第一章

  花の乱  


 草木も眠る丑三つ時。
 誰もが寝静まった時刻に、動く影があった。
「あんにゃろう共っ、覚えてなさい‥‥!」
 それは女だった。月光に浮かぶ肢体はメリハリがあって、分厚い着物を着ていてもその体つきの素晴らしさが分かる。
 女の名前は乱菊といった。誰が名付けてくれたのかは知らない。気付けば乱菊は乱菊と名乗っていた。子供の頃の記憶は曖昧で、だから親の顔も知らなかった。
 乱菊は水の張った桶に手を突っ込むと、怒りをぶつけるように雑巾を絞った。
「冷てーわねっ、コンチクショー!」
 ぎりぎり絞って水滴を落とし、乱菊は廊下の雑巾掛けを始めた。長い長い廊下だ。それを一人で、それも深夜にしているのには訳がある。
「やることがいちいち汚えのよっ! 私の美貌に嫉妬してる暇があったら自分を磨けっつーの!」
 同僚達の陰険な苛めの餌食にされた結果が深夜の雑巾掛けだった。
 乱菊は豊かな髪を一つに結わえると、気を引き締めた。手を抜くという考えははなからない。ぴっかぴかに磨き上げて、あの女共をあっと言わせてやる。
 それにこんなことで音を上げていては幼馴染に笑われる。アイツもここで、自分と同じように歯を食いしばって頑張っている。
 負けるものかと拳を握り、乱菊は雑巾掛けを始めた。
「んにゃろーっ、胸が重いわー!」
 それも揺れる。重りを付けての労働は苛酷だ。
 廊下を一往復しただけで息が切れる。終わるのは明け方になりそうだった。眠りたい。昼間の労働も相まって、乱菊は疲れていた。もちろん誰も手伝ってはくれない。
 時間を忘れてただ同じ作業を繰り返す。へとへとになりながらもあと一往復。
 乱菊を支えているのは、同じ城で戦っている幼馴染という存在と、あと一人。
「‥‥‥‥誰なのかしら」
 やっと終わった雑巾掛け。桶が置かれた廊下の終着点に、いつの間にか小さな包みが置かれていた。開けるとそこにはおむすびが三つ、水筒一つ、そして花が一輪添えてある。
 乱菊は毎回不思議に思いながらも、両手を合わせて頂くことにした。夕餉はまだ取っていなかったから腹はぺこぺこだ。
「おいしー‥‥!」
 口内にじぃんと広がる米の味。麦や稗ではなく、米。
 この差し入れをしてくれている人物は、実は結構上の立場の人間ではないかと乱菊は推察している。初めに幼馴染が浮かんだが、奴は大奥からはおいそれと出てこられない。噂では上様に無礼を働いたとかで、謹慎中の筈だ。それに花を添えるなんて繊細な芸当、あの幼馴染など思いつくことすらできないと乱菊は知っていた。
「誰かは知んないけど、ご馳走様でした」
 手を合わせて恭しく頭を下げると、乱菊は寝床へ戻ることにした。












 早朝。
 大奥の剣道場で、竹刀を振る男がいた。発汗した体からは湯気が立ち上っている。一見白い細身の体はひょろりとしているが、しっかりと筋肉が付き引き締まっていた。
 大奥に入ってからの運動不足は否めない。庶民暮らしをしていた頃は、特に鍛錬なんて必要は無かったが今はそうもいかない。何もしなくてもいいという今の生活に胡座をかいていれば、あっという間に太ってしまう。
 あの引きこもりの浦原でさえも鍛錬を怠らないという。ぶよぶよ膨れた体では、誰の関心も引けないからだ。武を尊ぶ今の将軍など特に。
 ギンは誰もいない時間に、こうしていつも竹刀を振るう。しかし普段なら冴え渡る技の切れも、近頃は鈍い。
「雑念が混じってますよ」
 澄んだ朝の気配にはそぐわない、間延びした声が道場に響いた。ギンは動きを止め、声の元を振り返る。
「引きこもり‥‥」
「はい?」
「いいえ。なんですか、浦原の兄さん。朝から起きとるなんて珍しい」
 集中を削がれてしまった。今日はここまでにしようと、ギンは手拭で体を拭う。浦原は道場の入り口に寄りかかり、相変わらずのんびりとした顔で立っていた。
「なあに、昨夜はずーっと上様と一緒に夜更かしをしましてね、これから寝るところですよ」
 欠伸をしてそう言う男の台詞に、ギンの手が一瞬止まった。しかし何も無かったように汗を拭い始めるが、内心の動揺は隠せなかった。
「何にも知らないって顔して上様ってば結構やり手なんですよ。いやはや、さすがのアタシも何度かひやりとさせられました」
「‥‥‥‥‥へえ。あの田舎の小猿がねえ」
 とてもじゃないがそうは見えなかった。押し倒してちょっと裸に剥いてやっただけで泣いていたではないか。
 それとも浦原が好みの男だったとでも?
「もう一回しよう、って何度も言ってアタシを離してくれないんです。気付いたら外が白んでてびっくりしました。研究以外であんなに夢中になったのは久し振りですよ」
 あ〜疲れた、と言いながら浦原はわざとらしく腰を叩いていた。随分と激しい一夜を過ごしたらしい。
 ギンは表面上、平心を装いながら服装を整えていた。浦原の視線が突き刺さってくるのを感じる。少しでも隙を見せようものならすかさず突き崩してやろうという、意地悪な視線だった。
「それはようございましたなあ。でもその寵が、一体いつまで続くことやら」
 子が出来たのならいざ知らず、一度閨に呼ばれただけで何を浮かれているのやら。権力には興味の無い男だと思っていたが、そうでもなかったようだ。まったくくだらない。
「ねえ、市丸君。知ってます?」
「なにが」
 自分でも分からない、苛々とした声が出た。
 浦原はくっと口元を歪めると、次にはもう我慢できないとばかりに吹き出した。
「上様は将棋がお強いんですよ」
「‥‥‥‥っ、‥‥‥あぁそうかいなっ」
 やられた。
 普段の自分ならすぐに分かった筈だ。ギンは内心沸き起こる羞恥の熱を表には決して出さぬよう、耐えるように息を吐き出した。
 そしてにやにや笑う浦原の横を、いつもよりも速い歩調で通り過ぎていった。浦原の馬鹿にした視線が容易に想像できる。沸々と沸き起こる怒りを誰かにぶつけたくて、そして思い浮かんだのはやはりあのオレンジ色だった。












 乱菊はその人を、おむすびの君、と呼んでいる。
 間抜けだ。しかし花の君と呼ぶにはあまりにもクサ過ぎて、だからおむすびの君なのである。
「どんな方なのかしら〜」
 今日の嫌がらせは、深夜の障子の張り替えだった。乱菊は鼻歌混じりに作業をこなす。おそらく今日もおむすびの君が何か差し入れしてくれるに違いないから、最近では深夜の労働も楽しみになっていた。
 待ち伏せして正体を突き止めようと思ったことはある。しかし正体がばれた時点で、おむすびの君とは疎遠になってしまう気がして、結局はやめた。せめてお礼が言いたいとは思うのだが、おむすびの君は神出鬼没であった。
 でもきっと素敵な方に違いない。こんな下働き相手に優しい気遣い、労る気持ちを表す花は毎回違っていて、乱菊は何度励まされたことか。
「殿方だったら最高なのにな〜‥‥」
 そのときは是非とも玉の輿を狙わせていただく。しかしこの城で男というと、大奥にしか存在しないわけで。
「くっそー、駄目じゃん」
 大奥の男は上様の持ち物だ。夢破れたり。
 障子の張り替え作業が、一気に粗雑なものになった。

 バリ!

「っげ! やべ!」
 乱暴な作業で大事な障子が、と思ったが違った。手元の障子は破れていない。どこか遠く、部屋の外から聞こえてきた音に、乱菊は顔を上げた。
 耳を澄ませ、立ち上がる。暗闇に慣れた目を凝らし、音の方向へと忍び足で向かった。近づくにつれ、言い争う声が聞こえてきた。

「ーーー、ーー‥‥どうしてお前が!」

 押し殺した声が、乱菊の耳に届く。男か女かは判別がつきかねた。

「何のつもりだっ、また痛い目に合いたいのかっ、」

 毅然とした声だが怯えが存分に含まれている。押し問答が続いているようで、ときおり呻くような声が聞こえてくる。
 これは厄介ごとだ。下働きが口を挟めば面倒なことになると乱菊は直感した。しかし放っておくにはどうしても後ろ髪が引かれてしまう。抵抗するほうの声が、まだ年端もいかない幼いものだったからだ。

「嫌だ‥‥っ、離せっ、‥‥‥いやっ」

 抗う声が、次第に弱々しくなってくる。怖い、怖くてたまらない、そんな思いがこちらにまで伝わってくる。
 乱菊は我慢しきれず飛び出していた。しかし扉一枚隔てた先から声が聞こえていたことに初めて気がついた。分厚い扉の向こうから、すすり泣く声が聞こえてくる。
 女の子だ。そう分かった瞬間、理性が一瞬にして切れていた。
「何してんのよ!!」
 一撃で蹴り開けられた扉が舞う。蝋燭一つ灯っていない暗い部屋で、絡み合う影が見えた。そのとき外から入り込む月の光が室内を照らし出す。
 覆い被さっているのは男だった。そしてその下でもがく人物の、涙に濡れた目が乱菊を見た瞬間、切れた筈の理性が今度は爆発した。
「こンのっ、変態野郎!」
「っえ!? っちょ、お!?」
 男の顔を確認したときにはもう遅かった。乱菊は振り下ろした拳を止められず、思い切り叩き込んでいた。
「‥‥‥‥‥。ギン?」
 確かに、幼馴染の顔だった。
 乱菊は信じられなくて、床に這いつくばる男の顔を確認しようとした。しかしそのとき、床に散らばる『あるもの』に目が行った。
 それは潰れたおむすびと、中身の零れた水筒と、そして花弁の散った花。
「おむすびの君!!」
「は?」
 なんやねんそれ、というギンの声が後に続いた。



「ほらっ、ギン! 謝りな!」
 銀髪の頭を掴んでぐりぐりと床に擦り付けながら、乱菊も一緒になって頭を下げた。
「ほんっとうにごめんなさい! 一護様!」
「いや、‥‥あの、そいつ、顔が」
 潰れてる、と青ざめた顔で言うおむすびの君、もとい一護の優しさに乱菊は大変感動して、仕方なくギンの頭を離してやった。鼻を真っ赤にしたギンが恨めしそうに睨んでくるが、後頭部を一発殴ってやったら途端に大人しくなった。
「まさかおむすびの君が上様だったなんて思いも寄りませんでした」
 改めて見てみると、本当に若い。まだ元服も迎えていないのではないだろうか。そう問うと、一護は城に上がる前に済ませてきたと教えてくれた。
 それから差し入れが台無しになってしまったことを、心底気に病んだように謝ってきた。さすがに乱菊は言葉を失い、横でだるそうに胡座をかいているギンを殴り飛ばした後に、一護を抱きしめていた。
「そんなっ、いいんです! というかありがとうございます! こんな下っ端の私にいつもいつも差し入れてくれて!」
「っうわっぷ!」
 溺れたような声を出すものだから不審に思うと、一護が乱菊の胸の谷間で文字通り溺れていた。慌てて離して謝り倒した。解放された一護は自分の胸をちょっと触ってから乱菊の胸元をちらりと見て、そしてはぁ、と溜息をついていた。
 っな、なんて可愛いの!
 それをギン、この男はあろうことか一護様のお小さい胸を吸ってやがったのだ。乱入した際、はっきり見た。
「テメーこの野郎っ、もっかい謝れ!!」
「イテテっ」
「その股ぐらについた棒っ切れへし折ってやろうか!? あぁ!?」
「それはちょっ、勘弁してーやっ、」
 ひとしきりギンを痛めつけた後、乱菊は沈黙したままの、というよりも乱菊の剣幕に口を挟めなかった一護の前で床に両手をつき、深く深く頭を下げて言った。
「こんな野郎ですけど、私にとっては大事な幼馴染なんです。‥‥‥‥一護様、どうかお願いです。罰するのなら代わりに私を。切腹でも何でも致します」
「乱菊!? なに言うとるん!?」
「あんたは黙ってな!」
 乱菊は額を床に擦り付け、なおも言った。
「私を罰した後は、こんな奴、身包み剥いで丸坊主にして歯の二、三本折って、上様のお気が済むまでボコボコにして構いません。けれども命だけは奪わず、城の外に捨て置いてください。どうか、どうかお願いします」
 結わえた髪がはらりと解け、乱菊の頬を覆った。隣でギンが喚いて無理矢理起こそうとしてくるが、乱菊は頑として顔を上げなかった。
「‥‥‥‥本気か?」
「はい」
 ギンだけだった。親の顔も知らない自分に優しくしてくれたのは、傍にいてくれたのは、この幼馴染だけだったから。
 乱菊はゆっくりと顔を上げると、ギンに向かってにっこり笑った。
 その直後、閉め切っていた部屋の扉が開け放たれ、複数の人間がなだれ込んできた。

「上様!」

 その先頭を切っていたのが若い女の声であったことに、乱菊は少々驚いた。噂に聞く御庭番だと気がついて、まじまじと凝視した。
 首領と見られる女の忍が、一護の前で仁王立ちした。
「部下の目を盗んで夜な夜な抜け出しておったそうじゃな!」
「夜一の目は盗めないから‥‥」
 だから見張りが夜一でない日を狙って抜け出させてもらった。
 一護が言いにくそうに答えると、夜一と呼ばれた忍の口元がひくりと引き攣るのが顔を隠す布の上からでも確認できた。そして気を取り直すように咳払いをした後、その目が一人の男に向けられた。
「‥‥‥‥これはこれは市丸殿。こんなところで何をしておいでか」
 夜一が手を振ると、すかさず部下達が動き、ギンを囲った。
「よもやまた、上様に無礼を働いたのではあるまいな」
 はぐらかすのか、認めるのか、ギンの唇が動いたそのとき。
「違う。俺に無礼を働いたのはこちらの女だ」
「なんじゃと?」
 険のある目で睨みつけられ、乱菊は無意識に背筋を張った。そして言われるがまま、頷いた。
「乱菊!」
「夜一、女を連れていけ。こいつは放っておけばいい」
「お前っ、どういうつもりやっ、」
 掴み掛かってくるギンを、他の忍が押さえつける。それでも暴れるギンの眼前まで一護は歩み寄ると、誰にも聞こえない声音で囁いた。
「すべてお前が招いた結果だ。思い知れ」












 父は妾だった。
 生まれた自分は庶子。それも男だ。女が実権を握るこの世では、まったくの役立たずであった。
 けれども大奥で将軍を孕ませた栄誉ある男になれたのなら、惨めな生活も、色街に売られていく幼馴染の運命も、すべてが変えられると思った。
 自分を利用したい母という女に命令されるがまま、大奥に上がった。他の男に遅れを取らぬよう、多少強引にでも一護を孕ませてしまえばいいと考えていた。
 しかし己は失敗した。幼馴染も失って、これから先何を糧に生きていけばいいのか分からない。こんなにも自分は弱い人間だったのだと、一人になって初めて気がついた。
 もはや目の前でふんぞり返る子供を見ても、何の感情も浮かんではこない。
「俺の気持ちが少しは理解できたか」
 家族から引き離され、城に放り込まれた子供。だが一生会えないわけではない。生きていればいつか。
「えぇ気分でしょう‥‥‥‥人から奪うゆう気分は、」
 将軍の私室の下座で、ギンは力なく座っていた。上座に腰を据える一護との距離はそれほどない。飛びかかって首をへし折ることは可能。しかし目に見えない境界線を越えたが最後、ギンの首は飛ばされているに違いない。
 それでも良かった。もうすべてがどうでもよかった。このまま城の外に放り出されても、のたれ死ぬのが関の山だ
 己が纏う、この美しい着物が血に染まる様をギンは思い浮かべ、一護に見えぬようくすりと笑った。不穏な気配を察して、天井裏の気配が動く。
 殺されるなら番犬にではなく、その飼い主に殺されたいところだ。しかし贅沢は言っていられない。ギンはそうとは分からぬよう、僅かに腰を浮かし覚悟を決めた。
 ‥‥‥‥乱菊。
 ごめん。

「上様ー、お茶が入りましたー!」

 すぱーんと背後の襖が開き、聞き慣れた声が飛び込んできた。ギンは愕然として、爪先一本動かすことすら出来なかった。
「ささっ、夜一さんも下りてきて。皆で一服しましょー」
 決めた筈の覚悟がばっきばきに壊されていくのをギンは感じていた。なんだ、なんなんだこの女。
「なんっでお前がおんねん!!」
 震えながら指差した方向に、死んだ筈の幼馴染がお茶の用意をしていやがる。
「あらやだ。あんたの分は無いんだからね」
 それも嫌そうな顔をして、しっしっと追い払ってきた。人がこの数日、絶望の縁に立たされていたなんて知りもしないのだ。
「おまっ、お前っ、なんで死んどらんのや!?」
「ぁン? 喧嘩売ってんのアンタ」
 乱菊だ。乱菊が青筋を浮かべ、ギンを睨みつけている。その恐ろしさと言ったら生気に満ち溢れていて、間違っても幽霊なんかじゃない。
 ふと一護と目が合って、にやりと笑われた。それだけですべてを悟り、ギンの体から一切の力が抜けていった。ぐったりと床に突っ伏して、情けない顔で上座を見上げた。
「このお茶請け美味しい。やだわー太っちゃうわー」
「俺も。いくらでもいけるな、これ」
「上様はもっと肥えたほうが良いぞ」
 一護、夜一、乱菊が、暢気にお茶を始めている。その余裕の態度を眺め、なるほど男が天下を取れぬわけだと、ギンは妙に納得してしまった。
「‥‥‥上さん」
 体を起こすと、ギンは丁寧に平伏した。三人分の視線を感じ、特に一護の視線を意識して、ギンは告げた。
「これまでの非礼、深くお詫び致します」
 負けだ、負け。
 けれども不思議と、悔しいとも恥ずかしいとも思わなかった。小猿と馬鹿にしていた相手に負けたというのに。これが藍染の言っていた『当たり』の意味なのだと、ギンはようやく理解した。
 顔を上げると、こちらを驚いた顔で見つめる一護と目が合った。ギンがぎこちない笑みを向ければ、一護の口元も動く。唇が緩く弧を描くのを見て、ギンは放心した。
 のちにギンは言う。

「あれに、やられてしもたんや」

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