第一章
師走の曲がり鬼
大奥の外れに、古びた離れがある。入り口にはこれまた古びた看板が掛けられていた。
『技術開発局』
この離れに近づく者は誰もいない。いわく、新人がこの離れに入った以後二度と姿を見せなかっただとか、この世の者とは思えない奇声が聞こえてくるだとか、白い着物を来た幽霊が入っていくところを見ただとか、色々と不穏な噂が囁かれていた。
そんな技局の一室で、一人寛ぐ男がいた。尻をぼりぼりと掻きながら煙管を吹かす。くたびれた着流しの裾からはすね毛の生えた足を露出させ、だらりと投げ出している。部屋に散乱した書物の一つに手を伸ばしたかと思うと、適当にぱらぱらと頁を捲って欠伸を一つ。
「局長、頼まれてた薬品、手に入りましたよ」
部屋の前を通りがかった男の部下が、一言声をかけて去っていった。男は書物に視線を落としたまま、ごろりと寝そべると本格的に読書に没頭した。
薄らと無精髭の生えた顎を撫でながら、頁の気になる部分にしるしをつける。だらしない格好に反して、その真剣な顔は美麗であった。それに手を加える気の一切無い男は日がな一日、読書かまたは研究開発に没頭しているのである。
男がまた一枚、頁を捲ったときだった。
「喜助ぇええ!!」
轟音と同時に木製の扉が蹴破られる。木の破片が宙を舞う様を、男はぽかんと眺めていた。
「あらまあ、幼馴染殿」
乱入者は紛うこと無く男の幼馴染の女性であった。男はへらへら笑って挨拶したが、女は怒り心頭で掴み掛かってきた。
「来い!」
「えぇ?」
胸ぐらを掴まれたまま、部屋の外へと引きずり出される。何事かと集まってきた部下の視線が集中したが、幼馴染は少しも意に介さずに大股で歩き出した。
「待ってくださいよ、一体どうしたんです?」
周りを無視してずんずん進む幼馴染がぴたりと止まった。そして振り返った顔は美しいが苦渋に満ちていた。
「お前の力が必要じゃ」
思い詰めたような声に男は驚いた。そして次に言われた台詞にも。
「どうか、上様のお命を救ってほしい」
それは数刻前のこと。
木刀の打ち合う音が、冬の冷たい空気を震わせていた。
剣道場では男二人がそれぞれの木刀をぶつけあっていた。体格はほぼ同じ、そして技量もほぼ同じ。ついには木刀同士が競り合った。
「浮竹、引けよ」
「そっちこそっ」
「一護ちゃんが見てるだろ」
「誰が引くかっ」
道場の端っこで、正座をして二人の打ち合いを見守る一護がいた。道着姿が様になっている。
「いいとこ見せたいんだよ。ちょっと派手に転んでくれないか」
「お前は本当に勝手な奴だな!」
まさかそんな言い合いをしているとは思っていない一護は、その様子をぼんやりしながら見つめていた。実は数日前から体が少しだるいのだ。この寒さだから、どこからか風邪をもらってきたらしい。
昼になる頃には頬が熱く、喉も痛くなっていた。すきま風に寒気がして、一護はこほこほと咳き込んだ。
「一護ちゃん!?」
「一護様!」
途端、競り合っていた二人が木刀を投げ出すと駆け寄ってきた。思わず仰け反ると、それから力が入らずにふらふらと後ろに倒れてしまった。
「頬が熱い。どうして言わないのですか」
「‥‥‥‥ただの風邪だと思って、」
「君に限って言えば、『ただの』風邪だなんて言ってられないんだよ」
二人して真面目にそう言うものだから、一護は大げさだと思いつつも素直に頷いた。たとえ柱の角に小指をぶつけただけでも、大事に至ると言ってきそうだと思った。
「私室に戻りましょう」
浮竹は気遣わし気に言うと同時に、一護の体を抱き上げた。京楽がしきりに「ずるい」と言っていたが、さらりと無視して歩き出す。
熱のせいで神経が過敏になったのか、背中や膝裏に感じる浮竹のがっしりとした腕を一護は妙に意識してしまっていた。見上げれば浮竹の喉仏が視界に入る。尖ったそれに、男の人なんだ、とぼんやりと考え、急に恥ずかしくなった。
「動かないで。落ちますよ」
居たたまれない気持ちから思わず身を捩ると、すぐに注意が飛んでくる。抱え直される際に、頬が浮竹の胸板に当たり、その固さにびっくりした。
「っわ、だから動かないでっ、」
肩をしっかりと握る浮竹の手の大きさに、どこか怖いと感じてしまう。どうしてそんなに大きいんだろうと、一護はどうしても落ち着くことができない。
「一護様?」
一旦止まって顔を覗き込んでくる浮竹に、一護はついに両手で顔を覆った。
「恥ずかしい‥‥‥」
男二人は同時に顔を見合わせた。浮竹が、にやりと笑った。
「ううっ、浮竹っ、交代!」
「断る」
頭上で繰り広げられる奪い合いをよそに、一護の体はいよいよ大変なことになっていた。体が熱いどころではない。焼け焦げそうだ。こんなに辛い風邪は初めてだった。心臓辺りを掻きむしり、獣のように低い唸り声をあげた。
その尋常ではない苦しみように、浮竹と京楽は初めて不審に思う。そしてすぐさま声を張り上げた。
「誰かっ、侍医を!」
城が俄に慌ただしくなった。
「毒じゃ」
夜一が低く押し殺した声でそう絞り出した。
「風邪と思って油断していたのが仇となった」
薬は飲んでいた。しかし風邪に効くものと滋養の高いものに限られていた。一護に最も近い人間であったのに何も気付けなかったと、夜一の声からは悔恨の色が伺える。
「遅効性のものでしょうねえ。最初の症状が風邪に似てるから、発覚が遅れたんでしょう」
噂に聞く上様は少年のような風貌をしていた。なるほど、噂通り凛々しいお顔をしていらっしゃる。だが苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、今にも死にそうだ。
「どうにかしろ」
「と、言われてもねえ‥‥」
やる気の無い素振りで一護を見下ろすと、どうしたものかと頭を掻いた。
この子供を助けたところで、一体自分に何の益があるというのだろうか。
「喜助っ、貴様‥‥」
さすが幼馴染といったところか、こちらの胸の内などお見通しのようだ。睨みつけてくる夜一を躱し、浦原は意識の乏しい一護へと近づいた。
「やあ皆さん、お揃いで」
枕元に居並ぶのはどれも知った顔ばかり。あの藍染までもが侍っていることには、さすがの浦原も驚いた。
「市丸君がいませんねえ。やっぱり顔が出しにくいのかな」
「浦原、そんなことはどうでもいい」
「治せるんだろう?」
浮竹と京楽の心配顔に、浦原は艶やかな笑みを向けた。随分と懐いたものだと、嘲る気持ちが見え隠れする笑みだった。
ふと、黙り込んだままの藍染と視線が合う。こちらをじっと見つめてくるその目は、相変わらず何を考えているのか読めなかった。苦手な男だ。
「喜助っ」
「あぁ、はいはい。分かりましたよ」
枕元に座り込むと、一護の腕を取った。脈が速い。体内の毒を浄化しようと、心臓が活発に働いているせいだろう。次に瞼を押し開き、瞳孔を確認する。目の前で指を振ってみたが、反応は鈍かった。そして襦袢の前を開いて腹部の触診を行おうとしたところで、複数の手が待ったを掛けた。
「ちょっと貴方達、診察の邪魔ですよ」
浦原の腕を掴んで阻止する浮竹と京楽の手、それから首筋に当てられる夜一の暗器。
大事にされてるんですねえ、といまだ苦しむ一護に視線を向けた。一護の体からは汗が噴き出し、襦袢がぴたりと張り付いていたが、特にこれといって惹き込まれるものでもない。
「こんなのに欲情なんてしませんよ。奥の小性のほうがよっぽどそそられる」
「こんなの!?」
「喜助っ、そこになおれ!」
非難の声に、浦原はしっしっと手を払った。ことは一刻を争うのだ、浦原はすばやく衿を左右に開いた。同時に浮竹が目を背け、ついでに京楽の視界も腕で塞いでいた。藍染だけが視線を逸らさなかった。
「‥‥‥これは、よくありませんねえ」
臓器の一つが異常に肥大している。少し押すと、一護が悲鳴を上げた。
「保って今夜が峠でしょう」
そう事も無げに言うと、浦原は終わりとばかりに身を引いた。その目には憐れみも悲しみも何も無い。ただ目の前の患者の状態を分析しただけの、熱の籠らない無情な目だった。
齢十五か、短いものだな、と独り言ちる。
途端に胸ぐらを掴まれ、乱暴に引き上げられた。
「なんとかしろ!」
「痛いなあ、京楽さん。感情でものを言うなんて、アナタらしくない」
口元を歪め、意地の悪い笑みを向ければ、普段の京楽とはかけ離れた憎悪に満ちた顔で見下ろされた。本当にらしくない。なにをこんな田舎の小娘ごときに、熱くなっているんだか。
「やめないか、京楽」
一触即発の雰囲気に、冷静な声が掛かった。
見ると、藍染が身を屈め、一護の襦袢を丁寧に直しているところだった。汗で額に張り付く一護の髪を撫で、見下ろすその表情は相変わらず読めないものの、いつもとは決定的に何かが違っていた。
「浦原。君に聞きたい」
「‥‥‥なんです?」
「治せるのか、否か。聞きたいのはそれだけだ」
声も態度も普段と何ら変わりない。心の奥底では謀略ばかりが張り巡らされているのは承知だが、だからこそ疑問が拭えない。
「アタシも聞きたい。藍染さん、なんでアナタ、ここにいるんです?」
藍染の目がすう、と細まる。それは読まれないよう、心を閉じる準備作業だ。
「別に将軍はこの子じゃなくてもいい筈だ。聞けばアナタ、この子に一度振られてるっていうじゃないっスか。だったら次の、もっと傀儡にしやすいのを誑し込めばいいだけでしょう?」
「この子が死ねば、側室もお役御免だ」
「嘘。アナタのことだ、取り入る手段はいくらでも用意しているくせに」
藍染の表情は微塵も動かない。それが逆に怖い。次はどんな手を打ってくるか、浦原は京楽を振り払い、余裕の素振りで身構えた。
「‥‥‥離れに技術開発局なるものを構えているそうだな」
「それがなんでしょう?」
「そこから上様に盛られた毒薬と同じものが見つかったら? 普段から怪し気な研究をしているんだ、なにも不思議ではないな」
「‥‥‥アンタ、このアタシに罪を着せようって?」
「あぁ、勘違いしないでくれ。君がやったという証拠は何も見つからないだろう。おそらくは部下の仕業と判断される。そのとき君は責任を取って大奥を去るべきではないか? その後不慮の事故に見舞われても、私には与り知らぬことだ」
京楽の「うわぁ‥‥」という引き攣った声が聞こえてきた。浦原は眉間に皺を寄せ、藍染を睨みつけた。
「平民上がりが、大層な口を利くじゃあないですか」
その台詞に、室内の空気が明らかに凍り付いた。
しかしそれでも、藍染の表情は凪いだように変化が無かった。一度だけ瞬きをして、言葉を続けた。
「だがもし、ここで上様のお命が救われることがあったならば」
変わらぬ声の調子で言う。
「技術開発局への投入資金を増やしても構わない。大奥総取締まりの私が確約しよう」
藍染の提案に、浦原以外の誰もが勝ったと拳を握った。
数泊置いて、浦原が言った。
「お断りします」
「喜助!」
「あぁ煩い。夜一さん、どいて」
詰め寄ってくる夜一を押しのけ、浦原は再度一護へと近づいた。ずっと話を聞いていたのか、一護の目が薄らと開いて浦原を見つめていた。
「初めまして、上様? アナタの側室の、浦原喜助と申します」
無遠慮に顔を覗き込み愛想笑いを浮かべた。一護は視界が定まっていないのか、その眼球はときおりぶれていた。
「こんな格好で失礼。なんせ問答無用で連れてこられたものでねえ」
ところどころに汚れのついた着流しの裾をちょんと持ち上げてみせながら、浦原はおどけるように言った。一護は頷くことすら辛いのか、瞬きで返すだけだ。
「ねえ、上様。アナタ、死ぬんですよ」
笑いながらの死の宣告に、途端に方々から殺気が突き刺さった。一護の目はぼんやりとしたままで、言葉の意味を理解できたのかも怪しい。
「でもご安心下さいな。このアタシが、解毒薬を作って進ぜましょう」
ーーーその代わり。
「アナタを抱かせて? 最初の夜伽には、この喜助めをお呼びください」
恭しく頭を下げてそう願い出る浦原の耳に、誰かの歯ぎしりする音が聞こえた。浦原の申し出が当て付けだと、その場にいた者達は理解していた。怒りと己の無力さに恥じ入る気配が部屋を満たし、浦原は俯いたまま口元を歪めた。
そのとき、一護が動く
「ーーー‥‥ら、はら、」
震える指先が浦原に伸びる。頬をなぞり、誰もがそれを了承ととった瞬間。
「誰がテメエなんぞに抱かれるかこのボケ!!」
頬を思い切り抓り上げられた。
浦原は痛みも忘れて唖然とした。
「っつーかこっちは苦しくて死にそうなんだよっ、なのに人の部屋でべらべら喋散らかしやがってっ、静かにしとこーという気遣いは無しかっ、あァ!?」
「っい! たたたたたっ、痛い!」
手を振り払ったのもつかの間、なんと今度は起き上がった。どこにそんな体力が、と浦原が驚く暇も無く、一護が飛びかかってきた。
「治してやる代わりにスケベな要求するなんて何考えてんだ! それとっ、『こんなの』で悪かったな!」
「っき、聞いてたんですかっ、」
「男の小性のほうがそそるんだろっ、だったら俺には立たねえだろうから呼ぶだけ無駄だっ、むしろ一人でシコシコやってろチンカス!」
なんて下品な。
根っからの温室育ちの浦原は、その罵詈雑言に声も出せない。仕舞いには馬乗りになって殴り掛かってくる一護に、周りが慌てて止めに入ってきた。
「っ上様、よせっ、」
「離せ夜一っ、どうせ死ぬんだっ、だったらこいつのこのクソムカつく綺麗な顔をボコボコにしてから昇天してやらぁ!!」
「一護様、どうか気を鎮めてっ、」
「うるせえ十四郎っ、木刀持ってこい!」
「一護ちゃん、君死にかけなんだよ!?」
「春水は黙ってろ! 俺はやるっ、殺ってやる!」
火事場の馬鹿力とはこのことか。三人掛かりで止めてもなお殴り掛からんとする一護に、最後の男が動いた。
「一護」
「藍染っ、てめーも殴られ‥‥‥‥」
‥‥‥‥‥‥。失神。
顔を真っ赤にして倒れた一護に、室内はようやく静かになった。
と思ったのもつかの間、浮竹が絶叫しながら藍染に掴み掛かった
「ぁあああっ、藍染!」
「浮竹、静かに。上様が起きる」
「今っ、‥‥‥今っ、」
「接吻しただけだ」
”接吻”、した、”だけ”。
涙目で首を絞めようとしてくる浮竹をするりと避けると、藍染は元のように一護を寝かしつけ、跳ね飛ばされた掛け布団を戻してやった。今明らかに一護に無礼を働いたのは、浦原ではなくこの男だと浮竹は断言できた。
「それで、浦原。君の答えを聞こうか」
頬の引っ掻き傷に、切れた唇、片方の肩からずり落ちた着流し。散々な状態で座り込む浦原に、それぞれの視線が集中した。
浦原は意識を失った一護を見つめ、吐き捨てた。
「‥‥‥バッカみたい」
その瞬間、飛びかかってきた夜一の拳を受けとめ、浦原はそのまま立ち上がった。出口を目指し、歩き出す。
「喜助‥‥っ、見損なったぞっ」
「他人の判断なんて知ったこっちゃない。アタシはしたいようにするだけだ」
最後に一度だけ一護を振り返る。もう助からないだろう。
「ほんと、バカな子」
芳しい、花の香りで目が覚めた。
「‥‥‥‥三途‥‥?」
と思ったのは、ただの天井の木目の流れだった。だとすると花の香りは彼岸花ではなく。
「上様ー!!」
「いでっ! ‥‥‥‥夜一?」
擦り寄ってくる女は何度も頷くと、そっと目元を拭き取った。一瞬見えた雫に、一護は驚いて手を伸ばそうとしたが、痺れたように動かない。
「上様、まだ無理じゃ。動けるようになるにはあと数日必要だと聞いた」
「俺‥‥‥助かったのか?」
再び頷く夜一に、一護はそれを素直に受けとめることが出来なかった。あれだけもがき苦しんだのだ、それがこうも簡単に治るものだろうか。
「簡単なものか。三日も昏睡状態だったのじゃぞ」
どうやって助かったのだろう。一護の当たり前の質問に、夜一は一瞬だけ整った口元を引き攣らせた。そしてゴホン、とわざとらしく咳をすると、薄い紙を取り出した。
先ほど香ったのはこの紙だ。おそらく香を薫きしめて匂い付けしたものだろう。
「‥‥‥非常に不本意じゃが、起きたらこれを絶対に読ませろと言われておるのでな」
代わりに夜一が読んでくれるらしい。一護は意味も分からず、けれども花の良い香りに自然と体の力を抜いた。
「いいか、読むぞ‥‥」
「おう」
ごくり、と夜一の喉が鳴った。
「『このアタシに感謝なさい、むしろ崇め奉るがいいっ、ふはははは!』‥‥‥‥浦原喜助より」
夜一の目が、手紙越しに恐る恐る一護を覗き込んでくる。
一護はふっ、と笑うと、次にはもう動かない筈の手で手紙を奪い取り、散り散りに破り裂いていた。
「あンの野郎!!」
「落ち着け上様っ」
その日、元気になった将軍の叫び声が数日ぶりに聞こえたという。