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  無性に  

 ひんやりとした空気。  
 吐く息は白く、鼻の頭が冷たくなっていた。それを軽くひと撫でして一護は寒いと人知れず呟いた。
 寒さからある人物を思い浮かべる。
 自然と笑みがこぼれた。  

 きっと暖かいのだろう。
 あの人は。




「寒いのう」
「だからってそんなところに顔を突っ込まないでくれ」
 猫の夜一が寒い寒いと言いながらも仕事中の一護を訪ねてやってきた。実際外は相当寒いらしく、一護の姿を発見するや否や夜一は一護の死覇装の袂の中に顔を突っ込んでそのまま暖をとろうとした。
「ぬくぬくじゃ」
 部屋には一護以外いない。夜一は遠慮なく人間の言葉を話した。ルキアや海燕はいつも遊びにくる黒猫が人間で、しかも隠密機動刑軍の軍団長だとは思いもしない。
 猫の姿になると一護も夜一の我が儘を許してしまうので本人はやりたい放題だ。正体を知っている浮竹が一護にじゃれる黒猫をときどき羨ましそうに見ているのを夜一は知っていた。
「夜一さん、動くなよ」
 一護は袂の中でもぞもぞと動く黒猫をそのままに書類の処理を続けていた。夜一が侵入したのは左の袖のほうなので仕事ができないこともない。
「わっ!」
 思わず叫んでしまう。夜一が死覇装の衿の間から顔を突き出したからだ。
 顔と前足を出して黒猫は満足そうににゃあと鳴いた。
「なにやってんだ。字が歪んだだろ」
「気にするな。一度こうしてみたかったのじゃ」
 一護の顔のすぐ下に黒猫が。
 昔子供の頃、猫を飼っていた友達が同じようにパーカーの中に猫を入れて嬉しそうにしていたのを一護は思い出した。その友達の顔を思い出すことはできないが、それがとても羨ましかったことは覚えていた。  
 その日急いで家に帰って猫が欲しいと母親にねだったことも覚えている。
「俺も」
 結局猫は駄目だったが猫のぬいぐるみを買ってもらえた。いつのまにか、どこかへいってしまったけれど。
「あったけえな」
「そうじゃろう。今日は寒いからな、猫はこたつで丸くならねば」  
 俺はこたつか。そう軽口を叩きながらも一護は夜一をそのままにしておいた。
 あのとき羨ましくてたまらなかったことが、今になって実現するとは思いもよらなかった。ただ一護の死覇装の前を我が物顔で占拠しているのは友人兼姉のような人なのだが。
「一護。ここの字が間違っておるぞ」
「ほんとだ。‥‥そういや夜一さん。仕事は?」
「今日は休みじゃ」
「また嘘を」
「嘘ではないっ! 儂が一番偉いのじゃぞ。休みを決めて何が悪い」  
 堂々と職権乱用を宣言されてしまった。一護は苦笑いするしかない。
 だが休みではないのだとするとそろそろ来る頃か。
「夜一様!」
 スパーンと障子を開けて姿を現したのは夜一の部下の砕蜂だ。
 もうちょっと優しく障子を開けてほしい。一護は視線で訴えたが砕蜂はきょろきょろと夜一を探している。
「夜一様、ここにいるのは分かっています。早くお出になってください」
 だが返事は沈黙でもって返された。夜一は砕蜂が来る寸前に顔を引っ込めてしまい、いまだ一護の死覇装の中に隠れている。
「一護。夜一様はどこだ」
 言うな、と至近距離から小さな声が聞こえてきた。
 一護は困ったように笑うが、砕蜂がその一護の変化に気が付いた。人のことは言えないが一護の普段真っ平らな胸が明らかに膨らんでいる。そう、ちょうど猫一匹分。
「一護、お前、その胸は」
「逃げろっ!!」
 その声に突き動かされて一護は近いところにあった窓から外へと逃亡を図る。
「夜一様っ! 一護も、協力するなっ!!」
 そう言われても思わず体が動いてしまったのだから仕方がない。
「一護、左じゃっ」
「なんで俺までっ!」  




「寒い」
 一護はそう呟くがすぐさま口を押さえた。近くに砕蜂の霊圧を感じる。
 できるだけ体を縮こませると冷たくなった両手に息を吹きかけた。  
 夜一はもういない。途中で二手に分かれたのだが一護は今さら出るに出られなくなっていた。逃げるときの砕蜂の怒りの形相が一護にそうさせていた。今出ていくと雀蜂で二撃決殺される気がする。
 とりあえずほとぼりが冷めるか夜一が捕まるまで一護は隠れることにした。今いる場所はどこかの隊舎の庭だ。その庭に植えてある木の上に一護はいた。
 だが寒い。
 夜一に言われるがまま十三番隊の隊舎を飛び出してきたので当然草履を履いていない。足袋のままの一護の足は指の先から冷たくなっていき、もはやほとんど感覚がなくなっていた。耳の先も然り。ちぎれそうだ。
 もっと暖かいところに隠れようか。それとも見つからないように十三番隊の隊舎に戻るか。‥‥‥自信がない。きっと途中で発見されてしまうだろう。
 そもそも何で俺がこんな目に、と夜一を恨んでしまう。だが夜一のあの猫の姿の暖かさを思い出す。自分も猫になりたい。きっと今よりはずっと暖かいのだろう。
 ‥‥‥やばい。くしゃみが出そうだ。
 鼻の奥がムズムズとしてきた。これは間違いなくくしゃみの前兆だ。
 効果のほどは知らないが一護は己の鼻を押さえる。

 くちん。

「‥‥‥‥‥」
 努力も虚しくくしゃみはでた。
「誰だっ」
 砕蜂の声。やばい、気付かれたかと一護はできるだけ息を殺す。   
 だがそんな一護のすぐ傍まで寄ってくる砕蜂の気配を感じ、一護は必死になって気配を消す反面言い訳の言葉を頭の中で考えた。
「誰かいるのか」
 見つかるのは時間の問題だ。ここは大人しく出ていったほうがいいのかもしれない。
「儂だ」
「狛村?」
 えっ、と叫びそうになるところをこらえる。一護は木の葉の隙間から下を覗き込む。たしかに狛村がおり、砕蜂と対峙していた。
「ここは七番隊の隊舎だ、儂がいておかしいか。貴公こそ何をしている」
「人を捜している。夜一様と、オレンジ色の髪をした隊員を見なかったか」
「いや」
「先ほどくしゃみが聞こえたのだが」
「‥‥‥‥儂だ」
 左陣さん、それ無理ありすぎ。一護は突っ込みたかったが我慢する。
「この寒さだ。建物の中に隠れているのではないか」
 狛村の言葉に砕蜂は頷くと瞬歩で消える。誤摩化せたとは思えないがとりあえず一護はほっと胸を撫で下ろした。
 ひとりになった狛村が一護のいる木の下までやってきた。
「一護だな」
「‥‥‥はい」
 なんだか情けない。木の上にいる一護は枝の隙間から顔をのぞかせる。案の定呆れた顔をした、顔は見えないが雰囲気が呆れていた、狛村が一護を見上げていた。
「何をしたのだ」
「‥‥‥逃亡補助」
 鉄笠の内側からため息をつく気配がした。一護はますます情けない気持ちになりながらも、上からでは失礼だろうと木から下りようとする。
「待て」
 なんだろう。狛村の制止に一護は首を傾げる。
 狛村は背が高い。話をするときは一護がいつも首をめいいっぱい上向かせながら話をしていた。その狛村が両手を伸ばして一護の腰を掴むと木から下ろしてくれた。それにびっくりして一護はぽかんと口を開けてしまう。
「草履を履いていないではないか」
「い、いいよ、」
 知らず顔が赤くなる。一護はまるで子供のように扱われて恥ずかしくなってしまう。
「冷たい地面をその足で歩くつもりか」
 狛村は軽々と片手で一護を抱き上げてしまった。これでは父と子だ。こんなふうに抱き上げられたのは久しぶりで恥ずかしさのあまり周りに人がいないか探してしまう。
「体が冷たいな。一体どれほどあそこにいたのだ」
「‥‥‥小一時間ほど」
「女子が体を冷やすとは感心せんな。」
 優しく諭す狛村に一護はばつの悪そうな顔をする。だが冷えた体に狛村の体温が暖かくて一護はそのうち瞼を下ろしていった。  




 これは夢だ。
 一護はそう思った。夢でしかあり得ない。
 なぜなら一護は猫だった。肉球の付いたオレンジ色の前足。そして誰かの着物の懐に入ってゆらゆらと揺られていた。
「あったかい」
 そう言ったが出る音はにゃあと鳴く声。
 やはり夢だ。
 それでもいい。暖かくて気持ちがよかった。
 あのとき猫を入れていた友達が羨ましかったのではなく、あの暖かそうな猫が羨ましかったのかもしれない。
「暖かいか」
 優しい声だった。頭上から聞こえてくるその声に一護はうんと返事をした。そうして優しい声の人が優しく一護の頭を撫でてくれた。
 これは夢だ。このままずっと眠っていたい。
 だがそんな意志とは反して一護の意識は急速に引き戻されていった。

「起きたのか」  

 夢で聞いた優しい声。
 頭上から聞こえるその声に一護はまだ夢の中にいるのだと思い安心した。
「起きてない」
 そう言った。だがにゃあとは聞こえなかった。
 おかしい。
 前足、もとい手を視界に入れる。人間の手だ、肉球など付いていない。
 だが夢と同じ声、同じ暖かさを感じるのに。どういうことだろうと一護は首を巡らせる。やがて毛並みに覆われた逞しい腕が一護の体を支えているのに気が付いた。
 暖かそうだ。思わず手を伸ばしてそれに触れる。思った通りだ、暖かい。
「それにふかふか」
「起きているではないか」
 見上げると困ったように見下ろす狛村と目が合った。鉄笠はかぶっていない。素顔を晒した狛村の頬に一護は手を伸ばして撫でてみる。
「‥‥‥寝ぼけているのか? 一護」
 名を呼ばれて今度こそ目を覚ます。狛村の頬に手を当てたまま一護は固まった。
「‥‥‥うぁ」
 恥ずかしさにまともな声が出ない。熱くなった己の頬に一護はもう一つの手を当てた。
 端から見ればおかしな構図だが一護は状況を把握するのに精一杯だ。一護は今狛村の膝の上に乗っていた。
「ご、ごめんっ!」
 すぐさま下りようとしたが、足が空を切って一護はそのままべしゃりと床に落ちた。狛村の体の大きさから椅子もその高さに合わせている。それを失念していた一護は無様にも転げ落ちてしまったのだ。
 最悪だ。今なら恥ずかしさで死ねる気がする。
 一護は落ちた状態でうつぶせのまま顔を上げようとはしない。頭上からはあとため息をつく音が聞こえてきた。ますます恥ずかしい。このまま床に穴を掘って埋まりたい。上から土をかけてほしい。
「まったく、おまえは何をするか分からんな。すこしも目が離せん」
 その声とともに一護のお腹に手が回される。暖かい腕が一護の体を抱き上げた。
 そして再び元の場所に収まってしまった。
「俺、今日こんなのばっかりだ。恥ずかしい」
 狛村の顔が見れない。だがお腹に回された大きな手はしっかりと握る。
 落ち込む一護の頭に優しい感触がした。夢と同じだ。
「夢と同じだ」
 一護の言葉に返すように、頭上から唸る声がした。うん?と声を出したつもりでも狛村の場合は獣のそれだ。初めて聞かされれば怯えてしまうかもしれない。それを不安に思ったが一護は嬉しそうな顔で狛村の顔を振り仰ぐ。
「さっきの、俺夢で同じことされたんだ。寝てる間に俺の頭撫でたりしたか?」
 狛村は咄嗟に返事ができなかった。たしかに撫でたのだが面と向かってそう聞かれてしまうとなにやら悪いことをしてしまったような気がしてくるのだ。
「俺、左陣さんの夢を見たんだ。猫になって、この中に入ってたんだぜ」
 狛村の死覇装を指差した。
 一護の夢に自分が出てきただけではなく、猫になった一護を入れていたなどと聞かされて狛村はどう反応していいのか分からない。そんな狛村の様子を気にもせずに一護は気が付いたとばかりに目を閃かせる。
「あ、でも猫じゃなくても入れそうだけどな」
 今度こそ狛村は唸り声をあげてしまう。尖った耳がいつもよりもぴんと立っているのを感じずにはいられない。人間であったなら顔が赤くなっているにちがいない。今日初めて狛村はこの獣の姿に感謝した。   
 一護の視線が狛村の胸の辺りから離れない。
「どうした」
 どこか真剣な目で見てくるものだからいささか居心地が悪い。今になって膝に乗せている一護の体の柔らかさが気になってしまい目を泳がせた。目を泳がせるなど自分の行動にあってはならないことだったがそうするしか術がないのが現状だ。
 木から下ろした一護が眠ってしまいしかも死覇装を掴んで離さない。あまりにも気持ちよさそうに眠っているので起こすのが憚られた。仕方がなくそのまま片手に抱いて仕事をしていたのだが、その間はまるで幼子を抱いているという気持ちでしかなかった。
 それなのに。
 眠っている間も一護は暖かいと言っていたが暖かいのは一護のほうだ。暖かくて、柔らかい。
 だが己の考えに首を振って打ち消そうとする。
 必死になって己の煩悩を払おうとする狛村に一護は止めの言葉を刺した。

「入りたい‥‥‥」

 次の瞬間、今までの比ではないくらいに狛村は唸った。  




 狛村は最近とても困っていた。
 それはもう副官の射場が心配するほどに。
 原因はひとり。あの日から、顔を合わせる度に同じことを聞いてくる。
「なあ、ほんとに入っちゃだめか」
「いかんっ」
 狛村の拒絶に一護はむうと眉をしかめる。
「入りたい」

 無性に。



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