第三章

  一、嵐の前の静けさ  


 最近、めっきり寒くなってきた。
 城に来る前までは習慣となっていた乾布摩擦をそろそろ始めるべきかな、と一護に思わせるほどの冷え込みは城の奥深くにある寝所であっても変わりない。一護は温かい褥に未練を残しながらも、起きなければと眠りたい意志と争っていた。
 しかし起きようと体に力を入れたところで違和感に気がついた。誰かに首と腰をがっちりとホールドされていて身動きができない。
「‥‥‥んー‥‥、だれだ?」
 頭がまだぼうっとしていて、昨夜は誰と褥を共にしたのか思い出せない。当の本人が知れば激昂しそうなことを考えながら、一護は隣で眠る男の体にぺたぺたと手を当てて感触を確かめた。
「‥‥‥うらはらー?」
 この筋肉のつき方は浦原に違いない。そして嗅覚が目を覚まし、薬っぽい匂いを一護に知らせてきた。間違いない、浦原だ。
 昼夜逆転のこの男が、規則正しい生活を送るようになったのは最近のことだった。曰く、いつ一護のお呼びが掛かってもいいように、とのことらしい。研究三昧で体が疲れ、いざ本番というときにアレが役に立たなかったら大変でしょう、とどーでもいいことを言っていた。
「うらはらー‥‥おきろー‥‥」
 一護自身も起きているというにはいささか寝ぼけた声を発して、眠りこける浦原の肩を揺すった。しかし起きるどころか一護の体を抱き込むと、浦原はむにゃむにゃ言いながら顔に何度も口付けてきた。離そうと両手を胸に突っ張ってもびくともしない。研究ばかりで体はひょろひょろかと思いきや、結構がっしりとした体をしているから、一護の力では太刀打ちできない。そういえば、天才は見えないところで努力してるんです、と言ってしまっては意味ねーだろ的なことも言っていた。
「朝だぞー‥‥‥‥っん、んむ」
 ついには唇まで塞がれた。最初は抵抗を試みるものの、眠気と同じで一護は簡単に流されていった。それにこうして体をくっつけているのは温かいしと言い訳しながらも、次第に温かいどころか体が熱くなっていくのを感じていた。
 夢中になって口付けを交わしていると、襦袢の上から胸を揉まれて、一護の唇からはつい悩まし気な吐息が零れてしまう。一護の小さなそれをすっぽりと包み込んでしまう大きな男の手を捕まえて、やめろと力を込めても聞いてはくれない。それどころか襦袢の中に滑り込むと、直接素肌の上を手が這い回った。
「う、らはらっ、」
「‥‥‥んー‥‥‥んふふ」
 まだ寝てやがる。
 浦原は怪しい笑みを浮かべながらも真っ赤になった一護の頬に手を添えると、今度は深く唇を重ね合わせてきた。侵入してくる舌を拒みきれずに受け入れていると、今度は尻をまさぐられる。胸と同じで小さな一護の尻の形を確かめるように撫で回し、浦原はむふふと笑った。そうだ、こいつは尻フェチだった。
 朝っぱらから盛るな、と軽く舌を噛むと、逆に噛み返された。そして胸を弄る手が下腹部に下りる。うんと優しい動きで撫でられて、まるで次にする行動を許してくれと言っているみたいだった。
「はぁっ‥‥‥待てっ、待てっつーのに、あっ、あ‥‥‥‥あぁ?」
 おかしい。
 まず、頬。これで一つ。
 そして腹。これで二つ。
 最後に尻。これで三つ。
 こいつは手が三本もあるのか、凄いな。
 ‥‥‥‥んなわけない。
「あぁあ!?」
「うわっ、なに!?」
 寝ぼけと気持ち良さでぼうっとしていた頭が一気に覚醒した。それは浦原も同じだった。
 二人して驚き見つめ合い、何があったと目を見開いている。一護は恐る恐る浦原の手を確認した。
 頬と尻。そこに添えられているのは間違いなく浦原の手だった。もちろん三本なんてあるわけない。だとすると残りの一本は。
「あちゃー、起きてしもたか」
 背後から一護に悪戯をしていたのは、別の夫だった。朝っぱらから胡散臭い笑みを振りまいて、一護に挨拶なんてしてくる余裕っぷりだ。
「ギンっ、てめえいつからそこにいた!」
「昨日の夜からやん。覚えてない? 浦原はんと三人で仲良くしたやないか」
「っな‥‥!」
 いわゆる三つ巴。
 ショックだった。絶望したと言ってもいい。なんというふしだらなっ。
「‥‥‥うわぁああっ、俺もう生きていけねー!!」
 顔を覆って一護は褥に突っ伏した。そのときなぜか菩薩のように微笑む母親の顔が脳裏に浮かび、それがいっそう一護の絶望に拍車をかけた。
 浦原が大きな溜息をついて、一護の背中をさすってきた。
「嘘に決まってるでしょ。アタシが他の男と交えてするような男に見えますか」
「見えるっ!!」
「‥‥‥‥‥‥本当にしてやろうかしら」
「痛い!」
 ぎゅっと背中を抓られた。涙をぼろぼろと流しながらも顔を上げると、浦原が呆れた顔で一護の顔を襦袢の袖で拭ってくれた。
「市丸君。この子はまだ閨事には疎いんだから、そういう冗談はおやめなさい」
「いやー、まさか信じるとは思わんかったわ。初々しくて結構なこと」
 ただ一人ぽかんとしていた一護は、今のが嘘だとまだ理解できずにいた。ぐす、と鼻を啜ると、浦原に縋るような目を向けた。
「‥‥‥嘘?」
「嘘ですよ。昨日は二人で愛し合ったでしょ。忘れたの?」
 ちょん、と赤くなった鼻をつつかれて一護は赤面した。いつも必死で詳しくは覚えていられないが、昨日は確かにこの男と二人っきりで過ごしたのだ。
 大きな体でのしかかられて、最初は苦しくて最後はとても気持ち良かった。普段と違い、浦原の口調が男らしくなって、ときどき一人称がボクになって、一護のことを呼び捨てにする。それを知っているのは自分だけ。
「‥‥‥‥顔っ、洗ってくるっ」
 思い出した途端、そんな男の目の前にいることが非常に居たたまれなくなった。
 一護は逃げるようにして寝所を後にした。残された男達が、先ほどの一護の可愛らしさについて論じていることなど本人は知る由もなかった。













 眠い。
 昼になると陽射しのせいか、縁側は温かくなっていた。ここが城でなければ大の字になって日向ぼっこをしたいところだが、はしたないと言われるので一護は我慢した。
 けれども襲ってくる眠気にはどうにも負けそうだ。今朝はギンのせいでいらない疲労を負わされたから、駄目だ、もう寝る‥‥。
「一護ちゃん、また止まってるよ」
「‥‥‥っ、‥‥悪い。えぇと、どこまで読んだっけ」
「いいよ。じゃあ次は『若紫』」
 一護は欠伸を噛み殺すと目をこすった。そして乞われるがままに、手元の書物を読み始めた。
 一護が朗読する傍で、浮竹と京楽が耳を澄ませていた。今は一護の勉強の時間であり、二人は教師だった。ところどころ間違いを指摘されながらも読み終えると、一護はむむっと眉根を寄せた。
「なんだこいつ。変態か」
 男が幼女を見初める話である。普通の感覚で言えば到底受け入れ難い話だ。
「憧れるねえ‥‥」
 京楽のうっとりとした表情に、一護はうえ、と呻いた。曰く、男の浪漫であるらしい。
 先ほどから座ったまま何も喋らないもう一人の男に、京楽はにやにやしながら話を振った。
「だって人のことは言えないよねー」
「どういう意味だ?」
 京楽は笑みを深めると、もったいぶって中々言わなかった。一護は諦めて、今度は浮竹に視線を向けると、狼狽した目とぶつかった。
「っす、すいません!!」
「‥‥‥なんで謝るんだ」
 がばあっと土下座をした浮竹に、一護は唖然とした。耐えきれないとばかりに京楽が吹き出し、一護はますますもって意味が分からなかった。
「なんだ、何なんだ?」
 笑い転げる京楽を止めて事情を聞くと、君のせいだと言われた。
「だって僕らは変態なんでしょ? そりゃ傷つくよ」
 特に真面目な浮竹には、ぐさりときた言葉だろう。あーおかしい。
 そう言って京楽自身はちっとも傷ついていない素振りでなおも笑った。一護は、浮竹を変態だと思ったことは一度も無いのだが。
「だからなんで‥‥‥‥あ」
「一回りの壁は厚いよ、一護ちゃん」
 そう、一護と浮竹とは一回り程度歳が違う。京楽も然り。年齢差では次点に藍染、浦原、ギンと続く。
 けれど浮竹も京楽も年齢以上に若々しいし、世間一般で言ってもまだまだ青年の範疇だ。それほど気にすることは無いと思うのだが。
「変態で申し訳ないっ!!」
 しかし悩みは深刻らしい。思い詰めるタイプの浮竹にとって、変態はいけなかった。
「あー‥‥、今のは言葉の文ってやつだ。十四郎は変態なんかじゃないぞ。春水は変態だけどな」
 抗議の声が聞こえてきたが、一護は項垂れる浮竹を精一杯慰めた。夫達の中では一番優しいし、無茶を言わないし、嫌味も言わない。ときどき野生化することがあるが、一護にとっては本当に素晴らしい夫だ。
「‥‥‥本当ですか?」
「本当だ。俺が嘘吐いたことなんてあったか?」
「あります。俺が一番好きだと言ったくせに、貴方は‥‥‥っくぅ!」
「泣くなよっ! それはお前が無理矢理言わせたんだろーが! それに誰が一番好きとかそういうのは無しにしようぜって最初に言ったよな!?」
「でも一番に愛してほしいんですっ、歳食ってても!!」
 前言を撤回する。無茶は言うし、おそらく一番の激情型だ。京楽みたいにさらっと流せない男なのだ。
「別に歳なんて誰だって食うだろ。そんなに気にすんなよ。俺だって気にしてねえのに」
「じゃあ俺が白髪のお爺ちゃんになっても愛せますかっ」
「既に総白髪だろ。愛せるぞ、たぶん今とそんなに変わんねえだろうし」
 言った後で、今の言葉はどうかと思った。まるで浮竹が既に爺さんみたいな言い方だ。
 しかし、なぜか浮竹の熱烈な抱擁を受けた。ぎゅうぎゅう抱きしめられて、一護は絞られた雑巾の気持ちを味わうことができた。
「俺もですっ。例え一護様が俺を一番に愛してくれなくても!」
「根に持つなあ」
 京楽の呆れた声に一護も同意した。真面目なくせに、取り乱すと手に負えない。
 でも可愛いからいいか。普段が真面目なせいか、取り乱すとそのギャップも相まって可愛いのもまた事実。一護は白髪に頬を寄せると、甘い声で浮竹の名前を呼んだ。
「ねえ、僕のことは呼んでくれないのかい?」
 拗ねた声がしたと同時に、一護の体がさらに締め付けられた。
「僕の紫の上」
 後ろから頬ずりされ、髭がちくちくして痛かった。














 藍染、という男のことをどう表現しよう。
 まず外面はいい。最高にいい。しかしそれに騙されて嘗めてかかると、崖から突き落とされるような目に合わせられるので油断は禁物だ。
 では内面はどうだろう。それは実に複雑だと一護は言える。
「まず、陰険、陰湿、陰気。つまりは三陰だな。それから顔と感情とが一致してない。涼しい顔して滅茶苦茶怒ってるときがあるだろ。んで、動物に優しくない。ちびを苛めるな。あとは、結構子供っぽいな。自分じゃ自覚してないだろうけど、そんなことで怒るかフツー、ってことで怒ってる。でもそれを顔には出さない。それからくっつきたがり。寂しいのか? そういうところはちょっと可愛い。あ、ちなみに三陰てのは俺がたった今考えた言葉で」
「もういい」
「いててててっ!!」
 すべてを言う前に頬を抓られた。前にもこんなことがあったな。逆襲方法が幼稚だ。
 一護は下唇を突き出して不満を表すと、庭の小川にかけられた橋の欄干にもたれかかった。二人で庭を散策、なんて穏やかな時間は過ぎ去って、一護は剣呑な眼差しを藍染に向けた。
「なんだよ、私のことをどう思う? って聞いてきたから答えてやったんだろーが」
 それを抓るなんて子供っぽい。怒るかフツー、だ。
「聞きたかったのは、悪口なんかじゃない」
「悪口じゃねーよ。冷静な分析だ。それともあれか、好き好きー、とか言ったらいいのかよ」
「君は日に日に可愛さを失っている。自覚したほうがいい」
 こんな俺に誰がした!
 言ってやりたいが駄目だ。どうせ、君を変えた男というわけだ嬉しいよ、なんてことを棒読みで言うに違いない。最近ではおおよその言動が読めてきた一護は、懸命にも黙っていた。
「‥‥‥じゃあ、俺のことはどう思う?」
 一護が恐る恐る口を開いたとき、夕日が丁度山際に差し掛かるところだった。日没間際の光景は美しいと思ったが、それよりも気になったのは藍染の答えだ。一護はちらちらと隣を気にしたが、藍染は夕焼けを眺めているだけで、一護の問いに対して考えているような素振りではない。
 こっちは答えたのに、そっちはだんまりなんてずるいじゃないか。橋の上から小川を見下ろし、怒った顔の自分と目が合った。見てんじゃねーよ、と悪態吐いていると、一護の肩にそっと手が乗った。
「藍染?」
 夕日が眩しいのか目を細めていて、藍染の顔はまるで不機嫌そうに見えた。けれど一護の肩を引き寄せる腕は強引ではなく、あくまでも優しい。
 徐々に顔が近づいてきて、なんだこれは口付けか、やっちゃうのか、と一護の緊張が高まった。周囲には一見誰もいないように思えるが、夜一を初めとした御庭番衆が潜んでいる。誰もいないところでなら平気だが、さすがに外は恥ずかしい。
 そわそわ、きょろきょろ、口付けを迫る男を目の前にしたとは思えない一護の素振りに、藍染は大きく溜息をついた。そして一護の両頬に手を添えると、中心に向かって顔を潰してやった。
「うぶっ」
「まったく君という子は‥‥」
 雰囲気もへったくれも無い。
 溜息混じりにそう言われ、一護はひょっとこみたいな顔にされながらも何も言い返せなかった。
「お転婆で、猿みたいにあちこち駆け回る。誰にでも優しくて、邪険にできない。他人を心底憎んだことなんて無いだろう? 世間知らずで生意気、無鉄砲。見ているこちらが冷や汗をかく。ちょっと大人しくなったと思ったら、良からぬことを考えていて、次にはもうそこにはいない。怒られたら謝るどころか食ってかかる。そのくせ後で誰もいないところで謝ってきて、うんと甘えてくるね。あれは計算かい? だとしたら、君はかなりの悪女だよ」
「‥‥‥‥この三陰男」
 ぼそっと反論すると、笑みを浮かべた藍染がさらに一護の顔を押しつぶしてきた。
 やめろ、これ以上ブサイクになったらどうしてくれる。
 喚く一護の潰れた顔に、藍染は優しく口付けた。
「自分は面食いだと思っていたけれどね。‥‥うん、趣向が変わったらしい」
 素直に喜べないどころかここは怒るべきだろう。しかし藍染はなおも唇を重ね合わせてきて、一護の反論を封じてしまった。
 全身の力が抜けるような口付けに、欄干にもたれ掛かっているとはいっても一護の膝は今にも折れそうだった。支えてほしくて強請るように唇を押し付ければ、体がふわりを浮き上がり欄干の上に座らされた。
 夕日が沈み、辺りが暗くなっても二人は離れなかった。しかし遠くのほうで、あーゴホンっ、となんともわざとらしい咳が聞こえてきて、一護は悲鳴を上げそうになった。忘れていた、二人きりではなかったのだ。
 それなのに藍染はお構い無しに唇を重ねてくる。待て待てと体を突っ張ってみても、後ろは何も無くて下には川が流れているから、下手に抵抗すると落ちかねない。そうする間にも、ゲホゲホとかゴホゴホとか、もういい加減にやめて城にお戻り下さいという、御庭番達の無言の訴えが強まっていく。
「あい、あいぜんっ、」
 咳がぴたりと止まった。そうすると周囲は本当に静かだ、虫の鳴き声すら聞こえない。
「‥‥‥‥戻るぞ」
「続きは?」
 一護の腰に回った藍染の腕に、一護はどきりとした。ここではぐらかすと、川に突き落とされかねないと思うのは間違っているだろうか。
「今夜は特に冷えるからね。君と過ごせたらと思ったんだ」
 白い息を吐き出しながらそんなことを言われたら、たとえこれが演技五割強だと分かっていても、一護は嫌だとは言えなかった。

















 一護が城に来て、一年が経とうとしていた。
 春の足音が聞こえてくる時期だというのに、一護の表情は冴えなかった。決して良いとは言えない顔色に、傍で仕える乱菊は心配顔だ。
 膝の上では猫が無邪気にじゃれついている。まるで元気づけようとしているか、ときどき動きを止めて一護の様子を伺ってくる。賢い子だ、藍染は良い子を贈ってくれた。
 部屋を見渡せば、夫達からの贈り物がそこかしこに飾られていた。自分はきっと愛されているのだろう。最初は懐疑的だったが、今は信じることができる。
 一護は文机に向かい、上質の紙に何事かを書き留めた。
「乱菊」
 漆塗りの文箱に仕舞うと乱菊に渡した。
「本当に、よろしいんですか」
「いいも悪いも、こうするしかない。勝手に決めるなんて、って怒られそうだけどな」
 それだけ言うと、猫を乱菊に預けて下がらせた。姿の見えない夜一にも下がるように声を掛けて、一護は一人にさせてもらった。
 罪悪感に苛まれる。こうはなるまいと思っていた人間に自分がなってしまうんじゃないかと恐れてはいたが、それが現実のものになりそうだ。
 一護は崩れ落ちるように脇息にもたれ掛かると、重い溜息をついた。今日は夕餉を共にしようと夫達と約束していたが、うまく笑える自信が無い。
 鼻の奥がツンとした。しかしここで泣いてしまっては痕が残る。一護は唇を引き結ぶと、きつく目を閉じた。

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