第一章

  三、猫の背中  


「抜け駆けとは、君もやるじゃないか」
 特に示し合わせている訳ではないが、ここ大奥で一番大きく最も美しい造りの露台では、馴染みの者達がよく顔を突き合わせる。どんな時間に訪れても必ず誰か一人はいて、言葉を交わすこともなく腰を落ち着けている。
 心落ち着く場所であるという理由もあったが、しかし最大の理由は、将軍の住まう居住が一望できる唯一の場所であるからだろう。
 声を掛けられたのは、浮竹が碁盤を引き寄せ棋譜を打とうとした矢先のことだった。
「なんのことだ?」
「上様を抱えて、中奥に入ったそうじゃないか。抱いたのかい?」
 碁石入れが浮竹の手から滑り落ち、派手な音を立てた。飛び散った黒の碁石が、話しかけてきた男の足下まで飛んでいった。
「邪推はよせ。一護様の足の怪我を治療しただけだ」
「一護様、ねえ‥‥」
 親しいことだ。
 含みを持たせた言い方に、浮竹は目の前の男を睨みつけた。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「いや、親しくて何よりだ」
 しかし相手の冷たい目が、言葉を完全に裏切っていた。
「‥‥‥‥藍染。お前といい、市丸といい、一護様を利用しようと思うな。お前達が好き勝手にしていいような方ではない」
 一護を見ていると分かる。純粋で素朴で、家族や周りの多くの人間に愛されて育った人間だ。城内の薄汚い権力争いに利用されていい筈が無い。いまだ齢十五、いくらでも嫁の貰い手があっただろうに。
「随分と入れ込んでいるようだね。‥‥‥なるほど、田舎育ちとは聞いていたが、男をたらし込むのがお上手らしい」
「貴様っ」
「おっと、よしてくれ。女の争いもそうだが、男の争いも見られたものじゃない。それに上様を間に挟むだなんて、恐れ多いとは思わないか」
 最初に吹っかけてきたのはそっちのくせに。
 しかし口では勝てた試しのない相手を前に、浮竹は怒りを押し殺し、それを逃がすように大きく息を吐いた。
 無言で碁石を拾い集めながら、浮竹は幼い主のことを考えた。中奥でちゃんとした手当を施しながら、様々な会話をした。互いの故郷のこと、通っていた剣術道場のこと、今度一緒に剣術の稽古をすると約束したこと。
 絶対だぞ、と言われて小指同士を絡まされたときは、そのあまりの可愛らしさにどうしようかと。
「何を思い出し笑いしているのか知らないが、気味が悪いぞ」
「うっ、うるさいっ、」
 一護の照れ笑いを思い浮かべると、首の後ろの生え際辺りがムズムズする。いまだ控えめに笑った顔をしか見たことはないが、心からの笑みは一体どんなものなのだろう。
 しかし同時に思う、脆い、と。あの方はきっと簡単に壊れてしまう気がする。気丈に振る舞ってはいるが、本当は容易く折れてしまう花と同じなのかもしれない。
 落ちた碁石の最後のひとつを拾い上げ、浮竹は言った。
「俺も、そしてお前達も、家の事情でここに放り込まれた身であることは承知している。だがな、それは一護様も同じことだ。権力争いに巻き込まれた、哀れな方なのだ。ならばあの方をお守りすることが、俺達の役目ではないのか‥‥?」
 必要なとき以外、人を近づけさせないことは聞いている。ただ一人、御庭番の夜一だけが味方だと言うが、見かける一護の姿はいつも一人きりだ。せめて隣で手を握り、支えてやることが出来たなら。
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるその言葉に、浮竹は耳を疑った。
「お守りしようがしまいが、籠の鳥であることに変わりはない」
 冷たい光を宿した目で浮竹を見下ろし、藍染は片目を細めて皮肉げな表情をつくってみせた。
「まったく君らしい。けどね、浮竹。ここでは一見か弱き姿をしていながら、後ろ暗いことばかりを考えている者が大勢いることを忘れるな。欲望渦巻くこの大奥で、そんな甘いことを言っているといつか足下を掬われてしまうぞ」
 戸惑う浮竹を一瞥して、藍染は欄干に手を掛けた。視線の向こうには主が住まう御殿がある。
「利用するだけだ。生き残る為に‥‥‥」













「ここはもう少し大胆にはらっても良かったですね」
 やんわりと指摘され、一護はなるほどそうか、と自分で書いた文字を見下ろし素直に頷いた。
 優に五十畳はありそうな座敷で、一護は男と二人きりだった。紹介されたときは男であるというだけで緊張に身を強張らせたが、一時間経つ頃にはすっかり肩の力を抜いていた。
 藍染惣右介と名乗ったその男は、嫌なことに側室の一人であった。
 しかし一護を見る目は、子供を見るときの教師か親のそれだ。学者のような風貌と落ち着いた雰囲気のせいもあるだろう。一護は警戒心を削ぎ落とし、藍染の指導の元、手習いに励んでいた。
 失礼、一言そう言うと、藍染は背後に座り一護の手に己のそれを重ねて筆を握った。
「書くときは余計な力は抜いて、文字の流れに任せて書くのがよろしいでしょう」
「‥‥‥それが難しいんですけど、」
「上様は筋が良い。すぐに上達しますよ」
 藍染が喋る度、首筋に息がかかって一護の肌は粟立った。それを気取られないように、一護は筆の運びに気を集中させた。
「浮竹とは随分と打ち解けたようですね」
 手を動かしながら、藍染が雑談を始めた。文字に乱れはない。さすがだ、と一護は感心した。
「はい。傷の手当とか、色々と世話になって、そのときたくさん話をしました。先生は十四郎とは仲が良いんですか?」
「上様、私に敬語は不要ですよ。それと藍染と呼んでくださって結構です」
「でも、なんか先生って感じで、」
 この温和で汚い言葉とは無縁そうな人に、自分の生来の言葉遣いで話しかけるのは気が引けた。そう弁明する一護の後ろで、かすかに微笑む気配を感じた。
「しかし上様。私はこれでも貴方の側室なのです。先生、などとはあんまりだとは思いませんか」
「うっ、‥‥いや、それはっ、」
 顔に血が上る。絶対赤いに違いない。
 筆を握る指が震えそうになって、「力を抜いて」と藍染の注意が入った。しばらく無言で手を動かし続けるだけの時間が続いた。なにか言わないと。一護が手習いをよそに必死に思考を巡らしていると、部屋の中に一羽の雀が飛び込んできた。
「‥‥‥‥あ」
 どうやら水を飲みにきたらしい。花器に止まると水を飲み始めた。その様子をじっと見つめる一護の顔を、藍染もまた見つめていた。そして知られぬよう、暗い笑みを浮かべた。
「小鳥はお好きですか」
「‥‥‥? 好きですけど、」
「そうですか。では今度、一羽差し上げましょう。十姉妹など可愛らしいですよ」
 その提案に一護は無邪気に喜んだ。のちに後悔するとは思いも寄らず、藍染に感謝さえして。












 
 一羽の十姉妹を贈ってから、半月ほどが経った頃だった。
「藍染です。御召しにより、参上致しました」
 書道の手習いは不定期に行われていたが、今日の呼び出しは突然のことだった。おそらく例の件がうまくいったに違いない。藍染は傍目には普段通りの温和な表情を浮かべ、一護が待つ部屋の前で入室の許しを待った。
「上様? いかがなさいました」
 躊躇しているのだろう。なかなか声は掛からない。
「お入りしてもよろしいでしょうか?」
 ああ、もうすぐだ。妙に待ち遠しい気分になって、藍染は勝手に襖を開け、中へと身を滑らせた。
 座敷の奥へと進むほど、藍染は緩む唇を抑えきれなくなっていた。庭に面したそこは、外から気持ちの良い風が入り込んでくる。風に髪を靡かせながら、座敷の奥に設置された小さな露台に腰掛ける一護を発見した。
「上様」
 顔は見えない。小さな箱を抱えて俯く一護の表情は、藍染からは伺い知れなかった。
 見たい。一体どんな顔をしているのか、見てみたい。
「どうなさったのです?」
 背後から控えめに肩に触れ、声には心配する色を滲ませた。それに応えるように、一護がようやく顔を上げた。
「‥‥‥‥死んでしまった、」
 出てきた言葉はそれだけだった。一護は再び俯き、そして箱を持つ手に力を込めた。
 四角形のそれは、鳥籠だった。藍染が十姉妹と一緒に贈ったものだ。華奢な造りのそれを一護は抱きしめ、細い肩を震わせていた。
「そうでしたか、それは、可哀想に‥‥」
 まだだ。もっと、もっと見せてくれ。
 もっと絶望する顔を。
「最初は、元気だったんだ。それが段々、弱っていって、でもお前には言えなかった、言ったらきっと悲しむだろうって、」
 中身はどこかに埋めたのだろうか。一護は鳥籠だけの、ただの箱になったそれを、大事そうに撫でさすった。
「ちっとも懐いてくれなかった。俺の指を噛んでばかりいて、‥‥でも死ぬ前に、一度だけ鳴いてくれたんだ、」
「上様、お辛かったでしょう‥‥」
 肩を抱き寄せ、一護のオレンジ色の髪を優しく撫でてやった。一護は大人しくされるがままだ。
 案外、簡単だった。手間がかかるとは思っていたが、そう、実際はこんなものだったか。
 項垂れる一護と鳥籠とを見下ろし、藍染が抱いた感想は素っ気ないものだった。一護の髪を繰り返し撫でながら、しかし違和感にぎくりと手を止めた。
「こんなふうにして、俺も死ぬのかと思った。‥‥‥‥藍染、お前もそう思ったか」
 先生とは呼ばなかった。一度も。
 一護はゆっくりと藍染から離れていった。鳥籠を抱きしめたまま、藍染と正面から対峙した。その目は怒りと悲しみに染まっていた。
「餌に、毒を混ぜていたな‥‥? 夜一が調べてくれた」
 溢れる怒気を押さえつけているのが、声の震えで分かる。
「あいつを殺して、それで一体なにがしたかったっ、答えろ、藍染‥‥っ」
 並の人間が持つような圧倒感ではないと思った。なるほど、確かに将軍の血筋ではあるらしい。ほとんどがお飾りだったが、これは意外と当たりのようだ。
 怒りを向けられながらも妙に感心して、そして次にはもう取り繕った表情を消し去り、藍染は笑みを浮かべていた。
「なんだ、ばれてしまったか」
 一護の目が驚愕に見開く。それを嘲笑い、藍染は億劫そうに前髪を掻き揚げた。
「少しばかり侮っていたようだ。本当なら悲しみに打ちひしがれる上様をお慰めしつつ、抱いてしまおうと思っていたんだがね」
 今度は嫌悪感を露に、一護が睨みつけてきた。それを笑みで受け流し、藍染は目の前の一護を値踏みするようにじっくりと眺め回した。
 どんな言葉で傷つけてやろう。獲物を目の前に、舌なめずりする獣の感覚とは今のような気分を言うのかもしれない。
「君にはどうやら心許せる友がいないようだったからね、だから気を遣ってあれを君にあげたんだよ。籠の鳥同士、慰めあった時間はどうだった?」
 一護の目が、はっきりと傷つく様を見た。
 だが足りない。立っていられないほど、打ちのめしてやりたかった。
「自分の手で、唯一の友をじわじわと殺す気持ちはどんなものか、聞かせてほしいね」
「やめろ‥‥‥っ、」
「いずれ君もそうなる。誰の手も取らずにここで生きていけるものか。君を疎ましく思う者らがここには溢れかえっている。身を守るには世継ぎを産んで、早々に城を退くことだ」
「やめろって言ってんだよ‥‥‥!!」
 胸ぐらを掴まれ、強く揺さぶられた。しかし藍染は抵抗もせず、息を荒げて睨みつけてくる一護をただ無表情に見つめた。
「私を選べば君の立場は確保される。そして私の立場も。いいかい、これは取引だ。この城で生き残る為に、私達二人は手を組むべきだ」
 一護の瞳が揺れる。己が現在立たされている場所がいかに不安定か、自覚はしているらしい。だったら理解できる筈だ。二人手を組めば、地位も権力も盤石なものになるということを。
「君と私の二人なら、この国を支配できる。天下人になれるんだ」
 胸ぐらを掴む一護の手に、己のそれを重ねて強く握り込んだ。体温を共有しあえば人は安心する。それを利用して、このまま体を重ねてしまえばこの未熟な子供のことだ、簡単に己の元へと落ちるだろう。
 だから、来い。ここまで落ちろ。
「さあ、一護」
 緩む手を引き寄せ、一護を胸に納めようとした瞬間だった。ふ、と息の零れる音がした。
 見ると、一護が笑っていた。
「‥‥‥‥なにが可笑しい、」
 不愉快だ。そうやって笑われるのは。
 普段の自分を棚に上げ、藍染は目の前の不快な笑みを、眉を顰めて睨み据えた。
「お前の言った通り‥‥‥」
 鳥籠を藍染に押し付けると、一護は立ち上がった。藍染に背を向けて、庭に顔を向けた。
「分かってたんだ、このままじゃ死んじまうって。分かってて小さな籠に閉じ込めて、弱ってく姿をただ見てた」
 目に見えるほどの動揺がなりを潜め、今の一護は静寂そのものだった。
「逃がしてやればよかったんだ。でも、そうしなかった。‥‥‥なんでだろうな、なんで逃がしてやらなかったんだろう」
 不思議だ、と呟く声がどこか空虚に聞こえた。藍染は話題を変えられたことを不快に思うこともなく、一護の言葉に聞き入ってしまっていた。
「結局はそう、同じなんだ。俺をここに無理矢理連れてきた連中と俺は、自分の為なら他の奴なんてどうなってもいいと思ってる、同じ穴の狢だ」
 そのとき、ひときわ大きく一護の肩が震えた。
「‥‥‥だから! お前とは、手は組まない。相手はどうせ同類なんだ、そんな奴ら、俺一人でもなんとかできる‥‥っ」
 見れば、露台の床に雫が落ちていた。一護は上下に大きく肩を揺らし、辛そうに呼吸をしていた。何度も鼻をすする音が聞こえたが、それでも一護は俯かなかった。
 その背中は威厳に満ちていた。藍染は我を忘れ、その後ろ姿に見入った。
「俺を、誰だと思ってるっ、お前の助けなんか、いらねえよ‥‥っ」
 たった一人で立っていた。涙声にも負けない威厳溢れる姿で。
「下がれ、手習いはもう必要ない」
 一人にさせろ、と告げた一護の体は、最後まで崩れ落ちることはなかった。












「諦めた訳ではないからね」
 つい昨日自分を盛大に泣かせてくれた男は、そう言って一護に猫を渡してきた。
 まだ幼い。産まれたばかりの子猫だった。
 思わず手を伸ばしそうになったが、一護は思い直すと慌てて引っ込めた。
「いらねえよ。今度は何を企んでやがる」
 探る目を向けると、藍染は読めない笑みを浮かべて子猫を撫でた。
「猫はいい。自由で恩知らずで気ままに生きる。閉じ込めておけるものでもない」
「‥‥‥何が言いたいんだよ」
 そのとき、みゃ、と子猫が鳴いた。
 一護の視線がそちらに向けられる。
「今は庇護されるべきだが、いずれは誰の命令も聞かず、好き勝手に歩き回るようになるだろう。城の外に出ることもあるやもしれない」
 目が見えていないのか、子猫はしきりに手足を動かしていた。気がつけば一護は手を伸ばし、子猫を撫でていた。
「見習いたいものだ。誰もがそのように生きられるものではないが‥‥」
 今度こそ一護は子猫を腕に抱いた。もぞもぞと腕の中で暴れていたが、一護の指を見つけるとちゅうちゅうと吸い始めた。甘えん坊だ。
 同時に涙腺が緩むのを感じ、一護は背を向けた。
「てめえっ、卑怯だぞっ、小動物で俺の気を引こうとしても無駄だからな!」
「そういうつもりはなかったのだけれどね」
 くすりと笑う声が聞こえる。また自分をバカにして嘲笑っているのだろう。
「ちくしょうっ、なんだよっ、騙されねえからな!」
「気に入っていただけたようで嬉しいよ」
 一護はそのとき知らなかった。後ろで藍染が、微かではあるがとても優しい笑みを浮かべていたことを。
 知るのは二人で、成長した子猫を見送るとき。

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