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  世界はそれを  

 その名を、いまだ知らない。


 悪魔は聖人のふりをするというのは本当らしい。
 一護は目の前の男を見てつくづくそう思った。
「藍染隊長」
 隣にはルキアがいる。一護は睨みつけそうになるのを必死に堪えた。不機嫌そうな視線を床に落とし、早く立ち去りたいと一心に思った。
「一護君と話がしたいんだ。いいかな」
「はい。一護、書類は私が持っていく」
 そうにこやかに言うとルキアは一護の分の書類を持つとさっさと行ってしまった。以前に剣八との修練で大けがを負った一護を四番隊まで連れていった藍染にルキアは好意的だった。
 一護も感謝しているかと思えばそうではない。一護は知っていた。
 藍染の恐ろしさを。
「それじゃあ五番隊の隊首室に行こうか」
 柔らかい声、穏やかな物腰。
 誰がどう見ても聖人君子だと思わせるような佇まいに一護は思い切り顔をしかめる。今は廊下に藍染と一護の二人きりだ、遠慮することはない。
「誰が行くか、俺は戻るからな」
 睨みつけると一護は踵を返す。
「いけないよ。借りたものは返さないと」
 剣八とのことだ。一護は足が止まりそうになるがそのまま歩き続ける。
 頼んだ覚えはないからだ。
「志波副隊長が聞いたらどう思うかな」
 ぴた。
 一護は振り返ってこれ以上は無いというほど睨みつけた。
「借りを返してくれるね」
「‥‥‥‥」
 言いたいことはたくさんある。
 だが怒りをなんとか封じ込めて一護はわずかに頷いた。
「いい子だ」
 殴りたい。
 それができたらどれほど気持ちがいいだろうかと一護は思った。




 自然と眉間に皺が寄る。
 機嫌は悪くなる一方だ。
 そんな一護とは反対に相手はにこにこと上機嫌に微笑んでいる。それを見てどこでもいいから殴りたい衝動を覚えた。
「どうしたんだい、なんだか震えているけど」
 寒いのかな、などとわざとらしく聞いてくる。
 一護の手の中にある湯飲みがぴしりといったが気のせいだと思うことにした。
 五番隊の隊首室に来てから半刻ほどが立ったが、表面上は穏やかに時間は過ぎた。藍染は初めて会った日のように一護に他愛のない話をふってくる。
 だが藍染の本性を知っている一護にとっては苦痛の時間でしかない。
 早く帰りたい。
 一護はその言葉を心の中で呪文のように繰り返した。
「一護君」
 常とは違う声にびくりとする。
 藍染が人前でこのような声をだすところを見たことはない。いつも穏やかな、相手を安心させるような声をつくっていることを一護は知っている。今自分の名を呼んだような、底冷えするような声が本当の藍染なのだ。
 今度は怒りではない、震えそうになる腕を一護は押さえこんだ。
「健気だね」
 藍染が目を細めて笑う。
 一瞬何のことを言われているのか一護には分からなかった。
「そんなに志波副隊長はいい男なのかい」
 次の瞬間には殴りかかっていた。
 だが拳はたやすく受けとめられる。
「可愛いね、そんなに怒って」
「っ!」
 優しい声とは裏腹にもの凄い力で手を握り込まれた。たまらず手を引こうとするがびくともしない。
 痛みに耐える一護の顔を藍染が楽しげに眺める。
 弱いところなど見せてたまるかと一護が睨み返してやった。
「はな、せっ、」
 だが一層力は強まるばかりだ。骨が軋み、それでも呻き声など上げれば相手を喜ばせるだけだと分かっていた。噛み締めた歯がぎりりと鳴った。
 一護は咄嗟に左手を斬魄刀に伸ばす。
「いけない子だ」
 視界が回る。
 掴まれた右手を引き寄せられて藍染の腕の中に仰向けに倒された。
 まるで悪戯をした子供を叱るような穏やかさでもって一護は行動を制されてしまった。左手も押さえ込まれ、身動きができない。
 ぞわ、と背筋に何かが走る。
 知っている、これは、
「怯えているね」
「だれが、」
 だが声は情けないほど震えていた。
 そのことに一護自身が驚愕する。だがもう体の震えは誤摩化せない。
 藍染が一護の様子に軽く目を見張った。
「君、もしかして」
「いやだっ、」
 一護は渾身の力で抵抗した。手が駄目なら足だと言わんばかりに振り上げて、上半身も無我夢中で動かした。

 いやだいやだいやだ!

 他には何も考えられない。ただその言葉だけが頭の中を駆け巡る。
 だが突然暴れだした一護に藍染は落ち着いて行動した。両手を掴んだまま床に一護を押し倒す。足は蹴り上げられないように体全体で一護の上に覆いかぶさった。
 変わらずに笑みのまま。
「そうか、そういうことか」
「やめろ、」
「そう怯えなくてもいい」
 藍染の片手がたやすく一護の両手をまとめあげる。一護のほうも力の差のせいだけではない、動かそうとするが恐怖で力が入らないのだ。
 女の中では背の高い一護も藍染の体の下では哀れなほどに小さかった。
 空いた手で藍染が一護の頬を優しく撫でる。
「っ、」
 顔を振って抵抗する。声がうまく出せなかった。
 藍染の手が頬から髪に移動し、こめかみから指を入れて後ろに何度も丁寧に梳いた。
「綺麗な髪だ。あの男には触れさせているね」
 何度も何度も。
「どうして?」
 仕草だけを見るとまるで恋人にするかのようだったが、目がすべてを裏切っていた。
 蕩けるような笑みなのに、目だけが凍てつき一護を射抜く。
「痛っ、」
 藍染が髪を梳く手に力を込めた。
 ぐい、と引っ張られた痛みに自然と一護の眦に涙が滲む。
 その涙を藍染が舌で掬いとった。
「気に入らないな」
 瞼の上でぞっとするような声がした。
 思わず一護が目を見開く。至近距離にある藍染の顔が更に近づいた。
「っ、ぅっ、」
 唇を塞がれる。
 藍染のそれは合わせるという生半可なものではなく一護のすべてを喰らい尽くそうとするかのようだった。顔を逸らそうにも髪を掴まれていてはどうにもならない。
 角度を変えて何度も奪われる。髪の痛さではない、悔しさと己の無力感で涙がこぼれ落ちた。
 それでも唇を開こうとする舌に必死に抵抗する。
 ふと髪にあった手が一護の首に移動した。
「っ!!」
 首に込められた力に一護がたまらずうめく。その瞬間開いた唇から藍染の舌がすべりこみ一護の舌を吸い上げた。
 嫌悪感と恐怖で咄嗟に噛みちぎろうとする一護の意志を感じとり、その前にすばやく藍染は唇を離した。
 離す瞬間にした水音に、一護は死にたくなった。
「あの男には唇を許したかい?」
 藍染の手は一護の首にかかったままだ。息ができるぎりぎりの力加減で絞められていて一護は声が出ない。
「細い首だ。ねえ、君を手折ったと聞いたら彼はどんな顔をするかな」
 微笑みとともにそう話す。
 手折るとはこの首か、それとも。
「君はどう思う?」
 ようやく一護の首から手が離される。
「っ、くたばれっ、」
 だが一護の言葉に対して睦言でも聞いたかのように藍染は満足そうに笑みをつくった。
 一護は少しも自分を飽きさせない。それこそが、何より価値の高いことだと藍染は思った。
「じゃあこういうのはどうかな」
 再び一護に顔を寄せると藍染はなにごとか囁いた。
 その言葉に、一護は目を見開いた。
「殺してやるっ!!」
 今まで感じたことのないほどの怒りが一護の全身を駆け巡る。あれほど怯えていた体に一気に力が戻ってきた。どくどくと心臓が鼓動を打った、その音が更に一護の怒りに拍車をかける。
 膨れ上がった霊圧に藍染が目を見張った。
 おそらくこの霊圧に気付いた隊員達が駆けつけてくるだろう、今日はこれで終わりにしようと藍染が手を緩めた時だった。
「!」
 反射的に飛び退く。
 一護が斬魄刀を抜いたのだ。
 柄も鍔もない斬魄刀、藍染が見るのは二度目だ。初めて見たとき一護に似て斬魄刀もどこか痛々しいと思ったのを覚えている。
 その切っ先が今藍染に向けられていた。
「もうすぐ隊員達が来る。こんなところを見られたら君には不利だよ」
「知ったことか」
 ぎらぎらとその目には憎悪が宿っていた。
 藍染はそれを見て美しいと場違いにも思ってしまった。
 肌を刺すような殺気。それなのに藍染は胸が高揚してならない。先ほどまではあんなに怯えて震えていたのに今の一護は自分を殺そうと刀を向けてくる。それが藍染には楽しくてたまらなかった。
 欲しい。
 この存在が。
「さっき言ったのは冗談だよ。君の反応が見てみたかったんだ」
 藍染が困ったように笑う。
 だがそれさえも演技なのだと一護は見抜いていた。すべてが芝居がかっていて、この男には少しも真実などありはしない。
「もう、騙されない。海燕さんには、指一本触れさせないっ」
 一護が斬魄刀を握り直す。
 来る、藍染が身構えた。
『一護っ!!』
 びくっと一護の動作が止まった。
『よせ、相手は隊長格だ。ただでは済まんぞ』
(知るかっ、俺は)
『失ってもいいのか』
 目を見開く。
 失う。
 様々なものが一瞬にして一護の脳裏を掠めていった。
 あれほど高まった霊圧が急に沈んでいく。
「一護君?」
「やめろ」
 急激な霊圧の変化に藍染がいぶかしんで声をかけた。
 だがそれを一護がさえぎった。
「お前が、俺の名を呼ぶな」
 どこか苦しげにそう言って、一護は五番隊を後にした。





 駆けつけてきた隊員達を適当に追い払い、藍染は一人佇む。
 部屋を静寂が包む。
 今はここにいない一護を思い出して、思わず笑いが漏れた。
「恐ろし」
 静寂を壊す飄々とした声。
 だが藍染は振り返らない。侵入者は気にもせずに喋り続けた。
「一護ちゃんも可哀想に。こおんな恐いお人に好かれるやなんて」
 侵入者から発せられた少女の名に藍染がようやく振り返った。
 その藍染の笑みを見て市丸は恐い恐いと肩をすくめた。
「知っているのか」
「ええ、まあ」
 意味深な言い方にわずかに目を細める。だが深くは追求しなかった。
「すごい霊圧やったなあ。藍染さん、一護ちゃんに一体何したん」
 声の質がいつもとわずかに違う。
 これも囚われたか、と藍染は瞬時に悟った。
「ちょっとね」
 藍染も同じように意味深に返した。
 二人の視線がぶつかり合う。お互いに笑ってはいるものの空気は刺すように冷たかった。
 先に逸らしたのは市丸のほう。
「嫌んなるわ」
「なにがだい」
「僕もあんたさんも好きな子は苛めるタチや。苛めて泣かして弱ったところに止め刺す」
「そうだね」
 珍しく市丸の意見に同意した。
 一護の泣いた顔、涙の味を思い出す。
「可哀想にと僕も思うよ」
 
 それでも欲しい
 すべてが
 欲しくて欲しくて
 頭がどうにかなりそうだ
 この気持ちをなんと呼ぶのか

 いまだに、知らない



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