だから聞かせておくれよ
ついには憎しみさえも失なった。
「哀れだな」
自分で自分を嘲笑う。可笑しくて仕方が無かった。
笑いの発作が収まらない。ついには右手で口を覆って声を殺して藍染は笑った。
だがその笑い声がふいにやむ。
「違う」
ぎり、と己の拳を握りしめる。食い込んだ指から血が溢れてきたがかまわない。更に、更に藍染は拳を握りしめた。ぽたりと血が床に滴り落ちた。
「‥‥‥違う。哀れなど、あろう筈が無い」
声には激情。
それに一層神経が逆なでされて拳に力がこもった。
あの目が頭を離れない。心を苛みかき乱す。こんなことは初めてでそしてあってはならないことだった。
そう、あってはならないのだ。
ふと藍染の目に血が映る。握りすぎた拳から流れた己の血だ。
床に滴ったその血にそっと触れた。その血の温かさに、藍染の心が冷静さを取り戻す。
すっ、と触れたその血を横に滑らせた。
「黒崎一護‥‥‥」
次の瞬間、ぐっと血を握りつぶした。
もう、後戻りはできないのだ。
まるで血のようだった。
「すっげー真っ赤だな」
一護の声にルキアが振り返る。視線の先には夕焼け空が、一護の言う通り真っ赤に燃え上がっていた。
「たしかに。このような夕焼け空は初めて見る」
いっそ不吉な、と言おうとしてルキアはやめた。一護のオレンジ色の髪が夕焼けに反射してとても美しかったからだ。そしてどこか憂いを秘めた一護の表情も相まって、ルキアは言葉を失うほどに見入ってしまった。
だがその悲しげな一護の姿にルキアは我に返る。この年下の友人は最近ひどく元気が無い。
「なにか、あったのか?」
「‥‥‥‥なんだよ突然」
ルキアの心配そうな声に、だが一護は何のことかととぼけてみせる。その一護の様子にルキアはため息をついて首を振った。義兄以上に頑固な一護がこうと決めたら決して動かないと分かっていた。だからいくら問いつめてみたところで一護は話そうとしないだろう。
「あまり溜め込もうとするなよ」
できるのはそっと心配することだけだ。
一護はルキアの言葉に目を伏せた。そしてもう一度夕焼け空を見やる。
赤い、赤い空だった。
なぜなのか、あの男の名が自然と唇から紡がれた。
あの、愛を知らない男の名を。
仕事を終えた帰り道、空は一層赤さを増すばかりだった。その中を一護がひとり家路につく。
歩を進めながらも一護の視線は夕焼けに釘付けで、それに斬月がため息をついた。
(‥‥‥‥なんだよ)
ルキアといい斬月といいため息をつかれるほど自分は元気がないように見えるのだろうか。一護が不満を込めて斬月に話しかける。
『あの男のことを考えているな』
一護の歩みが止まった。
『忘れろ。あの男は破壊を望む。そういう宿命の元に生まれた男だ』
(よく分かんねえよ)
『平穏を望まない。周りは己の退屈を紛らわすための玩具でしかないのだ。そんな男に捕まってみろ、壊されるのがおちだ』
斬月の言っていることは間違っていないだろう。藍染のあの目、あの笑み、あの恐ろしさを思い出す。出会った当初はただひたすら恐ろしく、不安でしかなかった。
自分を欲しいと言った。物として、欲しいと言ったのだろう。
それしか知らない。誰かを手に入れるということ。あの藍染は物としてしか、それだけしか知らないのだと一護は最近になって気が付いた。
ーーー可哀想な藍染隊長。
まるで昔の自分を見ているようだった。
愛を見失ってしまった頃の自分。
日が、もうじき沈もうとしていた。
「こんにちは、一護君」
どく、と血が逆流するような錯覚を覚えた。
優しい声、まるで唄っているかのようだった。ゆっくりすぎるくらいに一護が声の主へと振り返る。
離れた場所にいた人物。不思議と声は辺りに響いてた。
「ああ、もうこんばんは、かな。今日はとても美しい夕焼けなのに消えてしまうなんてもったいないね」
藍染隊長、一護の唇がその名を声なき声で呼ぶ。そんな一護の様子を見ることはせず、藍染は沈みゆく夕日を目を細めて眺めていた。
「よく見ておくといい。これが最後となるのだから」
声にはどこか喜色が込められていた。
「どういう、意味だ」
ようやく藍染が一護を見る。
紡いだ言葉は。
「さようなら」
一瞬だった。
何があったのか分からない。どうして藍染がすぐ目の前にいるのだろうと一護には不思議でならなかった。
胸の中心が焼けるように熱い。
『一護っ!!』
斬月の悲痛な声に一護は自分の胸を見下ろす。
そこには刀が突き立てられていた。
「‥‥‥‥っ、」
声がうまく出せない。代わりに出たのは赤いもの。
それを見て夕焼けみたいだなと、一護は場違いにも思ってしまった。
「夕焼けみたいだね」
藍染も同じことを思ったのだろうか、一護が藍染の顔を見上げる。一護の視線を受けとめて藍染が薄く微笑んだ。そして手を伸ばし、一護の髪を撫でる。
「綺麗だ」
その言葉とともに一護の胸から血が溢れる。それが藍染の刀の刃を伝って鍔へ、そして地面へと滴った。
落ちる寸前の一護の血を藍染がその指ですくう。
「温かいね」
「‥‥‥‥あんたと、」
ごほ、と一護が咳き込む。最後まで言葉を紡ぐことができない。
一護の唇を濡らすその血に藍染は見入った。
「もう、終わりにしようと思ってね」
「終わり、」
繰り返す、うまく頭が働いてくれない。ただ、優しい声だなと、そうぼんやり思った。
「君は死ぬ。終わりだ。分かるかい?」
まるで幼い子供に聞かせるように藍染は優しく言葉をかけた。
その声が、波紋のように頭に響く。
「死ぬ、」
「そう。君は死ぬんだ」
地面には赤い血溜まりができていた。それさえも夕日に反射して美しいと思うなんて、自分は頭がおかしくなったのかと一護は笑う。だが出るのは呻きのみ。
「君は本当に面白い子だね。この僕を、翻弄させた」
一護は一心に藍染を見る。
二人は見つめ合った。
「だがそんなことは許さない。あっては、いけないんだ。僕を、」
いつのまにか藍染の顔に笑みは無い。
「哀れむなど」
ずる。
刀が抜かれる。一護は崩れ落ち、己の血溜まりへと膝をついた。
「でもそれももう終わりだ。君との戯れは、とても楽しかったよ」
踵を返す。一護の目に映る藍染の足が離れていく。
「こわいのか、」
しぼりだすような小さな声だった。だが藍染の耳を確実に振るわせた。
「‥‥‥‥なに」
一護が顔を上げて藍染の目を射抜く。夕日のせいか、一護のすべてが赤く染まっていた。髪も肌も、そこから流れる血も、一層赤く輝いていた。
「こわい、から、逃げる、のか、」
「僕が、君を恐い?」
笑わせる、そうは言ったものの実際には笑いなど出てはこなかった。なにかが、胸の奥底からじわりと溢れてくる。それに藍染は動揺した。
一護は首を振るう。
「あんたは、知らない、」
ひゅーひゅーと聞こえるのは一護の息づかい。喋るたびに苦しげに顔を歪めるが、それでも一護は黙ろうとしない。
「愛しさを、しらないんだ、」
藍染の目がわずかに見開かれる。
「愚かな、ことを‥‥‥」
だが声はかすれて覇気がない。それが信じられなくて、藍染は知らず拳を握った。
じわりと藍染の拳から血が滴る。落ちてゆく藍染の血を一護は目で追った。
「だからこわいんだ、知って、かわっていく、ことが、」
「黙れ、」
「こわい、ことなんて、」
「黙れと言っているっ!!!」
一気に膨れ上がった霊圧に一護の体が軋む。地面に体を無理矢理押さえつけようとする霊圧に一護は必死で抗った。
「愛しさ?」
氷を思わせる声だった。
「愛だと?」
言葉を重ねるごとに霊圧が上がっていく。だがそれでも一護は屈することはなかった。
「そんなものを大事に思っているのか。そんなものに、一体どれほどの価値があるというんだ」
「しるか、そんなこと、」
「はっ、」
藍染は笑う。だが動揺は、不安は消えなかった。むしろ大きくなるばかりで、次第に胸を更には心を浸食していく。
「愛など脆い。信用して裏切られた者達を大勢見てきたよ」
「‥‥‥そうだ、愛は、こわれる、」
あの日、砕け散ってしまった。
「それでも、おれは、」
家族の顔が浮かぶ。
「なくしたく、ないっ」
藍染ではなく他の誰かに対して叫んでいるかのようだった。その一護の姿に畏怖のようなものを感じ、藍染が無意識に一歩下がった。
一護が手を伸ばした。その先には藍染の拳から滴った血。
それに触れる。
「あたたかい、‥‥‥おれも、あんたと、おなじだ、」
血に触れた手を握りしめる。そして一護は立ち上がった。
どこにそんな力が残っていたのかと藍染が驚愕する。それに構わず、一護は傷を押さえて歩きはじめた。
「かえらないと、」
愛しくて。
「っ、まってる、」
愛しくてたまらない。
いつのまにか泣いていた。それでも歩みを止めることはない。
愛しい人達に、ただ会いたかった。
まるで燃えるような夕焼けだった。
だがあの日とは違う。血ではなく、穏やかな赤さでもって空を染めていた。
その夕焼け空を目を細めて眺める。何時間も、何時間も。
あの日の空の赤さの比ではないが、今日の空も好ましいと思った。名残惜しいとばかりに夕日がゆっくりと沈んでいく。それを最後まで見届けてから帰ろうと決めた。
さくり
草を踏む音がする。
それはだんだんと近づいてきて、すぐ横で止まった。
ふたり、並んで夕日を眺める。
少しずつ、少しずつ沈んでいく。それを見てもっと遅くならないものかと考えた。
だが夕日は無情にも、山の後ろに姿を消していった。
「どうして、ここへ来たんだい」
夕日が沈んだ瞬間、藍染が来訪者に問いかけた。静かな声で、そっと労るように。
「‥‥‥あんたに、会いに」
消え入りそうな声だった。まだ傷が痛むのだろう。
藍染は一護の言葉に答えようとはしない。夕日が沈んだ方角をただずっと眺めていた。だがそれでも一護は藍染の言葉を辛抱強く待った。
だが言葉の代わりに返ってきたのはふわりとした感触。
「大事に、しなさい」
そう言って藍染は踵を返した。一護はかけられた藍染の羽織を握りしめて、その背中を一心に見つめ続けた。
殺そうとしたひと。
そして、 助けてくれたひと。