第二章

  六、一夜の攻防  


 乱菊の役目は一護の身の回りの世話をすること。
 そして、話を聞いてやること。

「眠たそうですね」
「‥‥‥‥うん。朝も寒いし、それに、色々とあるから」
「お察し致します」
 オレンジ色の髪を櫛で丁寧に梳きながら、乱菊は相づちを打った。
 昼頃。庭に面した座敷にて、乱菊は日課である一護の髪の手入れに余念がなかった。城に来た頃からさほど長さの変わっていない一護の髪は、毎日の手入れの成果によってつやつやと輝いていた。けれども短い為に、朝起きたときにはあっちこっちに飛び跳ねてしまう。本当は伸ばしていただいて、上で結わえてさらりと背中に流してしまいたい。けれども一護は、伸ばすことには反対のようだ。
 男らしく振る舞う一護が嫌いなわけではないが、結わえた髪に飾り紐や簪を差して可愛くして差し上げたいとも思う。
 少し収まりの悪い、けれども鮮やかなオレンジ色の髪を見下ろして、乱菊はもったいないなあと唇だけで呟いた。
「乱菊?」
「あぁ、いえいえ」
「‥‥‥それで、もっと寝てたいんだけど、それじゃ周りに示しがつかないし」
「ご立派です」
 一護は朝からずっと欠伸が絶えなかった。髪を梳かれながら、ときおりこっくりこっくりと船を漕ぐこともある。そして零れそうになる涎にハっと目を覚まし、頬を染める。その稚い仕草はまったくの子供だ。乱菊は微笑ましく思いながらも、はあ、と溜息を漏らした。
「ねえ、上様。体はお辛くないですか」
 一護の肩がぴくりと揺れて、それから力が入る。耳がほんのり赤く染まっていくのを乱菊は見た。
「‥‥‥‥‥実は、少し」
 あぁ、やっぱり、と乱菊は痛まし気に目を細め、一護を見下ろした。
 一護の体は引き締まってはいるものの、全体的に細くできている。自分がこんなことを言っては嫌味に聞こえるかもしれないが、腰がくびれているだけで乳も尻もあまり出っ張ってはいない。まだ発達途上の幼い体である。
 それを、ことも有ろうにあの男共‥‥。
「嫌なら嫌と仰ればよろしいじゃありませんか。今日は何もしないで寝かせてくれと」
「っう、うん、‥‥でもそう言うと、中には泣いたりする奴もいて、」
「そんなの嘘泣きです」
「‥‥‥他にも、よく分かんねえ難しい話されて、それを聞いてるうちになんでか、っそ、そういうことになってたりしててっ、」
「話を聞いちゃいけません」
 どんどん身を小さくさせていく一護を哀れに思うと同時に、あの手この手で褥に忍び込もうとする男共に乱菊は呆れていた。
 一護は一人。相手は五人。‥‥いや、四人。
 これでは一護の身が持たない。いっそ褥に上がる回数を制限させてみてはどうだろうかと提案した。
「嫌じゃないんだ。だから心配するな」
 心配顔の乱菊を見て、一護は大丈夫だと首を振った。それからもじもじしながら小さな声で、最近はちょっとだけ気持ち良いから、と付け足した。
 その照れた様子に、乱菊もつられて頬を染めた。
 乱菊の知る一護は義理堅く人情厚くそして慈悲深い。ともすれば大人の女のようだと感じることもあるが、この方はやはりまだまだ子供なのだと思うと途端に安心してしまった。この城において、人が変わるには十分な出来事に直面したというのに、それでも本来の純粋さを失っていない一護を頼もしく思った。この方が自分の主だと思うと誇らしい。
 胸全体がほっこりして、乱菊は照れる一護を抱き寄せた。一護が年上の女性にこうされるのが好きだと知ったのは最近のことだ。男では決して与えられない安心感を自分は与えられることに、密かな優越感さえ感じていた。
「‥‥‥ごめんな、乱菊」
「いいえ。私でよろしければいつだってして差し上げます」
「そうじゃなくて、ギンのことだ」
 一旦体を離すと、一護は乱菊の両手を握り、真剣な眼差しで言った。
「今は俺の側室ってことになってるけど、いつか必ず、お前と添い遂げられるようにしてやるからな」
「はい?」
 なんだろう、今のは冗談か。いやしかし、一護の目はまったくもって笑っていない。
 乱菊は嫌な予感を覚えた。
「あ! 言っとくけどギンとの間には何もねえからなっ、天に誓える!」
「は、はぁ‥‥」
 それは知っている。本人から聞いているのだから。
 以前一護がヤケになったときも、ギンだけはその対象にはならなかった。そして側室達を褥に呼ぶようになった今も、一護は決してギンと肌を重ねようとはしない。男と女が二人いて一晩中何をしているのかと聞けば、ただ話をしたり将棋を差したり、それでもって眠くなったら寝る、というだけだという。

『なんでボクに手ぇ出さへんのやろ』

 ギンがいじけて言った言葉である。そのときは指差して笑ってやったが、一護の話を聞くと乱菊の中で嫌な予感が段々と確信に変わっていった。
 幼馴染のギンがずっと不満に思っていることと、一護の言葉、それらを組み合わせてみると、恐ろしい誤解が生じているのではないか。
「あのあのあの!? なにか勘違いしてません!? ギンとの間に何もないのは私のほうなんですけど!!」
 初めての接吻の相手はギンではあるが、それは思春期の過ちというものだ。ギンなんて覚えてすらいないだろう。今の乱菊にとってギンという存在は、手のかかる幼馴染もしくは弟である。
 乱菊の必死の訴えに、しかし一護はにやにやと笑いながら、俺に任せろと胸を叩くのみであった。












 御簾の奥。蝋燭の灯に揺れる影が二つあった。
「乱菊は照れ屋だな。昔からそうだったのか?」
 今日は囲碁にしようと提案したのは一護だった。一護が黒で、ギンが白。整えられた褥の上で、二人はパチパチと碁石を打っていた。
「照れ屋? アイツが? それはなんかの間違いやろ」
 仄暗い室内で浮かび上がる一護の白い襦袢が妙に艶かしくて、ギンの手がときどきぴくりと変に痙攣した。本当は触りたくて仕方ない。薄い布一枚の下には頼りな気な体があることをギンは知っていたが、手を出すことはどうにも躊躇われた。
 しかし今日こそは、とギンは意気込んでいた。例え一護が無邪気な笑みを向けてきても、安心しきった様子で寛いでいても、そしてまるで男と見られていなくても、やるったらやるのだ。
「ギン」
「なん?」
「いや、お前の番」
 ギンは慌てて白を置いた。形勢は今のところ五分五分。ギンは手加減していたが、それを悟られないよう一進一退を繰り返し、無駄に時間を引き延ばしていた。襲いかかるきっかけが掴めない為である。
 なにもそうはしてはいけない理由など無かったが、一護が自分を恋愛の対象として見ていないのだ。襲ってしまったらまた泣かれるんじゃないかと不安がある。
 そもそもどうして自分だけ、というのがギンの不満だった。口には出さないが、他の側室達が既に一護を抱いたことなど一目瞭然である。妙に機嫌が良かったり、剣稽古の途中に「たはー!」と叫んで壁をガンガン殴ったりと、前日の夜に何があったかなんて容易に想像できる。
 抱かれもしないのにこうして褥に呼ぶのも、ギンの体裁を考えてのことだ。一人声がかからなければ、城の口さがない雀共に好き勝手噂されるのを一護が懸念しての気遣いである。しかしそんなものは無用の世話だ。ただ自分にその華奢な体を任せてくれるだけでいいのに。
「なあ、ギン」
 次は一護の番だ。しかし一護は黒の碁石を指で玩ぶばかりで、盤上に置こうとはしない。そわそわした様子で、碁盤とギンとを交互に見つめていた。
「あのさあ‥‥」
 中々切り出そうとしない一護に、ギンの中で期待が膨らんでいた。もしやと思ってしまう男心を許してほしい。
 そしてついに一護が碁盤越しにずずいと身を乗り出した。意志の強い目が、仄明るい部屋できらりと光った。

「乱菊とは、いつ結婚したい?」

 青天の霹靂とはこのことだ。
 ギンは開いた口が塞がらなかった。ついでに滅多に見開かれない細い目も、めい一杯開かれていた。
 冗談だ、冗談に違いない。例え一護の目がどんなに真剣な光を帯びていたとしても。
「乱菊は恥ずかしがって結局逃げちまったけど、仕方ねえ、お前の意見も聞いといたほうがいいだろ」
 で、どうだ、と一護は聞いてくる。
 しかしそれに答えられる言葉など、ギンは持ち合わせてはいない。
「だんまりか。乱菊といい、お前といい、恥ずかしがってどうする。大事なことなんだぞ!」
 興奮してつい力が入ってしまった一護が、碁盤の上に拳を叩き付けた。白と黒とが宙を舞う。褥にばらばらと落ちるその上に、ギンは気付けば一護を押し倒していた
「ギン?」
 事態をうまく呑み込めないでいる一護の声は、緊張感の欠片も無かった。これが藍染や他の側室達であったなら、頬を染めて無抵抗でいるに違いないと思うと、ギンは嫉妬にぎりりと奥歯を噛み締めていた。
 試しに足の付け根辺りに指を這わせると、一護はぎょっとして次には暴れ出した。
「っば、馬鹿! やめろっ」
「なんで。ボクは君の夫や」
 過去の過ちは既に清算して、側室達を受け入れると言ったのは一護のほうだ。なのに抵抗するなんて。
「乱菊がいるだろ!」
 そう、それだ。一護が自分に手を出さなかった理由。
 お前と一緒だとぐっすり眠れるなんて言い放って、初夜に爆睡してくれたのは記憶に新しい。
 隣でぐうぐう寝られて、寝返りを打つ度に乱れていく一護の襦袢にどきっとし、それでも手が出せなくて朝まで耐え忍んだ。一度ならいい。しかしそれが二度三度と続き、その間に一護の幼い体があのオッサン共に開発されていくかと思うと気が狂いそうだった。
 いまだ快楽には目覚めていないと、京楽の色ボケと藍染の黒狸の会話を偶然聞いてはいたが、それでも羨ましくて羨ましくて、まさか自分だけはまだ抱いていないなんて言えやしなかった。
「ボクがどれほど悶々としたことか!」
「なに言ってんだっ、どけっ、乱菊に言いつけるぞ!」
 振り上がった一護の足をギンは避け、すばやく掴む。ほっそりとした足首を持ち上げると、恥ずかしい格好をとらせてやった。
「てめーなにしやがんだ!! 殿中だぞコラー!!」
「じゃかぁしわいっ、ボクの純情弄びやがってからに!」
「お前に純情なんてねーだろ!」
 これにはキレた。
 純情。あるに決まってる。無くしたものだと思っていたが、一護がくれたのだ。
 碁盤を褥の外へと蹴り出すと、本格的に一護に覆い被さった。
「あ」
 か細い声がした。ずり上がった襦袢から見えた内腿にきつく吸いついた為に、一護の腰がびくりと浮き上がった。その素直な反応に勢いづいて、ちゅっちゅっと吸いつきながら唇を徐々に体の中心部へと滑らせる。
「ぅうう‥‥うっ、うわわ!」
 前戯にはちゃんと反応している、と思いたい。声に色気が欠けてはいるが、顔は赤く染まり、目を潤ませるのを確認しながら、ギンは着々とその体を征服していった。
 しかし一護の抵抗は弱まることはあってもやめられることはなかった。乱菊の名前をしきりに呼んで、こんなことはいけないとギンを諭す。だから誤解だと言っても一護は聞く耳持たないので、ここは心よりも体のほうから説得したほうが良さそうだと、都合のいい理論を持ち出した。
「えぇか、一護ちゃん」
 既にしっとり汗ばむ一護の全身に手を、そして舌を這わせながらギンは言った。
「ボクが想っとるんは君だけや」
「っう、うそだっ」
「嘘なんかと違う。ほら、こうして君のおっぱいに顔埋めて幸せ感じとるやろが」
 その幸せとやらを太腿辺りに擦り付けてやると、一護がふぎゃあと悲鳴を上げた。
「乱菊のあのでっかいおっぱいも魅力的やけどな、こうしたいとは思わん」
 一護のすべすべした真っ平らな胸に頬を寄せ、ときどき飾りにちょっかいを出す。一護はもう泣いて暴れて、挙げ句の果てには、ごめんなさい俺は不実な娘です、とあの世に渡った母親にまで謝る始末だった。
「ボクが乱菊に、こういうことしてるやって?」
 苦悶に寄せられる一護の眉間。そこに口付けて、そのまま体重をかける。素肌同士が擦れ合って、その凹凸の乏しい体にまるで少年を抱いている気がしたが、不安そうに見つめてくる一護の顔は可憐な少女のものだった。ギンは息を止めて一護に魅入った。
 いつもの凛々しい表情が、今は苛めないでと訴えている。頬を伝う涙は扇情的で美しく、この誘惑に抗える男がいるのだろうかと思わせる。十五才でこれだ、将来を想像して、ギンはぞくりとした感覚さえ覚えてしまう。
 美女ではない。全体的に女らしさの欠けた未成熟な子供だ。それなのにどうして目が離せないのか。
「‥‥‥ギン、駄目だ、‥‥乱菊が知ったら、きっと泣く、」
 まだ言うか。その涙は綺麗だが、乱菊の為に流しているのかと思うと腹が立つ。
 ギンは両手で一護の顔を包み込むと、額同士を当てさせた。
「もし乱菊が、ボクを好いとったとしても、今のボクは君に惚れとる。どうしたって君を抱きたい。君の中に入って君に包まれたいんや。嫌やて言ってもボクは聞かんからね。後で腹でも何でも切ったるから、今は許して。ボクに抱かれて」
 一護の涙がさらに溢れる。いやいやと首を振る一護を宥めすかして拝み倒して、君だけだと愛を囁く。必死になって誰かに縋る、そんな自分を無様だとは思わなかった。

 やがて外が白み始めた頃。
 泣いて疲れきった表情で、一護が頷いてくれた。

-Powered by HTML DWARF-