第二章

  一、そして一つ失って  


 太陽が山の谷間に沈んでいく時刻。
 めっきり冷え込んだ今の季節、一護は己の肩を抱いて寒さに身を縮ませていた。そんな姿を見れば、誰かが真っ先に火鉢だ羽織だと駆けつけてくれるが、今の一護にそれは無い。
 冷たい風が吹き付けてくる河原の土手で、一護は膝を抱えて座り込んでいた。
「‥‥‥‥‥さぶい」
 垂れてきた鼻水を啜り、一護はぶるりと震えた。どこかの安宿にでも入りたいところだが、何も考えずに飛び出してきたせいで手持ちの金は一切無かった。
 困った。このままでは野宿もあり得る。
 藁蓑を巻いて橋の下で眠る己を想像し、一護は重い溜息をついた。いかに自分が恵まれていたのかが身に染みて分かる。田舎で暮らしていたときでさえ、こんなにひもじい思いをしたことは無かった。
 振り返ると、遠くに構える城が見える。一護はそれをじっと見つめ、再び溜息をついた。初めは嫌でたまらなかった城の暮らしも、今では随分と慣れた。友人とも思える人達にも出会うことができた。毎日少しずつだが笑う回数も増えた気がする。
「夜一、怒ってんだろうなー‥‥」
 乱菊も心配しているに違いない。今頃探してくれていることも、それに足りうる信頼を築き上げていたことも一護には分かっていた。
 それでも帰れない。今日は野宿だ、決定だ。
 着物の袖には何も入っていない。一護はがっくり項垂れたが、同時にはっと目を見開いた。
 金は無い。が、今の自分は金の塊を纏っていることに、たった今気がついた。派手では無いが精緻な刺繍が随所に施された羽織に、手触りの良い最高級品の着物。帯に挟んだ短刀なんて、質に持っていけば。
 当分は楽して暮らせる金が手に入る。一護は少しの間迷ったが、意を決して立ち上がろうとした。

「なんだ、やっと動く気になったか」

 一護は中腰で硬直したまま、ぎぎぎっと背後を振り返った。
 そこにいたのは、顔も知らない男だった。しかし声は知っていた。その低くて脅すような声音を、一護は聞いたことがある。
「前と格好が違うな。本当にいいとこのガキだったのか、坊主」
 ちょうど太陽が沈み、男の体が闇に包まれた。男を形成する影には見覚えがあった。一護は妙な愛想笑いを浮かべ、直後に逃走を図った。
「まあ待て」
 しかしわずか三歩で捕まった。
「再会を喜びあおうじゃねえか」
 どうやったらそんな友好的な空気になれるというのか、一護は是非とも問いてみたい。











 城下町の栄えた大通りとは一線を画して、古く寂れた場所がある。主に脛に傷持つ輩が多いとされる犯罪者の吹き溜まりとされ、何度か区画整理の対象として候補に上がっていたことから、一護も名だけは知っていた。
 更木と呼ばれるその一帯は、支配する男の名もそうであるらしい。京楽から聞いた話を、一護は次第に鮮明になる頭で思い出していた。
「なんで気絶してるんスか?」
「暴れるから殴ったら気絶した」
「可哀想に。たんこぶになってるじゃないですか」
 痛い。誰かがこめかみに触れた。一護は顔を顰めて身を捩る。
「これ、当てるといいよ!」
「びっちゃびちゃじゃねえか。絞れよ」
「これでいーの!」
 べちゃっ、と一護の顔面に掛けられたそれに、一護はますます顔を顰めた。臭い、臭すぎる。
 すぐさま払いのけるが、それはしつこく一護の顔に掛けられた。まだもう少し寝ていたいのに、一護はとうとう我慢できずに振り払った。
「‥‥‥‥臭えっ!!」
「あ、起きた」
 青筋立てて起きた一護だったが、自分に集中する視線にたじろいだ。じりじりという蝋燭の燃える音がする中で、一護のごくりと唾を呑み込む音がやけに大きく響いた。
 部屋には一護を含めて四人いた。いや、正確には五人。小さくて気がつかなかったが、小さな子供が一護の膝の上によじ上ってきた。
「ちゃんと冷やさないと駄目だよ」
 甲高い少女の声に、一護は目を瞬いた。聞いたことのあるそれに、一気に記憶が押し寄せてくる。
「だからといって、さっき床に零した茶を拭いた雑巾はないでしょう」
 どうりで臭い筈だ。田舎にいた頃はどうとも思わなかった匂いだが、清潔な城に慣れた一護にはきついものがあった。思わず袖で顔を拭くと、女の子に笑われた。
「で、どうするんです?」
「どうって言われてもな‥‥」
「考えずに連れてきたんですか!?」
「行くところが無さそうだったから連れてきたんだ」
 そこで全員にはたと見つめられて、一護は思わず後じさった。しかし狭い部屋ではすぐに壁際に追いつめられる。
「お家に帰れないの?」
 一護の膝の上では、少女が寛いでいた。蝋燭一つしか無い部屋は決して明るいとは言えなかったが、少女の幼い顔は判別できた。くりりと大きな両目が、一護を何の屈託も無く見つめてくる。
 一護は黙っていたが、しばらくして小さく頷いた。
「京楽の話じゃお前、あいつのコレなんだろ?」
 コレ、と立てられたのは小指だった。一護は意味が分からずきょとんとした。
「小姓だ、小姓。京楽の野郎、女だけだと思ってたが、男もいけやがったか」
 驚愕の事実に仰け反った一護は、背後の壁に派手に頭を打ちつけた。
 一護の身分を隠す為の上手い言い訳だとでも思っているのかあの男。脳裏に浮かぶ京楽の顔に、一護は一発拳を入れてやった。
「京楽の旦那がねえ‥‥」
「まあ、男にしては可愛い顔はしてるよ」
「小姓ってなにー?」
 最後の質問は聞かなかったことにして、一護は改めて目の前の男を見据えた。他の二人はおそらく手下だろう。だとしたらこの目の前の男が、話に聞くあの更木剣八に違いない。
「‥‥‥‥あんたに頼みがある」
「ここに置いてくれって言うんだろ」
 先を言われて、一護は驚いたもののすぐに頷いた。だが周りからは明らかな不服の反応が返ってきた。
「男にケツ掘られてるような奴を置くなんて御免ですよ!」
「一角、下品だよ。まあでも、僕も同じような意見ですけどね」
 ははん、と馬鹿にするような笑みを向けられた瞬間、一護はぶち切れていた。
 まず剃った頭の男を殴り飛ばし、女みたいに綺麗な顔の男を蹴飛ばし、ついでに目についた障子に穴をあけてやった。
「やめろっ、昨日張り替えたばっかなんだぞ!!」
「ぃいい痛いっ、僕の美しい顔をよくも!」
「いけー! やれー!」
 喜んでいるのは少女だけで、一護は暴れに暴れまくった。日頃の鬱憤が溜まっていたせいもある。不満もすべて、今ここで吐き出した。
「俺だってなあっ、好きであそこにいるんじゃねーんだよ!」
 ハゲ頭と格闘中、一護の目頭が熱くなった。
「子供を産んでっ、それでもあそこを出るには時間がかかるっ、本当は逃げてきちゃいけねえのに、それなのに俺はっ、‥‥‥馬っ鹿野郎!」
「痛えっ、なんで俺が殴られるんだよ!?」
「八つ当たりだ! このツルツルがムカつく!!」
 取っ組み合う一護達はすぐさま引き剥がされた。なんだと相手を睨みつけると、驚いた顔をした剣八と目が合った。そして直後に、むにりと乳房を掴まれた。
「女だ」
 むにむに揉まれること数秒。一護は絶句して、動けなくなっていた。
 そうだ、さらしを付けていない。大して膨らんでもいないから必要ないと突っぱねていたが、こんなことなら乱菊の言うことを聞いてちゃんと巻いておけば良かった。
「え、お、女って?」
 よく分かっていないハゲ頭が一人いたが、他は皆分かったようで、信じられないといった視線を向けてくる。一護は胸を押さえて座り込み、剣八を睨みつけた。
「どういうことだ? 小姓じゃねえんなら、てめえは京楽の何になる」
 まさか妻とは言えまい。
 それも夫を複数持っているなんて、言えばこの男達にどんな反応をされることか。
「その格好、さっきの言葉、てめえはどこの誰なんだ」
「‥‥‥‥‥知ってどうすんだよ」
「ただの好奇心だ。言えばここに置いてやらんことも無い」
 一護はむむっと眉根を寄せた。雨風を凌げる場所の提供の代わりに身分を明かす。
 いや、そもそも信じてもらえない気がする。
「‥‥‥‥将軍、だったりして」
「真面目に答えろ」
 それ見たことか。
 この乱暴な口調に振る舞いのどう見たってそこらの子供と変わらない一護が、殿様だと言って誰が信じてくれるだろうか。それらしく振る舞うことも出来ない自分があの城にいる理由、それは先ほども言ったように跡継ぎを生む為だ。
 けれどそれは一護にとっては苦痛でしかない。あの大きな体にのしかかられて、唇を好きなように奪われる。悲鳴も何もすべて無視され、ただ子供を作るその為だけに体を蹂躙されるのは。
「おい、」
 嫌だ、嫌なんだ。
 両親みたいに、好きあって結ばれたい。なにを子供じみたことをと馬鹿にされてもいい。身分も何も一切関係ない、自分という存在を求められたいと思って一体何がいけない。
「‥‥‥‥泣くな」
 心底困った剣八の声に、一護はやっと自分が泣いていることに気がついた。乱暴に目元を拭われ、そこに労る気持ちを感じると、一護はますます泣いてしまった。
「いやだっ、帰りたくない‥‥っ、」
「あぁ、」
「でもっ、帰んないとっ、」
「辛いな」
 引き寄せられて、抱きしめられる。一護は声を上げて泣いた。
 出会ったばかりの人間だからこそ、そうすることができた。恥ずかしい自分を晒して、それで笑われてもいい。あの城では弱みを見せることなど、もう決して出来ないことだから。
 どれほどそうしていただろうか。嗚咽も消え去り、一護は力の抜けた体を剣八に預けていた。いつの間にか手下二人と少女が消えて、剣八と一護の二人きりになっている。
 固い胸板が、昨日の出来事を一護に思い出させる。けれどあのとき感じた恐ろしさは今は感じられない。不思議だ、この男とあの男の何が違うのだろう。男は父親以外、もう信じられはしないというのに。
「一護、といったな」
 一護は頷いて、頬を撫でる剣八の手にされるがままでいた。その手がふいに一護の顎を掴み、上向けさせた。
「ここに置いてやる」
 段々と近づいてくる男の顔を、一護は目を瞑り静かに受け入れた。これは取引だ。そしてこの男が恐ろしくないと思った理由がようやく知れた。それはきっとこの男が、跡継ぎも恩恵も、何も一護に求めていないから。
「‥‥‥っん、はぁ、ん」
 荒々しい口付けだった。それに愛撫もがさつ。汚い床に押し倒されて、着物を一枚一枚剥ぎ取られる。
 大事なものが奪われるというのに、一護は妙に冷静だった。剣八が逆に心配するほどに、一護は抵抗をしなかった。
「いいのか。抵抗したら、やめてやるつもりだったんだが」
 その逃げ道に、一護はきゅっと唇を引き結んだ。袴に掛かる剣八の手に己のそれを重ねると、わずかに腰を浮かせてみせた。剣八は苦笑するともう何も言わず、脱がしやすくなった一護の袴をするりと抜いた。触れる手が少しだけ優しくなった気がして、一護は小さく笑った。
「んん‥‥っ、いやだっ、」
 かさついた指が内股を撫でる。その奥に触れられたときはさすがの一護も悲鳴を上げた。
「ひどくはしねえ」
 宥めるように口付けてくる剣八に再び身を任せ、一護はぼんやりと天井を見上げた。すべてが終わったら、ここには残らず城へと帰ろう。
 そのときはきっと将軍の役目を全う出来る。跡継ぎを生む為の行為も甘んじて受け入れよう。ただ初めては、打算も策略も何も無い男に捧げてみたい。
「‥‥‥っふ、うぇえ‥‥っ、」
「だから泣くなって。やっぱりやめてほしいのか?」
 首を横に振る一護に、男は溜息をついて起き上がった。やめてしまうのかと思ったがそうではない。剣八は着流しを脱ぎ捨てると、その上に一護を裸にして横たえた。
「初めてだろ。可愛い体してやがる」
「っほ、ほんとか?」
「あぁ」
 ギンには貧相だの、胸が無いだの散々言われたものだ。
 けれど剣八は可愛いと褒めて、また零れてくる涙を拭ってくれた。至近距離で見る剣八の顔は、城にいるような甘い顔立ちをした男達のどれとも違っていた。野性的で荒々しくて、けれどもとびきり良い男だ。
「ずっとここにいてもいい。お前は、面白い」
 そのとき、壁に映し出された二人の影が大きく揺らぎ、直後に蝋燭が消えた。辺りは一切の闇になる。
 そして襲ってくる熱い波に、一護は身を任せた。












 日の出前の大通りを、一護はゆっくりと歩いていた。白んだ朝の町は薄らと霧がかかっている。人が起き出す前のこの時刻、一人歩く一護は目につきやすい。
 それを最初に見つけたのは、一護にとって意外な人物だった。
「どこに行っていたんだ」
 まさかこの男が城下に下りてくるとは思わなかった。城の一室で、静かに策略を巡らせているのがお似合いの男だ、それが庶民の町に、それも一護を迎えにやって来るなんて。
「城では君がいないことはまだ一部の者にしか知られていない。すぐに戻るんだ」
 強い力で腕を掴まれ、抱き寄せられる。その余裕の無い動作が彼らしくなくて、一護は驚いたように目を見張った。
「昨日のことを、君は怒っているんだろう‥‥」
 男の着物は冷たかった。まさか昨日からずっと探し回っていたのだろうか。冷えた着物の胸元に頬を押し付けられたまま、一護は大人しくしていた。
「けれどいい加減、自覚しなさい。君はそこらにいるような子供と一緒じゃないんだ」
 だから大人しく抱かれろとは、あんまりな話だとこの男は思わないのだろうか。
 思わないのだろう。そしてそれが正しくて、一護が間違っている。あの城では、異質なのは一護のほうなのだ。
 それを悲しいだとか悔しいだとか、いちいち反応して喚き立てる自分をこの男は滑稽に思っていたことだろう。
「藍染‥‥」
 この一見乱暴を好まない男が、突然に押し倒してきたときの驚きと恐怖を一護は思い出していた。押さえ込まれ、跡継ぎを、と望まれたときの泣きたいほどの恐怖と言ったら。
 城を飛び出した理由をつくった男を見上げ、一護は白い息を吐き出しながら言った。
「帰ったら、‥‥‥昨日の続きをしよう」
 藍染が息を呑む。らしくないその反応に、一護は少しだけ胸のすく思いがした。

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