天翔る燕のように
右、左、もう一度右。
誰もいない。音を立てないように気をつけながら部屋を出た。
「どこへ行く」
背後からかかった声に反射的にびくりとした。
恐る恐る後ろを振り向くと、予想していた通りの人物が腕を組んで仁王立ちしていた。
「‥‥‥‥手水に」
「ほう。下駄を持ってか」
カターンと隠し持っていた下駄が落ちる。ついでに汗もつ、と頬を滑り落ちた。
はあ、と相手が盛大にため息をついた。
「熱を出したばかりじゃろう。おとなしく寝ておらんか」
「でも、姉貴、」
「姉様じゃ。一護」
「‥‥‥‥ごめんなさい。夜一姉様」
四楓院家の一の姫、といえば誰もが知る有名人だ。
だが二の姫、と聞かれれば首を傾げるものが多い。そもそも四楓院家に二の姫がいるのかと逆に聞き返されてしまう。
その二の姫、一護はふてくされていた。
「外に出たい」
「駄目じゃ」
ばっさりと言われた一護は夜一をじいーと睨む。だが夜一は見張っているのか、扉の近くに腰を下ろし何やら書物を読んでいて一護を見ようともしない。
怒った一護は布団を頭からすっぽりとかぶってふて寝することにした。
だが怒りが収まらず、ぎゅうぎゅうと布団に丸まる。
「これ、そのようにしては窒息してしまうぞ」
一護は聞かない。さらに強く布団を握りしめた。
「一護」
ぎゅうぎゅう。
「仕方ない」
「あっ!」
ごろん、と布団ごと転がされてしまった。そしてその反動で一護がごろごろと畳の上を転がる。だがそれでも一護はうつぶせになって起きようとしない。
夜一が傍に寄って一護の髪を撫でる。ぴくりと動いたがそれだけで、一護は一言も喋ろうとしなかった。
「一護」
「‥‥‥姉様はずるい」
怨み以上に悲しみの籠った声だった。
「俺も姉様みたいに外に行きたい。‥‥‥走りたい、遊びたい、色々なものが見たい、まだ見たことの無いもの、それから、それから、」
「一護」
やさしく一護の髪を梳く。体が震えている、泣いているのだろうか。
一護は幼い頃より体が丈夫ではなかった。すぐに熱を出し寝込む。外に出るなどもってのほかだった。両親や屋敷の使用人達は一護を心配し決して屋敷から出すことはしなかったが、それが一護には不満でならないらしい。
「俺、もう丈夫になった」
「風邪をひいたではないか」
「もう治った。だから外に出たい」
ようやく一護が顔を上げる。頬には畳の跡がぺっとりとついていた。それが無性に可愛らしくて、夜一が一護を抱きしめた。
だが外に出すのは不安だ。体のこともあるが夜一が心配しているのはそれだけではない。
「当分は駄目じゃ」
「なんでっ」
「仕事が忙しくてのう。まさかお主一人で外に出す訳にはいくまい。しばらく待ってくれるか」
一護の体がぶるぶると震える。だがこれは泣いているのではない。
「姉貴のバカっ!ここから出てけえっ!!」
「夜一様、手が止まっておりますよ」
「止まっておるのではない」
「は?」
「止めておるのじゃ」
「夜一様!」
砕蜂の怒鳴り声など気にも止めず、夜一は筆を放り出すと床にごろりと寝転んだ。そして床の木目などを数えてみる。
「夜一様、木目よりも溜まった書類の数を数えていただいたほうがまだ建設的です」
だが夜一は聞こうとしない。いじいじと木目を数え続けていた。
このような光景は何も初めてではない。ある条件のもと発動されることを砕蜂は知っていた。
「また妹君と喧嘩をなさったのですか」
そろそろ三桁、というところで夜一の手がぴたりと止まる。続けて床を猫のようにカリカリと掻きはじめた。
「姉貴のバカと言われた」
「はあ」
やっぱり、とは言わないでおいた。
「これからずっと姉貴だったらどうしよう」
「バカはどうでもいいんですね」
夜一は恥ずかしがる一護に姉と呼ばせたがった。幼い頃は姉様と素直に呼んでくれていたのだが、どこで吹き込まれたのか姉貴と呼ぶようになってしまったのだ。
「外は危険じゃと言っておるのに」
「ですがずっと屋敷に籠らせておくのも可哀想ではないですか」
「分かっておる。じゃが外に出して、変な男に捕まったらどうしてくれるっ!!」
夜一はまだ見ぬ、憎い変な男の代わりとばかりに床を殴りつけた。轟音とともに床に大穴が開いたがそんなことはどうでもいい。
夜一が真に心配しているのはこれだった。自分の妹は身内の贔屓目を抜きにしても十分に可愛らしい。蝶よ花よと大切に育ててきた大事な妹を
「渡してたまるかあっ!!!」
再び床を殴りつける。
もうこうなったら放っておくしかない。砕蜂は隊首会に途中からでも出席しようと踵を返した。
「軍団長はおられますか」
部下の一人が報告のために入ってきたが夜一は気にも留めずにあちこちを破壊し続ける。砕蜂はため息をつくと代わりに聞くことにした。
「四楓院家の方がいらっしゃっておりますが」
「用向きは」
「それが随分と取り乱しておりまして要領を得ないのです。お嬢様がどうとか」
「なんじゃとっ!?」
夜一が瞬歩で近づくと部下の襟元を掴む。
「一護がどうしたというのじゃっ、答えよっ!」
妹のこととなると人が変わる。夜一は自分の何倍もある部下の体を宙に浮かすほどに締め上げた。
「お、お嬢様が、」
「早う言わぬかっ!」
言うのと死ぬのとでどちらが早いだろう。砕蜂は他人事のように眺めていた。
「屋敷のどこにも見あたら」
そこで部下は投げ捨てられた。鈍い音をたてて壁にぶつかる。
死ぬほうが早かったか。砕蜂が夜一のほうを向くとそこにはもう誰もいなかった。書類がまだ残っているというのに。
「私も探しにいくか」
オレンジ色の髪の少女が着物にもかかわらず大股で歩いている。背には刀。優雅な着物姿にそれはあまりに無骨であったが当の本人はすこしも気にしていない。
『黙って出てきてよかったのか』
(なんだよ、お前まで出るなって言うのか)
すん、と鼻をすする。怒りで涙がにじんだ。
だがそれでも歩みを止めなかった。
『後で叱られるぞ』
(かまわない。これは家出だ。俺の本気を分からせてやるんだ。それまで絶対に帰らないからな)
そしてまた鼻をすする。
斬月はやれやれとため息をついた。本当は不安でならないくせに、決して弱みを見せようとしない。
『私が傍にいる。だからいい加減泣き止んでくれ』
「泣いてねえっ!」
怒鳴りつつも刀を繋いだ鎖をぎゅっと握る。
そして一護は黙々と歩き続けた。
『どこへ行くのだ』
一護の足がぴたりと止まる。数秒の沈黙の後、再び歩きはじめた。
『‥‥‥‥考えていなかったのだな』
「うるさいっ!」
「なんぞ意見のあるものはおるか。おらんのなら本日はこれで終了する」
総隊長の言葉にそれぞれの隊長達が帰ろうとする。だが一番隊の隊員が総隊長に何やら耳打ちをすると、総隊長が待ったをかけた。
「四楓院の娘が行方知れずだそうじゃ。見かけたものはただちに知らせるように」
その命令に誰もが首を傾げた。四楓院といえば刑軍の夜一のことではないのか。
だが唯一顔を強ばらせると何も言わずに早足で部屋を退出した隊長がいた。
「なんだあ、朽木のやつ」
「四楓院ゆうたら瞬神夜一のことやないの?」
誰もがそう思った。だが四番隊の卯ノ花が首を振る。
「夜一殿の妹君です」
「妹なんていたかい?」
京楽の疑問はもっともだ。妹など、聞いたことがない。
「浦原、てめえは知らねえのか」
「知りません」
古い馴染みの浦原でさえ知らないとはどういうことだ。本当にいるのかと皆の視線が一斉に卯ノ花へと注がれる。
卯ノ花がにっこりと穏やかに微笑むと説明をした。
「たしかにおりますよ。ですが体があまり御丈夫ではなく、ほとんどを屋敷の中で過ごしていらっしゃいます」
「それがなんでいなくなるんだ」
「かねてから外に出たいと仰られておりました。ですが昔と比べると随分お元気になったとはいえまだ油断はできません。わたくしも今から探しに行かせていただきます」
そして卯ノ花も退出する。何人かの隊長は部下達に探させようと次々と退出していったが、残ったのはあまり興味のない隊長ばかりだった。
「局長はん、ほんまに知りませんのん?」
「うーん、昔弟か妹が生まれると言ってたような言ってなかったような」
いつの話だ。市丸は浦原に聞くのは諦めた。
「けっ、貴族の娘の我が儘に付き合ってられるか」
剣八が吐き捨てる。そもそも貴族とは昔からそりが合わない。
その言葉にそれもそうだと残りの隊長達も退出していった。
『一護、無理はするな』
(大丈夫。あともうちょっとで着く)
少し息苦しい。熱がまた上がってきたのかもしれない。
だが通りがかりの死神に十三番隊の隊舎を聞いたところ、あともうすこしで着く筈だ。
一護は悩んだ結果、とりあえずルキアのところに行くことにした。同じ四大貴族で見た目の年齢が近いルキアとは友人だ。一護はルキアの義兄とも顔見知りだったが、病み上がりで会いたい顔ではなかったので都合良く忘れることにした。
(緑が多い)
さわさわと木の葉がこすれる音がする。屋敷の庭にも植物は多いが一護の目の前に広がる光景とはまったく違う。昔に見た森を思い出した。あまり鮮明ではなかったが、空気が懐かしいと感じた。
(暖かいな、それになんか顔がぽかぽかする)
『一護、それは』
そこで一護の意識が途切れる。ふらりと傾ぐ体はこのままだと地に打ち付けられてしまうだろう。咄嗟に斬月が具象化して受けとめようとするが、その前に誰かが一護の体を支えようと手を差し伸べた。
「おいっ!」
突然目の前で倒れようとする少女を受けとめたのは海燕だった。
死覇装を着ていない人間が護廷を歩いていることは珍しく、なんとなく眺めていたらふらふらとしているではないか。近寄ってみると倒れたので海燕は驚いた。
熱がある。とりあえず座敷に寝かしてやろうとしたところ、近づいてくる気配に気が付いた。
「海燕殿」
「朽木か。わりいけど床の用意してくれねえか」
「一体なぜ、っ!、一護っ!!」
「いや、苺じゃなくて床の」
「海燕殿は早く四番隊に行って卯ノ花隊長を連れてきてくださいっ!早くっ!!」
「は、はい」
俺副隊長なんだけど、とは言えなかった。ルキアのあまりの剣幕に海燕は一護をすばやく座敷に横たえると四番隊へと向かった。
目を開けるとルキアが心配そうに覗き込んでいた。名を呼ぼうとするが喉が張り付いてうまく声がだせない。けほ、と咳き込む一護にルキアが水を飲ませてやった。
「るきあ‥‥‥」
か細い声。ルキアの表情が歪んだ。
ふと手に力を感じる、どうやら握ってくれているようだ。握り返したいが力がうまく入らない。
「一護さん」
知っている声だった。一護が視線をめぐらせる。
「うのはなさん」
穏やかな顔で微笑まれ一護は安心した。それにしてもここはどこだろう。
一護の表情からルキアが察して説明をしてくれた。
「十三番隊の隊舎の近くで倒れそうになったところを海燕殿が助けてくれたのだ」
海燕殿とは誰だろう。
そのとき襖がすっと開き男が入ってくる。手には盆を持っていた。
「薬は飲めるか」
一護はこくりと頷く。どうやら男は白湯を持ってきてくれたらしい。起き上がるのを手伝ってもらいなんとか薬を飲み干した。
背中に感じる大きな手。そういえば自分は父や斬月以外にこうして触れられるのは初めてだった。
それが無性に恥ずかしくて、自然と顔が赤く染まった。
「大丈夫か、一護」
「だい、じょうぶ」
落ち着け。深呼吸を繰り返してなんとか正常に戻す。
そして再び体を横たえたところで卯ノ花が一護に厳しい顔をむけてきた。
「無理はいけないとあれほど申したでしょう。それなのに一人でこのような遠い場所にお出でになるとは」
「だって、外に出たかったんだ」
駄目だと言われれば余計に反発心が生まれてしまう。それに夜一の土産話や書物を読むと、外への憧れは募るばかりだった。
「昔は、よく外に連れてってくれてた。でもそれを最近思い出そうとしてもうまくいかないんだ。そしたら、なんか恐くなって」
恐い。寂しい。
それなのに自分は姉に会いに外へも行けない。
広い寝室が余計に一護の孤独を強調させた。
「‥‥‥このまま、ひとりで死んじゃうんじゃないかってっ」
外の世界も禄に知らずに死んでしまう。
それもたったひとりで。
一護はそれがとても恐ろしかった。今回の熱もただの風邪だと分かっている。だが体が弱ると心も弱るのか、一護の日頃の鬱憤も相まってついに家出という行動に移してしまったのだ。
悲しさと情けなさから涙がこぼれ落ちた。
「それは、嫌だな」
言葉とともに一護の頭にぽんと何かが置かれる。それはやさしく一護の頭を掻き混ぜてくれた。
「それは寂しいだろうなあ。なのによく頑張ってここまで来たな。偉いぞ」
今度は死覇装の袖で涙を拭ってくれた。ちょっと痛かったが我慢する。それよりも嬉しさのほうがずっと勝っていた。
知らない男の人。海燕、という名を唇の動きだけで紡いだ。
「偉い?」
「ああ。それに根性もある。だから大丈夫だ、お前は死なねえよ」
「本当に?」
「ああ」
幼い子供のように聞き返す。不思議と一護はこの人の言葉を信じることができた。
ルキアと卯ノ花も頷いている。
海燕をじっと見つめた。するとにかっと笑ってくれた。
「かいえんさん」
「ん」
「‥‥‥‥ありがと」
「おう」
感謝の気持ちで一杯なのに一護はこの一言しか言うことができなかった。だが海燕は嬉しそうに一護の頭をまたやさしく撫でてくれる。
不思議な人だと思った。この人の言葉は、笑顔は、自分に勇気を与えてくれる。
それだけでもう胸がいっぱいだった。
この人のようになりたい。萎えかけた心に力が戻った瞬間だった。
「ごめんなさい」
知らせを聞いて十三番隊に駆けつけてきた夜一と白哉に一護は素直に謝った。
最初は家出だなんだと言っていたが、今では反省して屋敷にも帰るつもりでいる。
「俺、もう我が儘言わない。こんなこと二度としないって誓うよ」
夜一の手を両手で握って一護は正面から見据える。その目に本気と反省を見てとり、夜一は一護を抱きしめた。
「そうしてくれ。まったく、肝が冷えたぞ」
「ごめんなさい、夜一姉様」
夜一はまず白哉のいる六番隊に殴り込んだ。一護の知り合いといえば限られている。だがそこに一護はいなかった。
納得できないのが白哉だ。
「何故私ではなくルキアのところなのだ」
一護のことは幼少の頃から知っている。ルキアよりも付き合いは長いというのに、この差はなんだ。
「‥‥‥‥‥」
一護は黙秘権を行使した。まさか病み上がりで会いたくない顔だとは言えなかった。
「兄様、一護も同性のほうがいろいろと話しやすいこともあるのでしょう。大したことではありません」
ルキアの助け舟にうんうんと一護も頷いた。
そして白哉を一発で黙らせる秘技を使った。
「ごめんなさい。白哉兄様」
やや棒読みだが白哉は機嫌を直したらしい。ひとつ頷くと一護の頬を撫で、許してやった。
「迷惑をかけてすまなかったな。だが妹は無事家に戻ったゆえ。それに深く反省しておるし、もう二度とせぬと誓ってくれた」
隊首会で夜一が一護に代わり謝罪する。本当は一護が直々に謝罪をしたいと申し出たが夜一ら数名に却下された。
そうとは知らないほとんどの隊長達が安心したように息をついたが一人、異論のある者がいた。
「夜一さんってば水臭いじゃないですか。妹さんがいるなんてあたし知りませんでしたよ」
「教えておらぬからな」
夜一の突き放すような言い方に浦原が眉を寄せた。
腐れ縁とはいえ、大事なことを教えてくれないのは少々むっとするものがある。
「悪い虫がつくといけませんから」
ほほほほほ‥‥‥。卯ノ花の邪気のこもった笑いが響いた。
夜一は一護が生まれて妹だと分かった瞬間、浦原に知らせるのはやめようと固く誓った。一護の教育に悪影響だと思ったからだ。だが当の本人には与り知らぬことである。
「貴様には絶対に会わせん。悪い菌が移りそうじゃからな」
技術開発局なだけに。
そのあまりの言いように浦原が反論した。
「何です、あたしが何したっていうんですか!」
今までに自分が悪いことをしたとは思っていない、ある意味羨ましい性格の男はひどいひどいと抗議した。
「己の胸に聞いてみるがいい」
だが夜一の言葉につっ込んだのは白哉だった。
「痛む胸があるとは思えんがな」