんかもしれんけど、苛めることで自分がどれだけ相手のことが好きか思い知らせてやりたいって思うんや。それで流す涙を見て男は興奮してまうの」
「お前も?」
「うん。一護ちゃんの泣き顔は格別や。もっと苛めたいって思うし、もっと優しくしたいとも思う」
「優しくだけしろよ」
自分は好きだと思うだけで精一杯だ。照れてぶっきらぼうな態度に出ることはあるが、本気で苛めたいとは思わない。本当はギンの望む通りすべてを受け入れてもいいと思っているが、照れと恐怖の二つがそれを邪魔していた。
もっと優しくしてくれれば、そうすれば自分だってもっと素直になれるのかもしれないのに。
「お前のいいところってまだ見つからない」
「んーボクも分からん」
そう言って笑うとギンは一護の頬を優しく撫で、のしかかったままの体をどかせようとした。
あれだけ無理強いしたのに、あっさりとどくギンに驚いたのは一護だった。
「泣かせてしもたら終いや。やから今日はここまで」
離れていく温もりに一護は咄嗟に羽織を掴んだ。
突然引き寄せられてそのまま一護にぶつかりそうになったギンは咄嗟に手をついた。
「見つけた」
「ええ?」
「お前のいいところ、見つけた」
自分がいいと思ったところがいいところだ。だから間違っていない。
「苛めるけど、最後は優しいんだ」
やっと一つ見つけることができた恋人のいいところに、一護は笑みを浮かべた。そして顔を浮かせて記念とばかりに一護のほうから口付けを送る。
「最後は優しくしてくれるんなら、いくらでも苛めてもいいぞ」
よほど驚いたのだろう。ギンは口も目もぽかんと開いて一護を見下ろしていた。
それが可笑しくて、ああもしかしてこれが苛めたいってやつなのかと思ったところで、一護は唇と後頭部に衝撃を感じた。次いで体全体に再び温もりが落ちてきた。
「苛めたる」
だがそう言うわりには唇は優しく一護のそれをなぞっていく。いつもは慣れない一護をそっちのけで強引に舌を差し入れてくるというのに、今はゆっくりと唇をはんでいた。
一護も抵抗しない。今はただ嬉しくて、そしてすべてをギンに委ねていた。
だから先ほど掴まれた胸に再び手が伸びて触れられてもそれを払うような真似はしなかった。
「ごめんな」
力任せに握ったことを謝ったのだろう、労るように撫でられた。それから脇から中心へと寄せるように何度も揉まれて一護の唇から吐息が漏れた。
「気持ちええ?」
「ん、」
返事とも吐息ともつかないため息が溢れて、それに気を良くしたギンが手の動きはそのままに、一護の口腔内へと舌を這わせた。いつもは逃げる舌が今は素直に絡まってくる。
しばらくは息づかいと水音だけが聞こえていたのだが、絹擦れの音が聞こえて一護は目を開いた。
「あ、ギン、」
腰回りが楽になったと思ったら案の定帯を解かれていた。
「あかん? 初めては苛めたりせえへんよ」
優しくするからと言われて緊張をほぐすように唇を重ねられれば、さすがの一護も傾いてしまう。非常に恥ずかしくてたまらなかったが、今は不思議と恐怖心は感じなかった。
「‥‥乱菊さんになんて言おう」
「内緒にしとったらええ」
おそらくばれるだろうがそんなことは知ったことではない。ばれた頃には一護のすべてはもう自分のものだ。
「それ以上渋っとったら苛めんで」
にや、と意地悪に笑われて一護は頬に熱が集中するのを感じた。迷いに迷ったが、この男だけだと決めていたし今確かに幸せだったから、一護はかすかにだが頷いた。
途端に死覇装に手を入れられて素肌に触れられる。
「ギン!!」
ばんっと蹴破られた襖がギンの頭上ぎりぎりを飛んでいった。
「うわー! 何するんですか松本さん、うちの隊長室を」
「あんた、あんた、何やってんの!!」
吉良を押しのけて乱菊が乗り込んできた。
なんで乱菊が、と思ったがもしかしたら追い返した平隊員が十番隊だったのかもしれない。ギンは舌打ちして、邪魔だと言うようにしっしっと手を払った。
「お乱、邪魔せんといて」
「するわよ! するに決まってんでしょ!! 一護の上からどきな!!」
「いたあ! 信じられへんこの女、今は情事の真っ最中やで!?」
一護の上から蹴り落とされたギンが猛抗議をしたが、乱菊は聞いてはいなかった。顔を真っ赤にさせて死覇装を手繰り寄せる一護を心配したように抱き寄せた。
「大丈夫? まだ挿れられてないわね!?」
「いれ、」
背後で吉良が絶句していた。
結局は未遂に終わったギンだが、なんのこれから、と意気込んでいたもののそううまくはいかなかった。
「乱菊さんが駄目だって」
「あんな女のいうことなんか聞かんでええ!」
だが一護はどこか嬉しそうに笑っていた。
どういうことかとギンが聞くと、
「ギンのいいところを二十個見つけられたら、いいんだって」
「あの、アマぁ‥‥!」
絶対に無理だと思って言ったに違いない。自分で言うのもなんだがそんなにいいところがあるとは思えなかった。
「俺、頑張るから」
「いや、そんなん律儀に守らんでも」
「大丈夫。きっと見つかるって!」
自信満々に言われてしまえばギンも頷かざるを得ない。
「それに、見つかるたびに俺、お前のことを好きになると思うんだ」
「一護ちゃん‥‥」
駄目だ。
そんなに恥じらった顔をしないでくれ。
そんな顔をされると。
「苛めたくなるわあ」
涙が見たいと思ってしまう。
でも最後は優しく。
優しくしてやろうとそう思った。
あと十九個。