渦く
温もりが離れる。
「‥‥‥すまない」
そう言ってあの人は去っていった。
一度も振り返らず、また振り返るそぶりも見せず。
小さくなっていく広い背中。それをいつまでもいつまでも見送った。
そして見えなくなったところで、一人己の胸を押さえる。
「痛、い、」
痛い。
傷のせいではない。胸のもっともっと奥から、ぐるぐると。
胸が、痛くてたまらなかった。
はあ、と息を吐き出し一護は机の上に突っ伏した。小さい文机、まるでそれを抱き込むようにして一護はだらだらと伸びをした。
「傷が痛むのか?」
隣で書類を整理していたルキアが心配そうに一護の顔を覗き込む。それにゆるく首を振るだけで一護は否定した。だがそれでもルキアが心配そうに見つめてくるので一護はようやく体を起こしルキアに視線を合わせる。
「もう大丈夫だって」
「だが先ほどからため息ばかりついておるぞ」
「あー‥‥‥‥」
自覚はあった。一護は何も返せずにふい、と視線を外す。だがルキアはしつこく一護に視界に入ってくる。視線を外しては、ルキアが入る、そしてその繰り返し。二人の怪しい行動に周りの死神達は不審の目を向けていたことに二人は気付いていない。
「何か悩みでもあるのなら私に話してみろ」
「いや、別に、」
「さあっ!」
しまいにはルキアは飛び込んで来いとでもいうように両手を広げてきた。一護はそれにうっと体を引く。最近一護の周りはやけに過保護になった。心配してくれるのは嬉しいのだがなにかと世話を焼かれるのははっきり言って申し訳ない。もう傷は完全にとは言えないがだいたいは癒えたのだしそっとしておいてほしかった。
「さあさあさあっ!!」
「近いから」
ぐいぐいと近づいてくるルキアの顔を押し戻す。義兄の白哉とは大違いだ。
怪我をした一護の見舞いに来た者は皆一様に何があったのかと問いつめてきたが、そのすべてに一護は何も覚えていないのだと答えた。そしてそれに納得した者は少ない。退院した今でも顔を合わせれば問いつめてくる始末だ。中でも白哉は無言の重圧をかけてくる。
「皆心配なのだ」
「‥‥‥‥うん」
「お前が瀕死の状態で四番隊に運び込まれたと聞いたときどれほど肝が冷えたことか。それなのにお前は何も覚えていないと言うし」
「‥‥‥‥‥‥」
「私達では頼りないだろうか」
何も覚えていないという一護の嘘はおそらく皆見破っている。誰かを庇っているのかと聞かれたこともあった。
だがそうではないのだ。庇っているとか、そんな綺麗なものではない。
「一護」
「‥‥‥分かったよ」
一護は折れた。それと同時にぱあっとルキアの顔が輝く。
周りに人がいないかを確認して一護はそっとルキアに囁いた。
「そのかわり誰にも言うなよ」
「分かっている。私は口が堅い」
「お前の兄貴にもだぞ」
「うっ、‥‥‥‥‥善処する」
「おいっ!」
「分かった。決して口は割らない」
心配だ、ものすごく。
一護の胡乱な視線にルキアは必死になって真剣な顔を作ってみせる。それを見て再びため息をつくと一護は覚悟を決めた。
「お前、‥‥‥抱きしめられたこと、あるか?」
「ブっ!!」
「ぅわっ!」
吹き出したルキアに一護が咄嗟に避ける。ルキアの顔は真っ赤だ、それにつられて一護の顔も真っ赤に染まる。二人揃って真っ赤っかだ。
「一護、お前、もしや、」
「なんだよ」
「不倫はいかんぞ」
「‥‥‥はああ?」
なんで不倫。頭の上に疑問符を一杯浮かべながらも一護はなんとか聞き返す。ルキアは一護の両肩に手を置くとまるで諭すようにこう言った。
「海燕殿には奥方がいるのだぞ」
「なっ、バカっ! 誰が海燕さんだって言った!!」
「なんだ、違うのか」
つまらん、ぼそっと呟いた言葉を一護は聞き逃さなかった。ぎろりとルキアを睨むと、もしかして話す相手を間違えたかと頭の隅で考えた。
「相手は誰なのだ」
「相手は、」
「相手は?」
沈黙が落ちる。一護はそれ以上口を開こうとしない。
「まあいい、いやよくはないのだが。とりあえずお前はどう思っているのだ」
「どうって?」
「抱きしめられて嫌だったのか。」
思い出す。抱きしめられて、だがすぐその腕は放された。
それを、寂しいと。
胸が痛んだ。
「ルキアっ!!」
「ひいっ、」
「俺、ちょっと出てくる」
ルキアの返事も聞かずに一護は隊舎を飛び出した。その後ろ姿を見送りながらもルキアはなにやら感動していた。
「女子同士の会話とはこのようなものなのか」
一護は走る。目指す場所まであともう少し。
「っ!」
だが不意に腕を掴まれて体勢を崩した。それを優しく受けとめたのは馴染みの死神だった。
「そんなに急いでどこ行くん」
「市丸、隊長、」
「ギンでええよ。一護ちゃん」
にいっと笑う。相変わらず底の見えない笑い方をする。あの人もそうだった。底の見えない、見せようとしない、そんな笑みを常に浮かべていた。
だがそれが変わったのはいつからだろう。
「どこ、行くの」
他に意識を飛ばしかけた一護を呼び戻すようにギンがもう一度同じ質問を繰り返した。その声が、いつもの飄々とした感じとは違う気がして一護は自然と身を引こうとする。
「逃げんといて」
「ギン、」
腕が痛い。ギンは一護を逃がさぬように力を込めて腕を掴む。
「ボク、知ってるんよ」
「何を」
この先にある隊舎は五番隊のみ。
だがギンが言いたいのはそんなことではなかった。
「この傷」
ひゅっと息を呑む音がした。一気に顔を青ざめさせた一護に一層笑みを深めるとギンは傷があるであろう胸の中心に死覇装の上から触れた。
「あの人に、やられたんやね」
後ろから抱き込まれるようにして、耳にそっと囁かれた。優しい仕草、優しい声、だが一護にはまるでそれが悪魔の囁きのように聞こえた。ギンの言っていることは正しい。正しいのに、一護は否定したい衝動に駆られて身をよじる。
「暴れんといて。まだ傷が痛むやろう」
「っあ、」
ぐっと傷のある部分に力を込められる。布越しとはいえまるで傷をなぞるようにして触れられれば一護の傷は痛くて仕方が無かった。
「それやのに、なんであの人に会いに行くん。なあ、なんで?」
「そんなの、」
こっちが知りたかった。なぜ己を殺そうとした相手に会いに行くのか。会いたいのか。
一護ひとりではそれが分からなかった。だからルキアに相談したのだ。そして何かが少し分かった気がする。その瞬間、会いたいという思いが一護を突き動かしていた。
「確かめに、行くんだ」
この思いを。
一護の答えに、ぎゅうっと眉間に皺を寄せてギンが不機嫌そうに唇を歪ませた。
「あの男が何したんか、‥‥‥‥何されたんか分かってるんか。自分殺そうとした男に会いにいくやて?」
今度は傷の上だけではない、一護の胸から鎖骨の辺りをギンの大きな手が押さえ込んだ。いい知れない恐怖が一護を覆う。
離せと、言葉になる前に別の声がそれを遮った。
「離れろ」
背後からの声。ギンの首にぴたりと斬魄刀が突きつけられていた。
目の前の一護に気をとられて背後から近づく霊圧に気が付かなかった。ギンが忌々しそうに舌打ちする。
だがすぐさまいつもの表情へと切り替えると一護の肩に顔を埋めくつくつと笑いはじめた。
「離れろ。離れろですかっ。あんたがそれを言いますの」
首だけを回しギンが挑発的に藍染を見た。その視線をわずかに細めた目で藍染は睨み返した。
「‥‥‥‥そうだ」
「はっ! それはおかしいこと。この傷つけたんは一体誰です?」
一護を抱えたままギンが振り返る。一護と藍染の視線が交錯するが、それはギンによって遮られた。
すっと一護の死覇装の襟をずらす。それは襟元をわずかにずらせばすぐに見えるところにあった。
一筋の線。
それほど目立ちはしないが、だが決して消えない傷だった。
「っ‥‥‥‥、」
ほんのわずかにだが藍染の斬魄刀の切っ先がぶれる。一護の傷を見るのは初めてだったのだろう。
だがその隙をギンは逃しはしなかった。
「射殺せ、」
「いやだっ、」
神鎗が藍染を貫いた。
その筈なのに、予想した衝撃は来ず、代わりに藍染を襲ったのは柔らかい衝撃。
「なんで、」
一護が藍染に抱きつき、神鎗がその直前で止まっていた。
後ろが見えていないのか、一護は襲ってくるであろう痛みに耐えようとさらに力を込めて藍染を抱きしめた。
ギンも、そして藍染も呆然と一護を見下ろしている。それほどこの光景は信じられないものだった。ただ一護だけが縋るように藍染を抱きしめて離さない。
ぎり、と歯が軋む音がした。
「なんでやっ、離れえっ!!」
「いやだっ!!」
一護は離さない。離してたまるかとばかりに声を荒げた。もはやギンの目は薄らと開かれていて相当の怒りが見て取れる。このままでは一護もろとも貫きかねないと、藍染が一護を引き剥がそうと肩に手をかけた。
「いやだっ、いやだいやだいやだっ!!!」
「一護、」
だが予想外の力で抵抗される。その姿を藍染は困惑で、ギンは怒りと悲しみがないまぜになったような表情で見つめていた。
「いやだ、」
「どくんや」
「いやだ、この人を、」
殺さないでくれ。
小さな小さな声だった。
嗚咽混じりのその声は、だがたしかに二人に届いた。
「‥‥‥なんで、」
ぽつりと溢れた言葉。だが誰もそれに返す者はいない。
ひとり、ギンだけがその場に立ち尽くしていた。
髪を梳かれる感触。それから肩、背中を大きな手が下りていき、優しく上下に宥めるように撫でられた。
その優しい仕草にますます涙がこぼれてしまい、顔を押し付けて一護は泣いた。
「どうしてだろうね」
藍染はため息とともにそう呟いた。
「どうして君が、僕の腕の中にいるんだろう」
「知るか、ばかやろう、」
悪態をつく一護を藍染が優しく宥める。背中に触れる男の手を一護は振り払おうとしない。
出会った当初は憎まれてさえいたのに、何故その彼女が自分に縋り付き涙をこぼしているのか。殺そうとした男の胸に抱かれているのか、藍染には分からなかった。
あれから何度か二人は共に傍にいた。特に会話を交わす訳ではなかったが、夕日を眺めたり、一緒にいたりとただそれだけだった。殺そうとした男に近づく意味は何かと藍染はいつも疑問に思っていたのに、当の一護はいつも不思議な表情をたたえて藍染の隣に佇んでいた。
一護への殺意は湧いてこず、静かな時間だけが過ぎていった。
そしてある日、なにかの思いに突き動かされて一護を抱きしめてしまった。理由は分からない。ただ、抱きしめたかっただけとしか言いようが無かったのだ。
藍染は己の膝の間に挟まれて小さく震える一護を見下ろした。なにかが、己の中で芽生えはじめていた。それは段々と形になり己のすべてを支配しようとする、藍染はそれに恐怖した。
宥める手が一護の体を抱きしめた。
「‥‥‥‥こわいんだ」
藍染の背中にあった一護の手がわずかに反応した。
「これはなんだ」
知らない。誰かに縋り付いていないと押しつぶされそうな感情など。
だがそんな藍染を今度は一護が優しく宥めた。
「俺もこわい。でも、それでいいんだ」
言って、また一筋涙が頬を伝う。その涙に自然と藍染の唇が吸い寄せられた。
その仕草を受け入れて、一護はまたもや痛む胸に顔をしかめた。
「痛むのかい?」
「違う」
咄嗟に否定する。だが藍染は労るように傷を死覇装の上から優しく撫でた。だが痛みは収まるどころかむしろ苛むようにもやもやと一護を襲う。
これはまるで。
「渦だ」
「なんだって?」
「‥‥‥なんにも」
ぐるぐると、不規則に一護の胸を苛む渦。この目の前の男にも渦はあるのだろうかと一護は知りたくなった。
しばらく撫でていた手を止めると、藍染は一護の襟をずらし傷を外気に晒す。
そして恭しげに傷に口づけた。
「‥‥‥‥はあ」
知らず、どちらからもため息が溢れる。
やはり渦だ。
一層胸が切なく鳴った。