第一章

  一、魔物の住処  


 災いというものは、ある日突然降り掛かってくるものである。
 武家ではあるが権力争いとは無縁だった父、そして妹二人。片田舎で家族四人、一護は慎ましく暮らしていた。医術の心得があった父が開く診療所を手伝いながらも、一護は剣術道場に通い、読書や手習いを欠かさず、幼い妹二人の面倒を良く見ていた。
 何か特別なことが起こるような日常ではなかったが、一護は毎日をそれなりに楽しく暮らしていた。
 一護が十五の元服を迎えたばかりの頃だった。災いは、そんな平凡な暮らしを続けていた一護に容赦なく振り掛かったのである。



「帰りてえ‥‥」
 小さな実家兼診療所が一体いくつ入るだろう、そう思わせるほどの広大な庭に一護はいた。つい最近までは継ぎ接ぎの施された安っぽい着物を着ていたのだが、今の一護はとても立派な、動くことさえ躊躇させるような羽織袴姿になって、澄んだ池の畔にしゃがみ込んでいた。もちろん裾が地面につかないように、慎重に。
 周りは美しく整えられた庭木に囲まれはいるが、一護はちっとも気が休まらない。どこへ行くにしても必ず誰かがついてくる。今もすぐ後ろに、世話係という女が付き従っていた。
「あのー‥‥」
「はい、上様」
「‥‥‥‥なんでもないっス」
 上様と呼ばれ、一護はのたうち回りたくなった。
 以前は黒崎さんとこの一護ちゃん、だったのに。
 しかし今の一護は、なぜか一国一城の主になってしまっていた。












「‥‥‥‥‥夫?」
「はい」
「夫‥‥‥」
「はい」
「いや、いちいち返事しなくていいから、」
「はい」
「‥‥‥‥‥」
 やりにくい。
 一護は能面みたいに表情を崩さない侍従を下がらせて、ひとり部屋の中で考えを纏めようとした。今聞いた話を総合すると、自分には既に夫がいるらしい。
 それも複数。
「おっとーーー!?」
 誰もいないことをいいことに、一護は畳の上をごろごろと転げ回った。そのとき脇息に頭を打ちつけて、ようやく動きを止めた。
 しかし混乱は止まらない。複数の夫。側室、というやつらしいが、それが一護の知らぬところで勝手に決められていたらしい。
「これだから金持ちって奴は‥‥っ」
 貧乏武家人が伴侶を取るとなると、側室なんて贅沢なこと言っていられない。そもそも妻を複数取るとは何事だ。愛とか武士道とかどうなってんだ、取り戻せ、と訳の分からないことを口走った。
 そのとき天井から「ぶふっ」という、明らかに誰かが吹き出したに違いない声が聞こえて、一護は飛び起きた。
「誰だっ!」
 応答は無い。もしや曲者か。であえであえ。
「‥‥‥‥ま、いいか」
 通俗小説ではよく見る決まり文句を言うこと無く、一護は仰向けに寝転んだ。
 気配のない天井を見上げながら、一護は実家に残してきた家族のことを考えた。あのいつも能天気な父親が別れ際、蒼白な顔をしていた。幼い妹二人は泣き叫んでいたし、今頃きっと寂しく思っているに違いない。
 母が将軍の血筋に連なる者だと聞いても、一護はいまだに受け入れられないでいた。穏やかな笑みを称え、当たり前のように内職をしたり診療所の手伝いをしていた母が、実は姫様と呼ばれるような身分であったとはどうしても信じられない。
 そもそもお姫様がどうしてゴリラ侍と一緒になるんだよ、と呟けば、再び天井から忍び笑いが聞こえてきて、一護はもう嫌だ、と身体を丸めて不貞寝することにした。



「‥‥‥可愛らしい人」
 夢うつつに聞こえてきたのは、男の声だった。この城はある一角を除いてすべて女が占めている。城の主である一護の私室に男がいる筈が無い。だからこれは夢に違いないと思い、着物の布地の気持ち良さに顔を埋め、さらに眠りこんだ。
「田舎モンやと聞いたけど、これはこれで中々‥‥」
 つん、と髪を引っ張られる。一護は無意識に身じろぎして逃げたが、今度は頭を撫でられた。父親に撫でられるのとは違う、優しさを感じない男の手だ。
「上さん」
 目元をくすぐられる。前髪を弄ばれ、鼻筋を指が辿る。唇に触れられて、一護は小さく声を漏らして顔を背けた。
「ほんと可愛らしいこと」
 くすくす笑う声は、玩具を目の前にした子供のようだと一護は思った。ふわりと馨る香の匂いは、今まで嗅いだことも無い。押し付けがましくなく心地よいそれに、一護は薄らと目を開けた。
「ようやくお目覚めやね」
 すぐそこに狐目の男の顔があった。一護は事態が呑み込めず、びしりと固まった。
「初めまして、上さん」
 銀髪が目の前で揺れる。短いが真っすぐなそれは、さらさらと音がしそうだと思った。
 しかし近い、近すぎる。一護は息も出来ずにただ見つめることしか出来なかった。
「‥‥‥っぷ。っは、はははは!」
 突然笑い出した男に、一護もようやく正気に戻る。慌てて起き上がると、男の姿を上から下まで隈無く観察した。
「だ、誰だ、お前、どうしてここに、」
「どうしてって、上さんにお会いしたくて」
「上さん、‥‥‥‥俺のことか?」
「そう。ど田舎の芋侍から突然の将軍に転身した、あんたのことや」
「‥‥っど、‥‥っいも、」
 失礼極まりないとはこのことだ。人の部屋に勝手に入ってきて、こいつこそが曲者だ。
「出てけ! 人呼ぶぞ!」
「どうぞ? だぁれも来おへんやろけど」
 その馬鹿にした態度にむっとして、ならばお望み通り呼んでやろうと、一護は試しに声を張り上げた。部屋の外には常に人が詰めていると聞いていた。すぐに飛び出してくるものだと思っていた一護に、しかし誰かが来る気配は感じられなかった。
「なあ?」
「そんなっ、おいっ、誰かいないのか!」
 隣の部屋へと行こうとした一護の手を男が掴む。引き倒され、覆い被さってくる男の体に一護は息を呑んだ。体が少しも動かせない。巧みに封じられた手足に、この男が武術を嗜んでいるのだと容易に知れた。
「上さんは中々の腕前やとお聞きしましたけど、こうされてはただの娘と変わらんなあ」
「てめえっ」
「口汚い。まあ、深窓の姫さん相手にするよりかは、ずっと楽しめるには違いないけど」
 触れてくる指を首を振って躱し、一護は唾を吐きかけてやった。男はそれをことも無げに拭うと、次には一護の首に手を掛けていた。
「じゃじゃ馬結構。調教のしがいがあるってもんや」
 そのまま首に絡む指に力を入れられ、一護は息を詰めた。
「人払いは済んどる。泣いても叫んでも誰も来んから、好きなだけ叫ぶとええわ」
 首に掛かった手が胸元を滑る。衿を開いて侵入してこようとする手に一護はぞっとした。
「離せっ、バカっ、バカ野郎っ、どこ触ってんだっ、そこには何もねぇーっつーの!」
「うるさいなあ。やっぱ静かにしい」
「っむ、ぐ、うー!!」
 解いた腰紐を口に突っ込まれ、それでも一護は罵声を止めなかった。
 衿を左右に割り開かれ、胸を露にされる。「ほんまに無いわ」という男の言葉に、一護は悔しさと恥ずかしさで力の限り暴れた。
「歳は十五や聞いたけど。上さん、月のもんはもう来ておいでか?」
 一護の顔が強ばる。
「‥‥そう。それは結構」
 それだけで理解した男は、一護の体を縫い止め袴に手を掛けた。太腿を撫でる男の手が気持ち悪い、胸にかかる男の吐息が恐ろしい。
 ここは魔城だ。噂に聞いた将軍の城は、魔物の棲む場所だったのだ。そこに一人放り込まれた自分は、このまま食われて惨めに死んでいくんだ。
「‥‥‥上さん、」
 苦し気な声が聞こえた気がして、一護は強く瞑っていた目を開けた。視界が歪む、泣いているんだと気がついて、一護は情けなさにさらに涙を零した。
「泣かんといて」
 男の顔が近づいてきて、一護の頬に柔らかいものが押し当てられる。ちゅ、と涙を吸い取られ、一護はその優しい仕草にびっくりして目を見開いた。
「せめて優しゅうするから、上さん堪忍。どうか我慢して」
 一度強く抱きしめられ、男の体の熱さに一護は身を震わせた。怖い。しかし抵抗する気力も体力も残っておらず、一護は再開される行為の続きにただただ絶望した。
「んー‥‥っ」
 最後の一鳴き。助けて、と。

「そこまで」

 涼やかな女の声がした。同時に消える、男の体。
「戯れが過ぎるぞ、市丸殿」
 一護の体に影が重なる。思わず目を瞑って震えた一護の頬を、柔らかい手が撫でていった。口に詰め込まれた腰紐をそっと取られ、乱れた着物を整えてくれた。
「‥‥‥戯れが過ぎるんはそっちやろ。御庭番が、側室のボクをようも殴ってくれたな‥‥っ」
 部屋の隅で、頬を押さえながら男が吐き捨てた。側室という言葉に一護は男を凝視する。ではこの男が。
「不届きを働く輩から上様をお守りするのが儂の役目。殺されないだけ感謝しろ」
 女はそう言って、一護と男の間に入ってくれた。小柄だが均整のとれた肢体を黒装束で包んだ女に見覚えは無い。一護はゆっくりと体を起こし、女をまじまじと凝視した。
「儂まで謀ってくれるとは良い度胸じゃ。暗器の的にされたくなくば、とっとと失せろ」
 舌打ちをして、男が起き上がる。部屋を出る寸前、男と目が合った。
「‥‥‥またお会いする機会はありますやろ。そのときは、どうぞよろしゅう‥‥」
 男はうっすら目を開き、まるで一護の姿を焼き付けるようにして見つめてきた。
「早く行け」
 それを遮り、女が鋭い視線を投げる。男は忌々し気に口元を歪め、部屋を出ていった。



「すまぬ」
 そう言って、女が頭を下げてきた。
「天井裏からずっと上様の様子を見守っていたのだが、市丸の奴めに持ち場を離されてしまった。しかしすべて儂の不徳の致すところ‥‥‥どうか儂を斬ってくれ」
「えぇっ、いやっ、それはいくらんなんでも」
「できぬか。まあそう言うと思っていた」
 女はきびきびした動きで顔を上げ、にぱっと笑った。喋り方は爺臭いが、充分に若い女だった。
「四楓院夜一じゃ」
 両手をしっかり握られシェイクハンド。一護は面食らって女を見た。しかし思い出す、天井裏という言葉。
「っあぁ! じゃあ笑ってたのって、」
「儂じゃ。上様は独り言が多いのう」
 からから笑われて一護は恥ずかしくなった。けれど初めて気安く話しかけてくれる人と出会って、一護は嬉しくもあった。
「市丸は側室の中でも特に性根が曲がっておっての。まあ他にも二人ほどひん曲がったのがおるが、未遂で済んで良かった良かった」
 あと二人もあんなのがいるのかと思うと一護の気は遠くなった。それを支えてくれたのは夜一だった。
「大丈夫じゃ。選ぶ権利は上様にある。儂がお守りするゆえ、どうか気を安らかに」
 そう言って、夜一が安心させるように一護を抱きしめてくれた。ふくよかな女性の体に一護は安らぎを覚える。同時に止まっていた涙がぶり返し、一護は声を上げて夜一にしがみついた。
「よしよし、上様。お辛かったのう」
 帰りたい。
 そう叫ぶたびに、夜一は強く一護を抱きしめてくれた。

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