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  風邪のせい  

「それでね、かっちゃんが『さっかー』ていう遊びを教えてくれたんだ」
「へえ、さっかーねえ」
「うん! 鞠をね、手じゃなくて足で蹴って敵の『きーぱー』が守る陣地にたくさん入れたほうが勝ちなんだよ」
「手は使っちゃいけねえのか」
「うん。敵を殴ってもいけないんだって」
「つまんねえ遊びだな」
 やちるが昨日の出来事を熱心に話す傍らで、剣八は興味が無さそうに聞いていた。
 それでもやちるは気にもせずに話し続ける。
「ゆんちゃんはね、料理がすっごく上手なんだ。あたしにも教えてくれたんだよ」
「お前、作ったのか?」
「えへへ。すごいんだよ、途中で爆発したの!」
 ぶきっちょ、と一角の小さい声が聞こえてきたがやちるの拳によって黙らされてしまった。床に沈んだ一角に弓親が呆れた眼差しを送る。
「なんかそれが面白くってね、今度はもっとすごい爆発起こそうってかっちゃんとゆんちゃんの三人で色々と試したの。そしたらいっちーが帰ってきてすっごく怒られたんだあ」
 怒られたと言うわりにはやちるはとても嬉しそうだった。
 かっちゃんとゆんちゃん、一護の妹の夏梨と遊子のあだ名だ。この小さな二人の友達と遊ぶことがやちるにとっては楽しくて仕方が無いらしい。実年齢はとてつもなくかけ離れているのだが外見も中身も子供なやちるにはそれがすこしも気にならない。
 ときおり一護の家に泊まりにいっては妹二人と一緒になって暴れ回って帰ってくる。翌日一護がひどく眠そうに仕事をしているのが目撃されていた。
「でもね、その後いっちーが銭湯に連れて行ってくれたんだよ。皆で背中流しっこしてね、いっちーの背中はあたしが洗ってあげたんだあ」
「ぶっ!」
 そこで一角が鼻を押さえて俯いた。弓親はもう呆れを通り越して醜いとぼやきながら一角から距離をとる。
「銭湯ってすごいね。こおんなに大きなお風呂が一杯あるんだよ」  
 やちるは己の腕をめい一杯に広げてみせるが、やちるのそれはとても小さいためいまいち規模が分からなかった。それでもその必死さに自然と弓親から笑みがこぼれる。
「すごいですね」
「うん! あんまり大きいから誰が一番泳ぐのが速いか競争したの」
「それはちょっと‥‥‥‥」
「いっちーにまた怒られちゃった!」
 それはそうだろう。弓親は銭湯というところに行ったことはなかったが、泳いでいいところではないということは分かっていた。
「ところで副隊長」
 復活した一角が小さな声でやちるに耳打ちしてきた。
「一護のやつ、胸のほうはどのくらいの大き、だぁっ!!」
 最後まで言う前に一角の頭は床にめり込んだ。すぐ横でやちるがきょとんとしている。
 殴ったのは剣八だった。
「死ね」
「もう死んでます」




「一護」
「おう」
「一護。聞いているのか」
「おう」
「‥‥‥私を姉様と呼んでくれ」
「お、ってなんだよそれ」
「聞いているではないか」
 ルキアはどこか不満そうに口を尖らせていた。
 珍しくぼうっとしている一護に声をかけてみても同じ返事しか返さない。この期に姉様と呼ばせてやろうと思ったのだがどうやら肝心なところは聞いていたらしい。
「どうした。仕事中だというのにぼうっとして」
「ああ、わりい。ちょっと眠くて」
「昨日は草鹿副隊長が泊まりに来たと言っていたが、それか?」
「‥‥‥あいつら、やちるに枕投げなんて教えやがって」
 どこか疲れたようにため息をつく一護に昨日はほとんど眠れなかったのだとルキアは推測した。
 やちるが泊まりに来た次の日は決まって一護はぐったりしている。どうやら一護の妹二人がやちると意気投合して破壊の限りを尽くしているらしい。
 普段はそれほど大騒ぎをしない夏梨と遊子だがやちるといるとどうも箍が外れるようだ。我が儘や迷惑をかけてはいけないと二人が気を使っているのを一護は知っていた。だから一護も本気では怒らずについ好きにさせてしまうのだ。
「本当に大丈夫か。なにやら顔が赤いが」
「今日は温かいからな」
「今は冬だぞ」
 だが一護はそれほど寒そうにはしていなかった。ためしにルキアが一護の頬に触れてみると。
「熱い」
「だから今日は温かいって言ってるだろ」
「そうではない。お前の頬が熱いのだ。風邪をひいたな」
「そんなんじゃねえって」
 風邪なんて記憶にある限りではうんと小さい頃に一度ひいたっきりだ。流魂街にいたときでさえひいたことがないというのに、死神になった今風邪などあり得ない。
 だが一護はぼうっとした眼差しのまま文机に突っ伏する。ルキアは一護の額に手を当てると予想通り熱かった。
「そら見たことか。風邪だ」
「違う。ちょっと、眠たいだけだ」
「馬鹿者っ! それは意識が朦朧としておるのだ!」
 ルキアは一護を床に寝かせると頭に座布団を敷かせてすぐさま海燕を呼びにいった。
「風邪じゃ、ねえって、」
 もうルキアはいないというのに一護はそれでも否定した。




「風邪ですね」
 卯ノ花ははっきりきっぱりそう言った。
「ちがう、」
「往生際が悪いぞ」
 ルキアはいっそ感心してしまう。そこまで風邪を否定してどうするというのだろうか。
「どこに出しても恥ずかしくないくらいに立派な風邪ですよ。養生なさい」
 慈愛に満ちた目で卯ノ花にそう諭されては一護もこれ以上駄々をこねるわけにはいかない。おとなしく布団をかぶると目を瞑った。だが眠ってはいないらしい。
「俺、帰らなきゃ、夏梨と遊子が待ってる、でも、うつしちゃいけねえな、ああでも家に二人きりだと心配だし、やっぱり帰らねえと、ああそうすると風邪がうつっちまうのか、ええと、どうするんだっけ、」
「落ち着け」
 こんなに混乱している一護は見たことがない。
「妹さん達は誰かにお預けになられて、今日はこちらでお休みになったらいかがです」
「私でよければ妹達の面倒は見るぞ」
「でも、」
「病人が遠慮をするな」
 しばらく押し問答が続いたが、いつしか一護は眠ってしまっていた。




 息苦しい。それに熱い。
 やけに心臓の音が響いていた。それもせわしなく。
 ああ、だから苦しいのだと一護は薄らと目を開ける。
「‥‥‥‥‥‥‥」
 どこだここ。
 そう言ったつもりだったが声はかすれてうまく出せなかった。
 自分は四番隊の救護室にいたような気がするのだが、今見えているのはその白い天井ではない。木目の天井にここは四番隊ではないのだとぼんやりする頭で理解すると一護は起き上がろうとした。
「おとなしくしとけ」
 頭上から男の声。それにびくりと反応したがすぐにそれが知っている人物のものだと気が付くと一護はゆっくりとした動作で振り返った。
「け‥‥ぱち、」
「声が出ねえのか。」
 剣八は髪は下ろして着流しを着ている。ということはここは剣八の家なのか。一護がそう視線で聞くと伝わったのか剣八がそうだと頷いた。
「とりあえずこれ飲んどけ」
 ぶっきらぼうな言葉のわりには、力の入らない一護のために剣八は背中を支えてやりながら薬を飲ませてやった。薬を苦しげに飲む一護にゆっくりでいいと背中をさすってやる。
 やっとの思いで一護が飲み干すと、自然と二人の視線が合う。
 剣八は一護の瞳からすこし下がって唇に目が引き寄せられた。唇を濡らす薬湯を、気が付けば舐めとっていた。
「‥‥‥‥寝とけ」
 どこか誤摩化すようにそう言うと一護の体を布団に寝かせてやった。一護も素直にそれに従う。
 眠る一護の傍らに膝をついて剣八は寝顔を観察した。
 拳の一つでも飛んでくるかと予想はしていたのだが意外にも一護はおとなしかった。風邪のせいか、それとも一護が嫌ではなかったのか、剣八には知る術は無い。
 一護が風邪をひいたとやちるに聞かされて四番隊まで行くと、そのまま周りに有無を言わせずに一護を家まで連れてきた。その場に卯ノ花がいなかったのが幸いだった。
 やちるは今一護の家で妹二人といる。見た目は幼いが十一番隊の副隊長だ、心配することは無いだろう。
 別れ際に言われた言葉が頭をちらついた。

『がんばってね、剣ちゃん』

 言われなくとも。
 いや、そうじゃない。自分は何を考えているのかと剣八は頭を振った。
 だが一護の熱に潤んだ瞳、濡れた唇が頭から離れない。抱き上げたときの体は柔らかで男のものとは明らかに違った。一応見ないようにと着替えさせたが、どうしても指先に当たってしまう一護の肌の感触が鮮明に焼き付いて忘れることができなかった。一角のことをどうこう言える立場ではない。
 腕の立つ死神だと、そう思っていたのではなかったのか。
 それなのに、そうは見れない自分をいつしか自覚してしまっていた。
 女だ。
 目の前で眠っているのはまぎれもなく、惚れている女なのだ。
 そうでなければ誰がここまでするだろう。
「ああ、‥‥‥‥‥ちくしょう」
 思わず頭を抱えてしまう。
 抱いてしまいたい。
 病人相手にそう思ってしまった自分を剣八は罵った。
「か‥‥‥さ、」
 一護がわずかに身じろぎする。寝言だろうか、疾しいことを考えていたためそのタイミングの良さに柄にもなく鼓動がはねてしまった。
 身を乗り出して一護の寝顔を覗き込む。

「‥‥おかあさん‥‥‥‥」

 みるみるうちに一護の伏せられた眦から涙があふれてくる。燭台に照らされて一護の涙はきらきらと反射し、そして止めどなく流れて枕を濡らしていった。
 それを見てもったいないと、なぜそう思ったのかは分からない。気付けばまた、一護の涙を舐めとっていた。
「泣くな‥‥‥」
 すこし汗ばんだ髪を撫でてやる。するとその手の感触を求めるように一護が剣八の手を両手で握りしめた。そして剣八の大きな手に顔を押し付けて一護はなおも泣いて縋った。
「おかあさん、‥‥‥おかあさん、」
 いつもの毅然とした声とは違う。子供のように震える声で一護は泣きじゃくっていた。
 その悲愴な姿に突き動かされたのか、剣八は同じように横になると一護を抱きしめた。一護の背中に腕を回して引き寄せる。
 意外にも小さい体。女の中では背の高いほうだというのに一護の体はこうして抱きしめてしまうとこちらが一瞬狼狽えてしまうほどに細くてたよりげない。だがたしかに生きているのだとその体温が告げていた。
 母だと思われてもいい。それでもこうして抱きしめているのは自分なのだと剣八は心の中で一護に伝えた。
「一護」
 名を呼ぶ。やちるとは違う、この小さな存在の名を万感の思いを込めて剣八は呼んだ。何度も何度も。
 抱いてしまいたいと、そう思う。だが今はそれよりも一護が穏やかな気持ちで眠りにつくことのほうがずっと大事だった。
 そのうち一護の片手が剣八の着物を握る。いつしか涙は止まっていた。
 それに安心して一護を抱きしめたまま剣八も眠りへと落ちていった。




 朝だ。
 一護はそう思ったが気持ちよくて目を開けることができなかった。もうすこし眠っていたい。
 体をよじってちょうどいい体勢になると頬に当たる何かに一護は顔をすり寄せた。
 ‥‥‥‥おかしい。自分の家はこんなにおいだっただろうか。
 なんか違うと一護はくんくんと鼻を鳴らす。どこかで嗅いだような、だが思い出せない。仕方なく目を開けるとそこに映ったのは胸板だった。
「あ、‥‥‥・ああ?」
 なんで胸板。とりあえず確認の為に触ってみる。
 間違いない、胸板だ。
 視線を上げていくとそこにあったのは一護もよく知る剣八の寝顔。一護は信じられないものでも見るかのようにその寝顔を見つめてしばらく絶句した。
「なな、なんで、」
 自分はたしか風邪をひいて四番隊にいた筈だ。そこまでは思い出す。
 それから、それから?
「!!」
 ぎゃあと叫ばなかった自分を一護は褒めてやりたい。両手で真っ赤になった顔を覆うと一護は布団に突っ伏した。
 思い出した。
 自分は、剣八に口付けされなかったか。
 本当のところは唇を舐められたのだが一護にとってはどちらもたいして変わらない。ひーひーと声にならない声で一護は恥ずかしさをどうにかしようとした。だが恥ずかしいものは恥ずかしい。
 一護はしばらく一人で羞恥心と格闘するとようやく落ち着いたのか顔を上げておそるおそる剣八の顔を覗き込んだ。
 こうして目を瞑っているとあのぎらぎらとした目が隠されて剣八はどこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。下ろした髪がその閉ざされた目にかかって邪魔そうだったので一護はそれをよけてやる。そしてそのまま視線が下がっていき、唇に辿り着いた。
 自分のものとは違って薄くて大きな唇だった。その端を傷痕が通っている。
 一護の指先がその傷痕に触れ、唇を端から端までなぞっていた。
 この唇が、自分のそれに触れたのだ。
 途端カーっと再び顔に熱が集まる。もう風邪は治っている筈なのだが動悸息切れがするということはまだ風邪をひいているということなのだろうか。
「なに考えてんだ俺」
 もう一度触れたいなんて。
 きっと風邪のせいだ。だったら眠るに限る。一護は先ほどのことを忘れようと再び必死の思いで眠りについた。
「‥‥‥‥‥」
 しばらくして剣八が目を開ける。本当は一護が目を覚ます前から起きていたのだが、反応が知りたくて寝た振りをしていたのだ。
 己の唇をなぞる。一護が触れたように端から端へと。
「おしかったな」
 そう呟いて、眠ってしまった一護を抱え直すと剣八も再び眠りへとその身を任せていった。




 世話になったことのお礼にと一護は十一番隊に訪れていた。
 剣八と目が合うとなぜか頬が熱くなる。にやりと意地悪げに笑う剣八とできるだけ視線を合わせないように一護は努めた。
「風邪が治ってよかったねっ、いっちー」
「そ、そうだな」
 再び目覚めると剣八だけでなくやちるまでもが一護を覗き込んでいた。それを思い出して一護はやや頬を赤くする。
「かっちゃんとゆんちゃんと話してたんだけどね」
「お、おう」
「いっちーと剣ちゃんが結婚したら私達姉妹になれるねって!」
「ぶっ!」
 吹き出したのは近くで話を聞いていた一角だ。弓親はことの成り行きを興味深げに眺めている。
「いや、それは妹じゃなくて娘同士の場合で、」
 一護は必死になって説明しようとするがそれはあえなく遮られた。
「俺はかまわねえぜ」
「剣ちゃん!」
「なに言ってんだっ!!」
 なんだこの空気。こんなの十一番隊じゃない。
「顔が赤いぜ、一護」
 たしかに熱い。涙も出そうだ。だがこれは。
「風邪だっ!!!」
 そうに違いない。
 あんなにも否定していた風邪を、一護は初めて肯定した。




   
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