いまだにきっと僕は
「藍染隊長?」
「ああ、すまないね。ここに積んでおいてくれるかい」
部下との遣り取り。部下の目には藍染への尊敬の念がありありと浮かんでいる。自分がそうなるように仕向けたからだ。
温厚、誠実、善良、そう信じて疑わない。皆、本当の姿を知らずに欺かれる。そのことに特に優越を感じる訳ではなかったけれど。
ひどくつまらなかった。
退屈で退屈で、いっそこの世界を壊してしまおうかと思っていた。そうすればきっと退屈などしなくて済むだろう、平和などつまらない、混沌こそが楽しませてくれる。そう信じて疑わなかった。
「俺はあんたのものにはならない」
平和の中に現れた少女。
触れることも、名を呼ぶことすらも許してはくれない。
ふと目が合った瞬間、焼かれるかと思うほどの憎悪の目で睨まれる。そんな目で見られるのは本当に久方ぶりのことで、心地よさに頬が緩んだ。
それなのに。
何かが違う。
そう、誰かが囁くのだ。
「おお、怖」
またか。
ため息とともに振り返った。
「何か用でもあるのかい」
最近やたらと絡んでくる。元部下の市丸ギンを煩わしげに見やった。
「目つき、相当やばいことになっとりますえ」
飄々とした態度、意地悪げに口を歪めてそう言う。いつものことなので機嫌を損なうことはしないが、何のことかと藍染は首を傾げてとぼけてみせた。それを見て市丸が一層目と口を歪ませて笑った。
「そないな恐い目して、一体何を考えとったんです」
分かっているくせに、そんなことを聞いてくる。
付き合いは長い。互いの考えなど手に取るように分かっていた。
「‥‥‥とても、恐ろしいことさ」
だが藍染のほうが一枚上手だ。
こちらも真面目に返す必要はない。藍染の返答に市丸はふうんと、気怠げに相づちを打った。
まだ帰る気は無いのか、市丸は窓辺に腰を下ろすと頬杖を付いて外を眺めはじめた。
「可愛えぇなぁ」
そよ風が市丸の銀髪をゆらゆらと撫でる。
何を見てそう呟いたのか、藍染には分かっていた。自然な動作で窓辺に近寄る。そんな藍染を笑ったのか、くっと市丸が肩を揺らした。
「ほんま、可愛らしいこと」
目線の先にはオレンジ色。
だが一人ではなかった。
「邪魔者がおるわ」
志波海燕。一護の信頼と尊敬を一身に集める男の名を、藍染は声には出さずに呟いた。
「ああ、一護ちゃんが隠れてしまうやないの。ほんま邪魔やなあ」
廊下で立ち話をしている一護と海燕。市丸達からはちょうど海燕が立っていて一護の姿がうまく見えない。それに気を悪くしたのか、先ほどまで笑っていた市丸が表情を歪めた。
海燕と共にいるときの一護の顔は常に笑みをたたえていた。二人の間に男女の情がないことは分かっている。だが一緒に並んでいる二人の姿には、余人が踏み込めない何かが確実に存在していた。
それがひどく癪に障るのだ。
「邪魔者は、どうしてやろ」
飄々とした態度は崩さないものの、奥底に凍えるような冷気をたたえていた。
それを藍染が嗜める。
「やめたほうがいい」
「なんでです」
「殺してやる、だそうだよ」
一度冗談とも本気ともつかないふうに言ってやったことがある。だが次の瞬間には、殺意と憎悪の目を向けられた。海燕に向けられるものとは正反対の、斬りつけるような思いだった。
「なんでやろ。なんであいつなんかなあ。ボクのほうがずうっとエエ男や思いません?」
自分の頬を撫でながら市丸がおどけたように言う。目は決して一護達から離そうとはしなかったが。
「君の顔はともかく、実力で言えば比べるべくもないだろうね」
だがそんなことではないのだ。一護が海燕を慕う理由は。
おそらく自分たちには無い、なにかを海燕は持っているのだろう。初めから無かったのか、それとも無くしてしまったのか、藍染は自分がそのなにかを手に入れることは決してできないのだろうと分かっていた。
「欲しいなぁ」
ため息とともに市丸がそう望む。
藍染は一護と初めて出会った日のことを思い出す。物ではない、あの少女はそう言った。
だが欲しいものは欲しいのだ。それ以外、その存在を手に入れることを何と言えばいいのか、藍染は知らなかった。
「やあ、志波君」
「藍染隊長」
一護と別れたすぐ後に海燕は藍染に話しかけられた。その常と変わらない穏やかな五番隊の隊長に、海燕はにこやかに挨拶を返す。
「?、えーと、なにか?」
声をかけたにもかかわらず、いつまでたっても話そうとしない藍染に海燕が訝しがる。
「君は一護君ととても仲がいいみたいだね」
「はいっ」
嫌味で言ってやったのだが海燕は嬉しそうにはっきりと頷く。やましいことなど何も無い、清廉潔白な態度に藍染は内心苛々した。ただそんな思いは露程も相手に感じさせたりはしないが。
「さっきまで一護もいたんですよ。入れ違いになってしまいましたね」
知っている。一護がいなくなってから声をかけたのだから。
「あいつ面白いんですよ」
海燕が可笑しくてしょうがないといったように話しはじめた。
「この間、懐に猫入れて寝てたんです。それに気付いてなくて、起きたときに驚いて縁側から転げ落ちたんですよ」
今思い出しても笑えると、そう言って海燕は目を細めて笑っていた。それがまるで自慢されているようで、藍染の中で何かがぴり、と軋む音がした。
「いいね、一護君みたいな隊員がいて。僕も欲しいよ」
「引き抜こうったって駄目です。あいつはうちの隊員なんですから」
「そう。‥‥‥‥‥でも、欲しいんだ」
「え?」
よく聞こえなかった、もう一度海燕が聞き直そうとしたとき。
「海燕さんっ!!!」
悲鳴のような声。咄嗟に海燕が振り向いた。
そこにいたのは先ほどまで朗らかに話し合っていた少女。一護が泣きそうな顔をして立っていた。
「おー、一護」
海燕が手を挙げて一護に呼びかける。その姿に一護がわずかにほっとした顔をするものの、キッと藍染を睨みつけて早足で海燕達のところまでやってきた。
それを面白そうに藍染が眺める。
「海燕さん、浮竹隊長が呼んでる」
緊張した声だった。
「分かった。それでは藍染隊長、失礼します」
海燕が一護を伴って踵を返そうとした。だが一護は動こうとしない。
「俺、まだ用事があるから、海燕さんは先に戻っててください」
「そうか?じゃあそうするけど」
一護の様子に疑問を感じつつも海燕は先に戻ることにした。
その後ろ姿を一護が見えなくなるまで見送った。そして完全に海燕の姿が見えなくなると、一護は藍染に向き直った。その表情は固い。
「何を、言ったんだよ」
「何も」
藍染は目を瞑り、ゆるく首を振った。その余裕のある態度が一護を苛立たせ、不安を煽る。
用事を言付けられて海燕を迎えに行った一護が藍染の姿を目に入れた瞬間、自分でも驚くほどの声で海燕の名を叫んでいた。振り返った海燕がいつもと変わらない笑顔で自分の名を呼んでくれたとき、やっと安心することができたのだ。
「‥‥‥やめろよ」
懇願にも似た響きだった。
いつもの藍染に向ける憎悪の目ではない。ぎゅっと眉を寄せて、どちらかといえば弱々しい姿だった。
「どうして海燕さんなんだよ」
どこかで聞いた台詞だ。思わず笑みがこぼれる。
「君こそ、どうして志波君なんだい」
「俺が聞いてるんだっ! なんで海燕さんまで巻き込もうとするんだよっ!?」
泣きそうだな、一護の顔を眺めてぼんやりとそう思った。
思えば一護には一度も笑いかけてもらったことが無い。見るのはいつも他人に向けられた笑み。それを遠くから眺めて、まるで羨ましがる子供のようだと藍染は自嘲した。
「志波君なんて本当はどうでもいいんだよ。でも君が彼を大切に思っているだろう。それがね、ひどく、気に食わないんだ」
最後の台詞は噛んで含めるようにゆっくりと言った。それが逆に恐ろしいと一護は思う。
「じゃああんたは、あんたには、大切に思う人はいないのかよ」
「大切?」
一護の問いかけに藍染はそれは何だと、本気で聞いてきそうなそんな顔をした。藍染のその心底分からないといった様子に一護の目が苦しそうに細められる。
「そうか、あんたは知らないんだな」
「何を、」
「欲しがるだけじゃ、誰も応えてなんかくれやしない」
泣きそうな、苦しそうな目はいまや強い輝きをたたえていた。射るような目に、藍染に対する哀れみが見て取れて、自然と眉が跳ね上がった。
「海燕さんは知ってる」
「何を、知っているというんだ」
分からなかった。一護が何を言っているのか、自分には理解ができない。
海燕が持っている何か。決して自分が手に入れることができないとそう思った何かを。
「俺も知ってる。一度は、無くしてしまったけど」
その言葉に藍染ははっとする。
初めから無かったのか、それとも無くしてしまったのか。
「あんたも、無くしただけなのかもな」
一護がそっと言葉を紡いだ。初めて聞くその声音、そこには労るような響きがあった。
それにカッとしたのか藍染が一護の腕を掴む。らしくないと、考える余裕は無かった。
「よせ。哀れんで、いるのか」
そんなことは許さない。そんなことはあってはならない。そんなことを望んでいるのではないのだ。自分に向けられる憎しみを心地よいと感じる、それでいい筈なのに。
本当にそんなものが欲しいのかと、誰かが囁くのだ。
一護は手を振り払わない。それに無性に腹が立った。
「どうして振り払わない」
「今のあんたは、恐くない」
ぎり、と藍染の手に力がこもる。それでも一護は顔をしかめるだけで振り払おうとしない、それどころか藍染の目を真っすぐに見る。
そこにあるのは哀れみか。
「可哀想な藍染隊長」
たった一言。
けれど確かに、藍染の胸を貫いた。