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  ここから始まる幸せ  

「ダルマってこんな気分か」
 よっこらしょ、と腰を下ろすと一護ははふうと息をついた。
 膨らんだ腹を撫でる。昔見た狸がぽんと叩くのを真似しようとしたことがあったが、近くで見ていたルキアに全力で阻止された。
「もうすぐ?」
「予定日は一ヶ月後だって」
 部屋には乱菊とルキア、そして七緒がいた。京楽の副官である七緒とはそれほど親交は無かったのだが、紹介されたその日から一気に仲を深めていった。
 当初、年端のいかない一護を孕ませたと知った七緒はキレて京楽の抹殺を誓ったらしいが、二人が真剣に想い合っていると知り、分厚い本の角を眉間に振り下ろすだけで済ませてやった。
 今では一護の身を京楽よりも気に掛けて、何かと世話をしてくれる。
「だが油断は禁物だ。早産もあり得るやもしれんのだから。決して無理はするでないぞ」
「そうですよ。用心するに越したことはありません」
 眼鏡をつい、と上げるときびきびとした声に反して七緒は心底労るような視線を一護へと向けた。
 そうやって心配されるのは嬉しくもあるが、一護はくすぐったくて仕方ない。それに誰も彼もがまるで自分を繊細なガラス細工でも扱うかのように接してくるのだ。恋次など以前は平気でどついてきたというに、今では真逆の態度で大事に扱われてしまう。
 それに苛々としたときもあったが、それは妊婦特有のものらしい。今はもうすぐ生まれてくる赤ん坊に期待と不安が入り乱れて、まるで京楽との初めての恋のときのような焦れた気持ちが一護を支配していた。
「早く生まれてこねえかな」
 よしよしと頭を撫でるように、愛しさを込めて腹を撫でた。それを見ていた女性達も一斉に一護の腹を優しく撫でた。
「私のことは姉様と呼ぶがいいぞ」
「おっきくなったら一緒にお酒飲みましょうね」
「お願いですから隊長の悪しき性質は似ないでください」
 口々に呼びかけて、そして無事生まれることを祈った。
 その想いが届いたのか、一護の陣痛はその日のうちに始まった。




「うあー! どーしよ! ねえ、どーしよ!!」
「とりあえず落ち着け」
 親友の取り乱しっぷりに、逆に浮竹は冷静でいられることができた。
 生まれるのは一ヶ月後だと聞いていたのだが、予想外に早く陣痛が始まったと知らせを受けたときの京楽といえば今よりも更に取り乱していた。寝転んでいた体勢からすぐさま起き上がろうとして自分の羽織を踏みつけつんのめり、床に転がった姿など隊長とは思えないほどの醜態だった。
「なんかもうさっき言った気もするが、お前が取り乱しても仕方が無いぞ」
「一護ちゃーーーん!!」
「お黙んなさいな」
「!」
 京楽の巨体が吹っ飛ばされて、再び床へと転がされた。目撃していた浮竹や四番隊の隊員達は顎が落ちんばかりに口を開けて呆然としていた。
「まったく男というのはこういうときに取り乱してばかりで、本当に役に立たないこと」
「それは、遠回しに私を責めているのかな」
「親父、お袋!」
 ラリアットされた首の痛みをこらえて京楽は両親の登場に驚いた。
「まったく、産むのは女性のほうなのですよ。痛い思いをしているのも女性です。痛みを代わりに受けてやることなどできないのですから、せめて大人しく待ってなさいな」
「そうだぞ春水。そんなに騒いでいると声が中に聞こえてしまうだろう?」
 かつて我が子が産まれるときも今の息子のように騒いだ京楽の父だったが、「煩い」と陣痛途中の妻に引っ叩かれて、大人しくさせられた過去を持っていた。
「女性は男が思っているよりも強いものです。分かったら正座して待ってなさいな」
 そう言うと京楽の母は分娩室へと入っていった。京楽も一緒に入ろうとするが、それは浮竹によって押しとどめられる。一度は入ったものの、京楽の取り乱しっぷりに卯ノ花に邪魔だと言われて叩き出されたのだ。
 仕方が無く、言われた通り京楽は廊下に正座する。時折漏れ聞こえる一護の悲鳴のような呻き声に、腹の底がひやりとした。
「こんなとき、男は無事を祈ることしかできん」
 同じく隣に正座をして京楽の父は息子に暖かい眼差しを送った。息子娘は数人いるが、産まれるたびに騒いだのだ、今目の前にいる次男誕生のときもそうだった。いい加減慣れろと周囲に言われたが、慣れるどころか回を重ねるごとに取り乱していた気がする。
 妻にももちろん呆れられた。だが「若くないのだから心配するのは当たり前だ」と本音を漏らしたら顎に正拳突きを披露されてしまった。
「親父も、不安だった?」
「ああ。あんなに苦しそうな声を上げるんだ。子供なんていらないと思ってしまったな」
 京楽もそうだ。一護の死にそうな顔、声、そんなことならいっそ子供を産む必要なんて無いと思った。一護さえ無事でいられるのなら、二人でいられるのなら、それでいいではないかと。
「だが産まれてくると可愛いんだ、これが。あれほどの感動なんて結婚を承諾してくれたとき以来のものだったぞ」
 そこで唐突に頭を撫でられたので京楽は驚いて身を引いた。自分と同じ顔でこういう行為をされると正直寒いものがある。だがそんな息子の心情には気付かない振りをして、父親はなおもぐりぐりと髪を掻き回すように頭を撫でてきた。
「たとえ髭が生えようが嫌なほど自分に似ようが、子供は可愛いもんだ」
 頭を撫でられた記憶は相当昔の朧げなものだ。まさかこの歳になってされるとは思わなかった。
 急に父の顔で見つめられて、京楽はむず痒いものを感じた。照れ隠しに笠を下ろそうとしても、取り乱していた自分がどこかで落としてきてしまったらしい。結局は奇妙な表情で俯く結果となってしまった。
「名前はもう決めたのか」
「うん」
「そうか」
 照れる。こんな親子の会話、何だって今するんだと京楽は照れてしまう。視線を彷徨わせると、こちらを微笑ましそうに眺めている浮竹と目が合った。親友に親を見られるというのは妙な気恥ずかしさがある。さっと視線を逸らして京楽は分娩室の扉をまっすぐに見つめた。
 あれほど取り乱していた気持ちも、母の手痛い目覚ましと父のむず痒い会話によって霧散してしまった。今はただ切々と無事を祈る気持ちが沸いてくるばかりだった。
 やがて。
「お」
「産まれたな」
 黙ったままの京楽へと視線を移すと、どこかぽかんと間の抜けた顔をしていた。
「何してる。行ってやらんか」
 少々乱暴に背中を叩いてやる。それではっと正気に戻った京楽は、先に分娩室へと入ろうとしていた浮竹を押しのけると、まるでなだれ込むように部屋へと入っていった。




「ぁ、ぅぶー」
 ぺちぺちと京楽の髭の生えた口元を、赤ん坊は小さすぎる手で叩いた。
 可愛い。頬ずりしようとしたが、すぐさま浮竹に奪われてしまった。
「お前のその髭は凶器だ」
 そして自分は遠慮なく一護の子供に頬ずりした。その構図はまさに父と子。
「返してよ! 僕の子供なんだけど!!」
「母親似だな。良かった良かった」
 オレンジ色の柔らかそうな髪。だが癖が強いのは父親譲りか。そのことを言って無駄に京楽を喜ばせたくなかったので浮竹は無言で赤ん坊をあやした。
「ふえぇ、」
「む、いかんな」
 すぐさま一護へとパスすると、京楽の出ていけという視線もあり、二人きりにしてやるため浮竹は部屋を出ていった。
 ようやく家族水入らずだ。先ほどまでは女性死神達がひしめき合い、碌に赤ん坊に触らせてもらえなかった。両親も京楽そっちのけで一護を褒め、赤ん坊を抱き上げて喜びに浸っていた。それには早くも溺愛ぶりが伺え、屋敷に来る頻度が増えることを予想させた。夏梨と遊子は疲れてしまい、別室で眠っている。赤ん坊に負けず劣らず泣いて喜んでいたのが印象的だった。
「ありがとう」
「それ、何度目だよ」
 出産してすぐにも言われた。それから何度も何度も。
「だって感動しちゃって。ありがとうって、何回言っても足りないよ」
 むずがっていた赤ん坊は母親に抱かれて安心したのか、大人しくしていた。つんつんと柔らかい頬を突くと、興味を持ったのか京楽の指を手で掴んできた。第一関節にも満たない五本の指。生きているのが不思議だった。
「ありがとう」
 すべてにお礼を言いたい。  
 やがて赤ん坊は眠りにつく。二人でその寝顔を眺めているとふと視線が交錯した。
 京楽は流れるような動作で顔を近づけた。そういえばお礼の口付けをしていなかったと思い出し、ここはいつもよりも情熱的にしようと考えた矢先、
「子供の前だぞ」
 間に一護の手が差し込まれた。
 しかしその手をどかすと京楽は軽く唇を啄んだ。本当はもっと重ねていたかったが、一護の言う通り、赤ん坊の教育に良くない。
「本当にありがとう」
「俺も、ありがとな」
 自分こそが礼を言いたい。
 一護は万感の想いを込めて、滲む涙もそのままにその言葉をふわりと告げた。
 季節はもうすぐ春。
 柔らかくなってきた陽射しが優しく家族を照らしていた。  






 春。
「お母ちゃま!」
 幼子特有の甲高い声が屋敷に響き渡った。
 そしてトタトタと廊下を走る音。夕飯の下ごしらえを終え、のんびりと縁側で夫の帰りを待っていた一護の前に、妹二人と遊びに行っていた筈の娘が顔を真っ赤にさせて息を切らせていた。
「お帰り、苑桜<そのお>。夏梨と遊子は?」
「お庭にいますの!」
 この独特の喋りは祖母譲りだった。
 そして今年四歳になる娘の手には昼間に干した子供用の襦袢が握られていた。
「わたくち、何度も言いまちたの!」
「なにが?」
 一護と同じオレンジ色の髪。癖の強いその髪は胸の辺りまで伸び、耳の後ろで二つに分けて結われていた。そこに花を挿したのはきっと遊子の仕業だろうと一護は思った。
「これ!」
「襦袢がどうかしたのか」
 乾いているかどうか触れるとほんのりと温かさが伝わってきた。これなら他も取り込んで大丈夫だな、と能天気なことを考えていると、焦れた娘が廊下で地団駄を踏んで真相を話した。
「お父ちゃまのふんどちといっしょに洗いまちたのね!」
「あ」
「ひどい! 一緒には洗わないでねって言いまちたのに!!」
 襦袢を握りしめてうわーんと泣き出した娘に、せっかく乾いた襦袢を濡れる前に取り戻すと一護はよしよしと抱きしめて頭を撫でてやった。
「今度はちゃんと分けて洗うから、な?」
「そのことばはなんども聞きまちたの! お父ちゃまのふんどちに、わたくちのじゅばんがけがされまちたの!」
「そこまで言うのか」
 父親が聞けば泣いて悲しみそうだ。なんせ娘命。
 それなのにその愛が一方通行だと、見ている一護はときどき不憫でならない。
「新しいの買ってやるから」
「‥‥‥‥ほんとですの?」
「女に二言は無え」
 と言いつつも一護は新しい襦袢を買うつもりはない。新しいのだと言って今ある襦袢を見せてやれば娘はころっと騙される。せこいと言われそうだが一護は主婦の節約術だと言って憚らない。
「今回は俺が悪かったから、お父ちゃまには言ってやるなよ?」
「はい、わかりまちた、」
 ぐすぐすと鼻をすする娘の脇腹をくすぐってやると途端に笑顔になって一護へと抱きついてきた。太陽のにおいが全身から香ってくる。それから花のにおいも。
 それらを胸一杯に吸い込んで一護は優しく抱きしめ返した。
「お姉ちゃまたちのお手伝いをちてきますの」
「洗濯物取り込んでくれてるのか?」
 それに頷くと娘はぱっと身を翻して駆けていった。先ほどまであんなにべそをかいていたのに、その感情の切り替えの早さは父親譲りだと思った。
 泣いたカラスがなんとやらだ。穢されたという襦袢を一護は丁寧に畳むと、箪笥にしまうため立ち上がった。
「う!」
 京楽がいた。
 いつの間に帰ってきていたのか、でかい図体を襖から半分はみ出させてこちらを悲しい眼差しで見つめていた。
「‥‥ひどい‥‥‥」
 聞かれていたのか。これにはフォローのしようがないと、一護は狼狽えつつも京楽の傍へと歩み寄った。
「気にすんなって、これはだな、えーと、思春期の娘にはよくあることであって、」
 まだ四歳の娘が思春期だなんて、下手な慰めに一層落ち込んだ京楽はその悲しさを埋めるように一護へと抱きついた。
「分けて洗ってたの?」
「いや、それはだなあ、」
 実際には何度か一緒に洗って娘に怒られていたのだが、分けて洗っていたこともあったので、一護は非常に罪悪感がこみ上げて言葉を濁した。
「ひどい。まさか娘だけじゃなくて奥さんからもこんな仕打ちをされるなんて、僕は、僕はっ、」
 そのまま巨体にのしかかられて一護は畳の上へと押し倒された。咄嗟に手放してしまった襦袢に目を奪われていると帯を解かれてその反動でころんとうつ伏せになってしまった。
「馬鹿! 何してんだ!!」
「もう一人子供作ろう! 今度は男の子がいいな! 剣術なんか教えちゃったりして!」
 一気に捲し立てると京楽は一護の帯をぽぽーんと放り投げた。
「やめろっ! 皆帰ってきてんだぞ!!」
 本当に娘そっくりだ。感情の切り替えが素早い。
 だがそんなことに感心している場合でない一護は、そのまま畳を這って逃げようとしたが、足首を掴まれて引き戻されてしまった。
「体位によって男女の産み分けができるんだって」
「っへえー、」
 耳元に熱く囁かれて感じてしまいそうになったが、一護は耐えるとなおも逃げようとした。こんな情けないところを娘に見られたら、自分までもが嫌われそうだ。
「僕に内緒で下着を分けて洗ってた罰だよ」
 そんなアホみたいな罰で自分は今から抱かれるのか。脱出口である障子が遥か遠くに感じられながら、一護が最後の力で京楽を押しのけようとしたとき、
「何やってるんですの?」
「っわー! 見ちゃ駄目!」
「目に毒だ」
 何てことだ、と一護は真っ赤だった顔から瞬時に血の気が引いていった。
 目の前には苑桜に必死で目隠しする妹二人と、何のことかよく分かっていない娘、計三人。
 妹二人の視線が妙に寒々しく感じて一護は頭を抱えた。
「これはね、大切なことなんだよ」
 一体何を言い出すのかと一護は不安になった。
 だが京楽は起き上がって一護を抱え直すと、ものすごく晴れ晴れとした笑みでこう言い放った。
「二人目の子供をくださいって神様にお祈りする儀式なんだよ」
「それはほんとですの!?」
 子供、と聞いて夏梨達を振り切ると苑桜はきらきらとした眼差しで父親を見上げた。
 褌と一緒に洗うなって言って毛嫌いしてたんじゃなかったのか、と一護は呆れた気持ちになる。だがこの二人、感情の切り替えが早いのだと思い出した。
「本当だよ〜。でもね、それには二人っきりで、なおかつ二人の気持ちが合わさらなきゃいけないんだ」
「まあ!」
「嘘つけ!!」
 すぐさま鳩尾に拳を入れてやった。それにうっと体を折る京楽から逃げ出そうとすれば、なぜか怒った顔の娘と目が合った。
「いけません、お母ちゃま!」
「は?」
「二人のきもちが合わないとだめですの! さあさあ、早くお父ちゃまとお祈りするんですの!!」
 ぐいぐいと一護を京楽のもとへと押しやると、苑桜はぽかんとしている夏梨と遊子の手を取り、満面の笑みで部屋を出ていった。
「わたくち、弟がいいですの!」
 障子を閉める間際にこう言い放って、三人の気配は遠ざかっていった。
「さすが僕の娘」
 感心したように呟くと、京楽は再び一護に覆いかぶさり、そして二人っきりで所謂<お祈り>をした。
 弟ができたかはともかく、その日から褌は分けて洗われなくなったという。




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