第二章

  五、私を許してくれ  


 一護が私室に籠って一週間が過ぎていた。
 剣稽古も将棋も習字も、一護と共に過ごした時間が遠く感じられる。かと言って許可も無く私室に乗り込もうとすれば、夜一以下、一護に味方する女達に門前払いを食らわされた。
「えぇやん、ちょっとくらい」
「だめ! 一護様は今、誰にも会いたくないって」
「お前らは普通に会うて喋っとんのやろ? ずるい」
「添い寝もさせていただいたわ」
 ほほほ、と嘲笑われて、ギンの眉間に皺が寄った。
「元気にはしているんだね?」
「藍染様。‥‥‥‥えぇ、体調に問題はありません。ただときおりぼんやりとした顔で黙り込んだり、溜息ばかりであまり会話も弾まなかったり、眠っている間は魘されていたりするだけです。誰かさん達のせいで」
 繰り出される嫌味に、ギンは隣に佇む藍染を見た。
「あんたらが苛めすぎるからや。一護ちゃん、引きこもってしもたやないの」
「あんたが言うな!」
「いったー! 顔はやめて!」
 乱菊の鉄拳が飛ぶ。平気で顔を狙ってくるから困る。
 押し問答を続けていると、廊下の先から夜一が歩いてきた。猫のように鋭い目を男二人に向け、顎をしゃくった。
「ついてこい。藍染」
「一護が?」
「そうじゃ。お前と話したいと言うておる」
「なんでこのオッサンだけ! ボクは!?」
「名前すら出ておらん。帰れ」
 冷たく突き放されて、それでもギンが食ってかかろうとすれば、首根っこに強い力が加わった。見ると乱菊が有無を言わさぬ恐ろしい表情で立っていた。
「あんたは私と来るのよ。久し振りに腕相撲でもしましょうか」
 反則ありのアレか。
 抵抗するギンがずるずると引っ張られる一方、藍染は思い詰めた表情で足下を睨みつけていた。












 座敷の端で、一護は欄干にもたれかかりながら外を眺めていた。その横顔は、藍染が予想していたような悲嘆に暮れているわけでもなく、むしろ落ち着いた雰囲気を滲ませていた。
 声を掛けることも忘れ、藍染は敷居の外からその光景を眺めていた。男を受け入れたとは思えない、穢れの無い少女にしか見えなかった。威厳を湛えているわけでもなく、ただの黒崎一護がそこにはいた。
「藍染」
 いつの間にか、一護がこちらを見つめていた。そして近くに来いと手招きされて、藍染は一拍おいて従った。
 ゆっくりと畳を踏みしめる。すぐに距離を縮めてしまうのには躊躇われた。慎重に足を進めて、一護の元へと侍った。
 すい、と一護の手が伸ばされる。その指先に触れていいものか悩んでいると、一護のほうから触れてきた。藍染の手を握り、座れと促す。
「何もしない、から‥‥」
 側室相手の無体な真似を、藍染は既に聞かされている。よもや一護に襲われるとは思っていない藍染は、促されるままに腰を下ろした。久し振りに見る一護は、少し痩せたようだった。
「ちゃんと食べているのか」
「うん‥‥」
 するりと指が離れていって、同時に会話が終了した。気まずい空気が二人の間に横たわる。会話の糸口が見つけられないまま、時間だけが過ぎていった。
 みゃ。
「あ、」
 部屋の隅に置かれた座布団の上で、何かが声を発した。二人の視線が自然とそこに吸い寄せられる。それはもぞもぞ動き出すと、ぱっと顔を上げた。
「‥‥‥あのときの、猫?」
 片手に収まるほどの大きさだった子猫が、遠目にも随分育っているのが分かる。猫はもう一度鳴いて、跳ねるようにしてやってきた。
「ちび」
 一護の呼びかけに応えるように一鳴きすると、猫はそのまま一護に突っ込んだ。膝の上によじ上り、ころりと仰向けになる。そしてすぐに一護の指をしゃぶり始めた。
「ちび、と名付けたのか」
「小さいから」
「大きくなったらどうするんだ」
 一護の眉間にむっと皺が寄った。それは考えていなかったらしい。
「ひよこにひよちゃんと名付ける質だろう」
「悪いかよ‥‥」
 その口ぶりは既にそうした経験があるかのようだった。田舎育ちだと聞くし、あり得ないことでもない。
 想像するとおかしくて、藍染はくくっと笑った。
「っわ、笑うなっ、ひよちゃんはなっ、そりゃあ立派な鶏になって」
「いや、失敬。‥‥‥っぶ」
「藍染!」
 顔を真っ赤にして怒ってくるその必死さに、さらに笑いを刺激された。こんなにも純粋な気持ちで笑ったのは久し振りだった。いっそ新鮮ささえ感じて、藍染は笑った。
「笑うなよ、もう」
 拗ねた声で一護が言った。唇を突き出して拗ねる子供っぽい仕草が思い浮かぶ。案の定、一護は唇を尖らせて藍染を睨みつけていた。
 気まずい雰囲気がいつの間にか払拭されて、和やかなそれに取って代わっていた。相変わらず猫は一護の指をおしゃぶり代わりに吸いついていて、ときどき音が鳴る。一護は目を細めて猫の腹を撫でていた。随分と可愛がってくれているようで、贈った甲斐があるというものだ。
「君の指が好きみたいだ」
「うん。こうしてないと、寝ないくらい」
 暗いところでは青みがかって見える白の毛並みをしたその猫は、青い瞳を閃かせてふいに藍染を見た。ぱちりと目が合ったので、藍染は試しに触れてみた。
「‥‥‥っ、」
「こら!」
 子猫といえどもその爪は鋭い。藍染の指先に赤い線が走り、一護の慌てた声が上がった。
「どうやら君にしか懐かないようだ」
 叱られた猫は、一護の膝から飛び上がって逃げていった。
 絞め殺してやりたいと思ったが、さすがに大人げない。一護が手拭を取り出し、傷に押し当ててくれた。
 手拭ごと手を包み込まれ、再び沈黙が落ちる。けれど先ほどのように気まずいものではない。どこか優しくて、柔らかで、普段なら飛び交う舌戦が一切無い。穏やかな時間を共有するのは初めてのことだった。
 こんな時間も悪くはない。ただこうして手を握り合う、それだけで満足できることもあるのだと初めて知った。
「藍染?」
 一護が驚いた声を上げ、同時に手が離れていった。それが残念でならなかった。
 けれど次にはもう、一護の手が頬に触れてくる。たどたどしい手つきで撫でられて、それが心地良かった。目を瞑って受け入れていると、指以外の温もりが頬に触れた。
「‥‥‥‥嫌、だったか?」
 目を開けると、そこにはぼやけた一護の顔があった。先ほど触れたのが一護の唇だったと知れて、らしくもなく狼狽えた。
「嫌なら、もうしない」
 するんじゃなかったと顔に書いてある。一護は恥じ入った表情で、すごすごと身を引いていった。
「待ってくれっ、‥‥‥‥どうして?」
 そのまま部屋から退出しようとする一護を捕まえて問いつめた。余裕の無さが露呈する。それでも聞かずにはいられなかった。どうして、口付けを。
「もうしない」
「そんなことを聞いているんじゃない、どうして、私に」
 一護の腕を掴む藍染の手が小刻みに震えていた。恐れなのか、もしかしたら別のものかもしれない。しかしそれを認めたくない気持ちがある。どこまでも己が優位に立ちたいという、狭量な自分が。
「‥‥‥‥また、」
 遠慮のない力に痛そうに顔を顰めながらも、一護が再び手を伸ばしてきた。指先が頬に触れ、撫でてほしいという思いと、やめてくれと叫ぶ気持ちが交錯した。
 故に何も言えずにされるがままになっていると、辿る指が掌になり、やがては頬全体を包まれた。
「泣きそうな顔、してるな‥‥」
 そしてまた唇が頬に触れた。すぐに離れ、一護が首を傾げて、どうだったと聞いてくる。
 嫌ではない。むしろ自分は、この子供のことが。
「私は、」
 駄目だ、言うな。他人に心を預けるなんて。
「私はっ‥‥」
 言わせないでくれ。
 弱みを見せたくないんだ。
「言わなくていい」
 吐き出しそうになった言葉を封じ込められた。
 そしてなぜか目の前に、細められた茶色の目があった。虹彩に刻まれる細かな筋までもが確認できる。それほどまでに近い。それが徐々に瞼で覆われていった。どうして。塞がれた唇で、藍染は呟いた。
「‥‥‥嫌、だったか?」
 再度同じ問いかけに、否、と首を振る。意志とはまた別の、そうするようにあらかじめ決められていたように、体が勝手に動いていた。
「もう一度、するぞ」
 少し離れて、また近づく。丁寧に唇を合わせられ、柔く食まれた。技巧も何も無い拙い口付けに、相手が慣れていないのだとすぐに分かる。玄人染みた態度で口付けられた以前とは明らかに違う。一護は一生懸命に唇を重ね合わせていた。
「熱い‥‥」
 離れていく一護の頬は火照っていた。潤んだ瞳に藍染の姿が映し出されている。一護は両手を頬に当てて、びっくりしたように言った。
「ドキドキしてる。前はこんなこと無かったのに」
 確かに前とは違う。どうしようもない苦しさが、今は無い。
 それはきっと向こうが折れて、こちらに歩み寄って来てくれたからだ。自分は何もしていない。この子が少し大人になってくれたお陰で。
「‥‥藍染。俺、馬鹿なんだ」
 頬を包む手を下ろし、一護は唐突に言った。正座して、妙に畏まった態度になる。膝の上では、固い意志を表すように拳が握られていた。
「自分でも分かってたけど、こんなにも馬鹿だとは思わなかった。それでも皆、俺のこと、見捨てなかった。馬鹿なことしたらちゃんと叱ってくれた。‥‥‥お前も、そうしてくれたな。感謝、してるんだ‥‥」
 あわやというところで抱かなかった己の所業が、そこまで褒められるものではないと藍染は分かっていたから、言われて罪悪感のようなものが沸き起こる。あれは今でも理解できない、不可解な感情に流されただけの結果だ。だからそんなふうに有り難がられるものではないと言ってしまいたかった。
 一護はそれを知っているのかもしれない。先ほど敢えて言うなと遮ったことが、その証明ではないのか。
「買い被り過ぎだ」
「いいんだ。たぶん、俺の中のお前と、お前の中のお前は違ってるんだと思う。その違いを、‥‥えぇと、なんていうか、う、埋められていったらなあ‥‥と‥‥」
 今、何かとんでもないことを言われた気がする。
 見ると、一護は俯いていた。しかしオレンジ髪から覗く、赤く染まった耳は隠しようも無い。膝の上にある拳が開いたり閉まったりを繰り返し、最後にぎゅっと握られた。これからもっとすごいことを言い出すに違いないという予知めいたものを藍染は感じた。
「っす、好きになれるよう、努力する、‥‥‥‥だから、お前のこと、もっと知りたい」
 不覚にも、背筋が震えた。
 藍染は無表情で黙り込む。しかし実際には心臓が徐々にその鼓動を速まらせていた。
「そんなもの、必要ないと言ったら?」
 また余計なことを。
 こんなときでさえ、皮肉と相手を計る言葉が口を衝く。苦しさを生み出しているのはそもそも己のせいなのだ。素直になれないこのねじ曲がった性格が、すべて悪い。
 しかし今回は、相手が一枚上手だった。
「‥‥‥うん、そういう意地の悪いところも含めてな。俺の懐の広さに感謝しやがれ」
 赤い顔と震える声で言っても説得力が無い。
 けれども一瞬、藍染は苦し気に息を吐き出した。笑おうとして失敗したものだった。その間抜けな表情を一護に見られただろうか。
 本当は情けない、大したことの無い己を晒したくなかった。本音も何も見せられない臆病なこの本性を。
「本当に君は馬鹿だ。結局最後は感情論に落ち着いて。‥‥まったく馬鹿馬鹿しい」
「うん」
「いつか辛い思いをする。間違いない、断言できるよ」
「だろうな」
「‥‥‥‥なんで笑うんだ」
「だって、」
 どうしても笑みが抑えきれないのか、一護の唇がむずむずと動いていた。あと少しで吹き出すに違いないその小憎たらしい唇に、噛み付いてやりたいと思う。
 一人で悩んで立ち直って、こちらの手を借りようという考えなど微塵も持っていないに違いない。それが無性に腹を立たせてくれる。今でもそうやって無防備に笑ってみせて、相手にされているのかされていないのか分からなくなる。
「いてっ」
 がちっと歯同士が音を立てた。一護が思わず目を瞑って後ろに身を引く、その肩に食い込む己の指先をどこか別人のもののように藍染は感じていた。
 そして本当の口付けはこういうものなのだと、教え込ませるようにして貪った。吐息もすべて呑み込んで、まるで獣が獲物に食らいつくように。
「‥‥‥‥ぶはっ! ‥‥‥っい、いきなり、なにすんだっ」
 暫く経って解放してやると、一護が猛然と抗議してきた。けれど二人の混ざった唾液を顎から滴らせていては、何を口にしても誘っているようにしか見えない。
「私のことを知りたいんだろう?」
 だったら、と一護の着物の衿を横に引っ張った。あの噛み後が、消えて無くなっていた。
「‥‥‥‥ここで? ‥‥その、夜一が、」
 きっと隣に控えている。藍染が無体な真似をしようものなら飛びかかってくるに違いない。
「君が悲鳴を上げなければいい」
 脅し文句に近い言葉を吐けば、隣の部屋から殺気が飛んできた。絶対にいる。間違いなくいる。
 一護が隣の部屋と藍染とを交互に何度も見ている間にも、藍染は帯に手を掛けていた。
「っわ、待て待てっ、まだ心の準備が」
「一週間、考えていたんじゃないのか」
「いやでもっ、え、えーっ、ホントに? すんの? 今すぐに?」
 往生際の悪い。解いた帯をいっそ口に突っ込んでやろうかと不穏な考えが浮かんだが、それはまた別の機会にとっておくことにした。
「というかたぶんっ、入んないと思うんだ!」
「‥‥‥‥なんだって?」
 聞き捨てならない。今、なんと。
「だからっ、入んないって! 剣八も先っちょだけ入れて諦めてたし!」
「‥‥‥‥。‥‥‥すまない。もう一度言ってくれないか」
「だから先っちょだけで‥‥‥ってナニ言わせんだよテメエ!」
 そっちこそ何を言っているんだ。
 初めて体験する茫然自失の状態に、藍染はしばらく立ち直ることができなかった。たしかにあの日、一護は言った。もう子供じゃない、と。
 今思うと、どうとでも解釈できる。
「ーーーーつまりは、だ。君は、いまだ清いままだということなのか」
「清い? うん、‥‥‥うーん。‥‥‥ちょっと入れられたけど、清いって言っていいのか?」
 その”ちょっと”が大事なのだ。下品な話だが、とても気になる。
 藍染は改めて一護に覆い被さると、真面目な顔で一護の着物を肩から落とした。直後に発せられる一護の悲鳴だが、すかさず塞いだ掌が功を奏したお陰で、夜一が飛び込んでくることは無かった。
「痛かったら言ってくれ」
「な、なに、なんで、」
「いいか、必ず言うんだ。とても大事なことだから」
 妙な気迫に押されたのか、一護がこくこくと頷いた。しかし既に決定事項となっていることに気がつくと、先ほどとは逆の方向に慌てて首を振った。
「往生際の悪い。観念しなさい」
「っな、何があっても諦めるなって親父が言ってた!」
「それは素晴らしいね。是非とも見習いたい」
 己の失言に、泣かんばかりに顔を歪める一護の手を、藍染は己の背中に回させた。押しつぶさないように身を重ねて、触れそうなほどに顔を近づけた。
「私も知りたい」
「っん」
「君がどんなふうに私を受け入れてくれるのか、知りたいんだ」
「ん、喋るな、口が、‥‥ん、藍染」
 喋るだけで、唇が触れ合った。そのたびにびくびくと反応する一護の体を抱き込んで、唇を無心に吸った。ときおり一護が苦しそうに顔を逸らしたり藍染から逃げようと身を捩る。しかしそうすればそうするほど、二人の格好は乱れ、そして絡み合っていく。
 やがて熱気の籠った室内で、一際高い悲鳴が上がっても、飛び込んでくる筈の御庭番は姿を見せなかった。

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