第一章

  二、優しい爪痕  


 お気に入りになった庭の池の畔で、一護はひとり膝を抱えてしゃがみ込んでいた。朝餉から拝借した米粒を庭の錦鯉に与えてやる。ぱくぱくと口を開けて寄ってくる鯉達が可愛くて、一護は目元を和ませた。
 世話係の女はいなかった。あの日、市丸に手を貸したのは彼女だった。もう二度と会うことは無いだろう。
 遠巻きに一護を見守る者達から顔を背け、ただ目の前の鯉だけを愛しく思った。今こうしている時間こそが一護の安らぎだった。
 城は嫌いだ。ならばせめて庭に出て、誰も近づくなと命令した。池の中を気持ち良さそうに泳ぐ鯉を眺めていると心が慰められて、何時間でもそうしていられる。それはきっと自分もこの鯉と同じだと思えるからだ。限られた場所で一生を終えるしかない鯉と自分とを重ねあわせ、なにも一人ではないと考えることができた。
「‥‥‥‥アホらしい」
 寂しさここに極まれり、だ。なんか詩っぽく語ってしまって俺らしくない。
 一護は「へっ」と自身を嘲るように笑うと、池に手を乱暴に突っ込んだ。派手な水音が上がって鯉達が一斉に逃げていく。
 なぜか目の奥が熱くて痛くて喉が震えて、一護は己の膝に顔を埋めた。












 城内の一角に、男達が集う離れがあった。そこでは下働きから取締まりに至るまで、すべてが男で占められていた。
「可哀想に、泣いてるよ」
 庭に面した豪華な造りの露台から、一人の男が遠眼鏡を構えて言った。その言葉に反応した数人の男が顔を上げ、怪訝な表情をした。
「慰めて差し上げたいねえ‥‥」
 畏まったもの言いに、誰を見てそう言ったのかをその場にいた誰もが理解した。
「京楽、覗き見はやめろ」
「会えないのならせめてお姿だけでもという、いじらしい男心だよ」
 派手な羽織の男はそう言って、気障ったらしく片目を瞑ってみせた。そしてそのまま視線を、露台の欄干に背を預けて座る男へと移した。
「どこかの誰かさんが先走ったせいで、上様はすっかり男嫌いになったと言うじゃないか」
 だらしなく足を崩して座る男は、京楽の言葉にぷかりと煙管を吹かして知らん顔をした。
「ねえ、上様はどんな方だった? 御庭番にぶん殴られた市丸君」
 二人の視線がそこで初めて交錯する。空気が張り詰めたのは一瞬で、次には灰皿に煙管を打ちつける音が響いた。
「‥‥‥‥あれはただの田舎の小猿や。期待するだけ無駄やと思うで」
 それだけ言って、市丸は黙った。
「小猿ねえ‥‥。遠目に見る限り、顔は十人並みと言ったら失礼だから、まあまあ及第点をあげてもいいと言ったところかなあ。それとも君が言ってるのは性格のことかい?」
「京楽、無礼だぞ」
「顔は重要だよ、浮竹。やる気に関わってくる」
「京楽!」
 親友の浮竹に嗜められるものの、京楽はまったく反省していない顔で謝罪の言葉を口にした。そして遠眼鏡を指でくるりと回し、再び目に当てる。しかし覗き見た上様専用の庭には、もう誰の姿も見つけることは出来なかった。
「残念、もう行っちゃったみたいだね」
 それにしても寂しそうな背中だった。
 京楽の言葉に、煙管を吹かす市丸の動きがわずかに止まった。













 きゃあ、という甲高い声に一護は振り向いた。
 見れば若い女中達が固まって、楽しそうに話をしていた。一護は向かいの廊下からその光景を眺め、はぁ、と息を吐き出した。そのとき女中の一人と目が合った。一護の顰め面に誤解したのか、相手の顔色が変わる。慌てたように平伏され、一護はもうそれ以上見ていられなくなりその場を足早に去った。
「上様、」
 どこからか労るように、声が追いかけてくる。
「‥‥‥なんだよ、別に泣いてなんかないぞ」
 一護は廊下から庭へと下りた。草履は無い、足袋を脱ぎ捨てて裸足になった。
「‥‥上様」
「いいんだよ、こんなの向こうじゃ当たり前だった!」
 八つ当たりのように木の影へと怒鳴り、一護は庭を突っ切った。途中、竹林に差し掛かり、葉の擦れあう音に一護は足を止めた。城の中とはまったく違う空気を感じた。
 実家の近くにあった竹林を思い出す。場所は違うが空気は同じで、一護へと否応無しに郷愁感を抱かせる。竹の一本に寄りかかり、一護は頬を寄せた。
 心地よい冷たさに一護は目を閉じた。そうしてしまえばここが故郷と錯覚できる。おそらくはもう二度と帰ることのない故郷に、一護は想いを馳せた。
 そのとき、微かに人の声がした。夜一ではない、一護は驚いて顔を上げ、周囲を探った。
「‥‥‥‥これは、」
 よく耳を澄ませてみると、正確には人の息づかいだと分かる。同時に聞こえるのは空気を裂く音だ。
 間違いない、誰かが竹刀で素振りをしている。道場に通っていた頃を思い出し、一護は思わず駆け出していた。
「いかん!」
 夜一の制止も聞かずに一護は竹林の中を縫うように走り、さらには茂みを掻き分けた。城に来てからは周りを優雅な所作の女達に囲まれて、剣術とは無縁に近い生活を強いられていた。そんな中、趣味を同じくする者と出会いたいと思って何が悪いというのだ。
 走り付いた先は開けた場所になっていた。一護は息を切らして立ち止まる。
「あのっ‥‥」
 しかし碌に相手を確認せずに声をかけたことを、すぐさま後悔した。
「‥‥‥‥上様?」



「もしや上様では?」
 近づいてくる気配には気がついていた。しかしまさか、上様その人だとは浮竹は思いもしなかった。
 ようやく目通りが叶ったのだ、そう思って浮竹は嬉しさから一歩近づいた。
「‥‥‥‥う、っあ、」
「上様?」
「来るなっ、」
 表情が硬い。それどころか青ざめていて、浮竹はようやく異変に気付く。
「どうなさいました? どこか、具合でも」
 ゆっくりと慎重に近づいたが、相手はいっそう怯えたように後退するばかりだった。ついには木の根に足下を取られ、転ばせてしまう結果となった。
「上様!」
 慌てて駆け寄り、浮竹は抱き起こそうとした。しかし突然感じた頬の熱さに咄嗟に身を引いた。
「触るなっ、触るなっ!」
 振り回す手の爪が頬を引っ掻いたのだ。田舎育ちの乱暴者と一部では揶揄されていたが、しかしそのせいではない気がする。この予想外の抵抗と混乱振りに、浮竹は思い当たるふしがあった。
「上様、大丈夫、なにもひどいことはいたしません」
「嫌だっ、離れろっ、」
「落ち着いて。俺は、貴方を傷つける真似は、決してしない」
 噛んで含めるようにゆっくりと言葉をかけた。根気よく語りかけていると、相手の目にようやく理性が戻ってくる。そのときやっと視線が合って、浮竹はほっと息をはいた。
「申し訳ありません、驚かせるつもりはなかったのですが」
 目に浮かんだ涙を痛ましく思い、浮竹は安心させるように微笑んだ。
「上様‥‥一護様、ずっと、お会いしたかった」
 いつの間にか握りしめていた一護の手を引き寄せ、浮竹は大事そうに己の胸に当てた。そうしてしばらく見つめあっていたのだが、一護のほうは我に帰ったように目を瞬かせた。そして次の瞬間突き放されていた。
「上っ、着ろよ!」
「‥‥‥‥っは? ‥‥‥‥‥あぁ!!」
 素振りは基本、上半身裸になってする浮竹は、今初めて己の姿がいかなるものかに気がついた。男嫌いになった上様が自分を見て驚いて抵抗したのも頷ける。わたわたと上半身を整えると、浮竹は改めて一護に向き直った。
「初めまして、俺の名は浮竹十四郎。上様、貴方の側室の一人に名を連ねる者です」
 簡潔な自己紹介を済ませた直後、竹林に悲鳴、というよりかは絶叫が轟いた。
「っう、上様?」
 見ると一護が涙目で後じさろうとしていた。浮竹のことをまるで汚物でも見るかのような目だ。
「近寄るな! てめーっ、人の良さそうな顔して俺を騙しやがったな!?」
「‥‥‥‥‥えーっと、」
「俺は側室なんて認めねえっ、お前らなんか知るかっ、バーカバーカ!!」
 子供みたいに悪態吐くと、一護は立ち上がり脱兎の如く駆け出そうとした。しかし寸前で足を掴まれ、一護は再び転ぶ羽目となった。
「痛えなっ、なにすんだよっ、」
「どうして裸足なんだ!」
「‥‥‥‥‥は?」
 今度は一護が驚く番だった。
「どうして裸足なんだと聞いている!!」
 一護は説明どころか声さえ発することができなかった。怒られたことがショックで、ぽかんと口を開いて固まった。無理も無い、城に来てから一護に叱る人間などいなかったからだ。
 それを知らない浮竹は、擦れたり切れたり、結構悲惨な状況になった一護の素足を掴みながら、なおも怒りを募らせていた。
「女の子だろうっ、もっと自覚しなさい!」
「‥‥‥う、いや、おんなのこ‥‥」
「返事は!」
「はぃいっ!!」
 父親が一護にべろ甘だったこともある。男の人に怒られたと言えば道場の師範くらいだった一護は、本気の怒りに触れてすっかり竦み上がってしまっていた。
「染みるぞ」
「っへ? ‥‥‥痛い!」
 飲み水として持ってきていた水筒の水を傷口にかけると、浮竹は足に付いた泥を丁寧に洗い落としてやった。一護が痛みに暴れたが、しっかり握った足は離さなかった。
 そうしてすっかり処置を終えた頃には、一護は大人しくなっていた。心無しか頬が赤いのは、男に素足を握られているせいだろう。
「‥‥も、いいだろ、離せよ、」
 見えそうになる太腿を必死に隠そうとするその仕草が、言葉とば裏腹に浮竹の目に可憐に映る。初心な人だ、そう思うと浮竹の中に悪戯心が芽生えしまい、そのまま一護の細い足首に唇を押し当てていた。
「っぎゃー!」
「ははは。すっかり元気になられたようで何よりだ」
「お前っ、最初となんか性格違くねえ!?」
 浮竹は笑って誤摩化すと、次には一護をお姫様のように抱え上げ悠然と歩き出していた。
「‥‥‥‥。‥‥‥バカっ、下ろせよ!」
「上様はお軽い。ちゃんと食ってますか」
「食ってる! 量が多いけどなっ、捨てるって言うから全部食ってら!」
「それは感心」
 ぐっと顔を近づけて微笑んでやると、一護は首を竦めて大人しくなった。慣れてくれたと思ったが、一度染み付いた苦手意識はそう簡単には消えないらしい。市丸め、余計なことを。
「‥‥‥っあ、あの、」
「上様?」
 一護がなにやらあぐあぐと口を開閉して、何かを言いたそうにしていた。浮竹の着物をぎゅっと握って、苦渋に満ちた顔をすること数十秒。
「‥‥‥ありがと、」
 真っ赤になった顔は、市丸の言う小猿どころか。
「手当てっ、感謝するっ、‥‥‥‥浮竹、じゅ、十三郎?」
「惜しい。十四郎です」
「じゅうしろ?」
 あ、可愛い。
 京楽、なにが十人前だ、上様はとっても可愛いぞー!
「‥‥‥一護様と呼んでもよろしいか?」
 妙に緊張しながらも浮竹は名を呼ぶ許しを乞うた。すると一護は黙り込み、浮竹の瞳を覗き込んでくる。探られている気がして、浮竹は目を逸らすことも瞬きすることもできず、ただ耐えた。
 そして一際強く風が吹き、竹林を揺らしたあと。
「‥‥‥‥‥許す」
 浮竹はその日、初めて一護の笑みを見た。ぎこちないけれど目元を赤く染めたその照れ笑いに、浮竹は胸を柔く引っ掻かれたような、そんな不思議な気持ちにさせられた。

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