第三章

  二、天女が舞い降りた  


 深夜、城門からひっそりと入城する一団があった。まるで身を隠すかのように足音を極力立てず、辺りの様子を伺いながら慎重に歩みを進めている。一団の中心には駕籠があり、それを守るようにして人々が移動していた。駕篭は地味な造りをしていたが、それに誰もが細心の注意を払っている。
 人目を避け、一団は人目の無い場所へと到着した。そのとき、深い闇の中を火が踊った。
 数人が息を呑むが、先頭に立って案内をしていた者は冷静に行動した。持っていた提灯を揺らし、合図を送る。二度、三度、人魂のように炎が揺らめき、それから間を置いて闇の中から人影が浮かび上がった。
「ご苦労様」
 若い女がまず声を掛けてきた。提灯のわずかな灯りに照らされた美貌に、駕篭に寄り添うようにして立っていた数人が目を丸く見開いて固まった。
「すぐにお休みいただけるよう、準備は整っております。さあ、こちらに」
 案内の者と二三、言葉を交わすと、女は美貌を緩め優雅に促した。そのときにこりと微笑まれて、惚けていた者も気を取り直す。
「着いたのか」
 駕篭の中から聞こえた声に、女が視線を向けた。そしてゆっくりと歩み寄ると、駕篭の前で膝を折った。
「松本乱菊と申します。上様に代わり、ご入城を歓迎いたします」
「歓迎? ‥‥‥どうだか」
 フン、と鼻で笑う気配に、しかし乱菊は笑みを崩さなかった。内心はぎょっとしていたけれど。
「まずはお体をお休め下さい。上様には明日、お目通りを‥‥‥日番谷、冬獅郎様」
「承知した」
 このガキャーと思いながらも、乱菊は最後まで優秀な人物を演じてみせたのだった。

















「なんでこんな格好しなきゃなんねーんだ!!」
 偶然部屋の前を通りかかった女中は、っきゃ、と声を上げて持っていた盆をひっくり返しそうになった。しかし誰の声かを知ると、まあ今日もお元気で結構でございますですこと、とプロ根性を見せて姿勢を正し、なに食わぬ顔で去っていった。
 そして部屋の中では、今日も元気で結構でございますな上様が、大変御立腹中だった。
「いつもの格好でいいだろっ、なのに何だこれは!?」
 五十畳はあろうかという広い部屋に敷き詰められた色とりどりの着物達(最高級品)。それも無造作に放り投げられているから、一護は片っ端から綺麗に折り畳んでいきたい衝動に駆られていた。
「だって上様が言ったんですよ? 第一印象は大事だよな〜って」
 一枚の着物を両手で広げて、一護の体に宛てがいながら乱菊が言った。そのすぐ側では、夜一と女性の御庭番衆数名が、簪を並べてああでもないこうでもないと議論している。
「それはっ! 言葉遣いとか立ち居振る舞いとか、そういうのを直すのであってっ、」
「じゃあそこに可憐なお姿も加えといてください」
「いらねえ!!」
「やはりこれにするとしよう!」
 突然立ち上がった夜一の手には、しゃらしゃら鳴る簪が掲げられていた。一護は口元をひくひくさせながら簪を睨みつけ、次には苦し紛れに笑った。
「残念だったな、夜一。俺のこの短髪にはどうしたって簪は差さらねえ。それともあれか、頭皮に刺そうってのか」
「昔、そういう暗殺法を得意とした仕事人がおったのう‥‥」
「キャー! 知ってます知ってますそれっ! なんでもすっごい美青年だったとかー!」
 食いつく乱菊に、一護はまったくついていけない。田舎育ちのせいか、城下の流行や噂には疎いのだ。
 しばらく物騒な仕事人の話が続いたので、これ幸いと逃げ出そうとした一護だったが、そうは問屋が下ろさなかった。
「お待ちを。簪はちゃーんと差せますから」
「‥‥‥仕事人は嫌だぞ」
 妙に嬉しそうな乱菊が、「じゃーん!」と大げさな効果音とともに取り出したそれを見て、一護はひっくり帰りそうになった。
「髢(かもじ)でーす。うふっ」
 可愛らしく言ったつもりだろうが、一護は失神寸前だった。目の前のオレンジ色の滝、いや長い髪に、言葉も無い。
「異国から金髪のを買い付けて、それを上様の御髪に似せて作り直したんです。ふぅ‥‥金と時間を浪費しましたわ」
「っど、どっからそんな金‥‥っ」
「‥‥‥思いやり予算?」
「どこの誰を思いやってんだよっ、また無駄遣いしやがって!!」
 財政難とは聞かないが、金は湯水のように溢れ出てくるものでもない。ましてや庶民の感覚フル装備の一護にしてみれば、城での日々の生活そのものが贅沢なのだ。髪の毛なんて放っておけば生えてくるものを、わざわざ買うなんて信じられないと思ってしまうのも仕方ない。
「無駄遣いって言いますけど、上様ってば私物が少な過ぎですよ。この着物や簪だって、大奥で眠ってたのを引っ張り出してきたんですから」
「だからっていくらなんでもこれは」
「少しくらい贅沢しとかないと、下から嘗められますよ。上が謙虚すぎると、庶民ってもんはつけ上がるんです」
 元第一線の庶民だった乱菊が言うのだから事実なのだろうが、そこまで言っちゃうか普通。
「普段の男らしい上様もそりゃー素敵です。そのままで勝負しても十分いけるっ! でもねえっ」
 乱菊の勢いに一護は完全に呑まれてしまっていた。勝敗は既に決していたが、乱菊の言い分は止まらない。
「たまにはお姫様みたいに着飾ってほしいんです! 男物のジミ〜な色合いじゃなくて、もっと女の子らしいカワユイ色の着物を着て、ばっちりお化粧して御髪を整えて城を練り歩いてほしい‥‥っ! そしてその後ろを「どうだ参ったか!」と優越感に浸りながら付き従いたい私達下々の気持ちを一護様は考えたことがありますか!?」
 最後は怒りになって一護を襲った。同時に御庭番から拍手が贈られた。
「でも、それでも嫌だと仰るんなら私はもう何も言いません。‥‥‥髢、無駄になるけど」
 一護が付けないんなら無用の長物。捨てちゃうしかないなーあーもったいないもったいない、という乱菊の大きな独り言に、一護は負けた。
「‥‥‥‥分かった。もったいないから、付ける‥‥」
 一護は思った。この城に、自分が口で勝てる人間は果たして存在するのだろうか、と。













「‥‥‥っふ。っふっふっふ」
 謁見の間に、不気味な忍び笑いが響いていた。それは次第に高笑いに変わっていく。
 耐えきれなくなった一護は、ついに注意した。
「‥‥乱菊。いい加減、その不気味な笑いはやめろ」
「あら。私、笑ってました?」
「気付いてないとは驚きだ」
 今さら優雅に笑ってみせても遅い。まるで勝者のような高笑いが部屋中に響いていたというのに。
 一護は苦しい腹回りを手で擦りながら、うぅ、と息を吐き出した。
「呼吸すらままならねえ‥‥」
「慣れですよ、慣れ。‥‥‥あぁんっ、それにしても素敵ですわ、上様」
 不気味な笑いの原因は、今の一護の格好にあった。
 乱菊がきらきらした目で全身を眺めてくるので、居心地の悪さに一護は身を捩って視線から逃れようとした。しかしその動作だけでも腹に帯が食い込んできて、気分が悪くなってしまう。
 吟味に吟味を重ねた着物の重ね着、そして帯。それらは一護を容赦なく締め付けてくる。打掛は後方に美しく広がっていて目にも楽しいが、歩けばこれがまた重い。
 そして極めつけは髢。長いそれを高く結い上げて簪が数本差し込まれている。重いし蒸れるし、一護の顔からは変な汗が出始めていた。
「あぁっ、上様っ、化粧が落ちちゃいますわっ」
「誰か、扇を!」
「いい。自分でやる」
 帯に差した扇子を取り出すと、一護はぱたぱたと扇ぎ始めた。化粧が激しく違和感だ。顔を掻き毟りたい。
 紅はなんだか粘つくし、白粉からは独特の匂いがする。一護の要望でどうにか薄くしてもらったのだが、初めての化粧は一護を精神的に疲弊させた。
「化粧も着物も何もかも脱ぎ捨てて、素っ裸になりてえな‥‥」
「最近、ご無沙汰ですものねえ」
 なんと下ネタで返された。一護の顔が瞬間的に熱く火照ったが、白粉のお陰で誤摩化すことに成功した。しかし周りから見れば、一護の動揺は明らかだ。
 夜になれば嫌でも裸にならざるをえない一護だが、今は独り寝が続いている。ぐっすり眠れて結構だ、と思っていたのは最初だけで、実は少しだけ寂しい。
 落ち込む一護を見て、乱菊が腹立ちまぎれに言い放った。
「一護様が気に病むことないですわ。拗ねて大奥に籠ってるアホ共が悪いんです。まったく、ガキじゃあるまいし」
 ね〜、と女達は頷き合う。謁見の間に集まる女達は誰もが重職に就いているが、今の姿はまるで井戸端に集まるオバちゃん達‥‥いや、それだと失礼なので道端でお喋りする町娘のようだと一護は思った。以前は能面みたいな顔をした女達しか周りにいなかったが、それが崩れて今では結構ずばずばものを言ってくる。嬉しいことには違いないが、ときどき一護では打ち返せないような際どい台詞を言われるので、それが困りものでもある。
「参られました」
 よく通る女の声でそう告げられた途端、会話がぴたりと止んだ。そして皆、きりりと顔を引き締め、重職に見合った威厳を醸し出す。
 一護はすっと顎を引き、前を見据えた。
 遠くのほうから微かに足音が聞こえてくる。初めての謁見に緊張で汗がぶり返してきそうだった。
「‥‥‥あーやべ、吐きそう」
 上様っ、と咎める視線があちこちから飛んでくる。一護は腹に力を入れて耐えることにした。

「日番谷冬獅郎様のお成りでございます」

 しゅる、と打掛が床を擦る音がした。謁見の間の入り口に視線が集中する。
 平伏する小柄な体。ゆっくりと顔を上げた瞬間、誰も彼もが声を失い、その姿に魅入った。
 一護は緊張も忘れ、優雅な所作でこちらに歩み寄ってくる相手に釘付けになった。溜息の出るような美人とはよく言うが、溜息すら出ないこともあるのだと知った。
 小柄な体格に見合った小さな顔。そこに目鼻が絶妙の位置で存在している。意志の強そうな目は碧色で、こんな目をした人間を一護は見たことがない。銀髪は短くしてあるが、さりげなく整えられている。髪の色に合わせた着物がまた趣味が良く、本来の魅力を存分に引き立てていた。
 あれは聞き間違いだったのだろうか。一護は瞬きを繰り返すと、側に侍る乱菊に視線で聞いた。
 女だったのか、と。
「正真正銘、男です」
 乱菊の小声に、一護は目を剥きそうになった。しかしそれを堪え、鉄面皮を貫いた。
「‥‥‥嘘だろ。すっげーぞ、アレ」
「すっげーですけど、男なんですっ」
 既に数度の謁見を済ませている乱菊が言うのだから、本当だろう。だがとてもじゃないが信じられない。目の前の少女、いや少年は、一護と同じように豪華に飾り付けられていて、どこからどうみてもお姫様だ。しかし同じとは言ってもその差は歴然、一護は自分の体を見下ろし、無性に恥ずかしくなった。
「一護様っ、」
 距離を置いて、少年が再び平伏して一護の言葉を待っている。乱菊に促され、一護は咳払いの後、静かに声を掛けた。
「よく来てくれた。面を上げよ」
 台本どおりに言葉を紡ぐ。舌を噛まないようにするので精一杯だった。
 そして先ほどよりもずっと近くで見る少年は、やはり美しかった。可愛い、というのが近いだろうが、それでは安直な表現に聞こえてしまう。少年には相応しくない。
「長旅、ご苦労だった。疲れは無いか?」
 労りの言葉に、少年は一度だけ頷いた。前髪がふわりと揺れて、それだけでも絵になった。
「用意した部屋はどうだった。なにか入り用の品があれば、言うといい」
 頷き、前髪が揺れる。その動作を繰り返すこと数回。一護は困ったように眉を寄せた。
 なにせこの少年、さっきから一言も喋ってくれない。シャイなのか。
「‥‥‥に、庭はどうだった。気に入るかと思って、桜の木を植えたんだが、」
「まだ冬にございます」
「っそ、そうだったな‥‥」
 やっと喋ってくれたと思ったら、間違いをつっこまれるという失態。少年の声は少し低くて、でもやはり女の子のようだった。
 一護は本格的に困ってしまった。会話が一向に弾まない。
 そうだ、この中途半端に開いた距離がいけないのだ。一護は思い立つと同時に腰を上げた。着物のせいでいつもよりも重量があったが、それを感じさせないように少年に歩み寄った。
 そして膝をつき、笑みを浮かべながら肩に手を置こうとしたときだった。

「触るな」

 今度はいっそう低く男らしい声だった。叩かれた手を宙で止めて、一護は呆気にとられた。
 まるで憎い相手を前にしたかのように、少年の眼差しが一護をきつく睨み据えている。
「何人もの男を狂わせてきたようだが、俺はそうはいかない。なにが将軍だ、ただの男誑しだろう」
 後方で荒々しく立ち上がる乱菊の気配がしたが、一護は振り返る余裕が無かった。
「‥‥‥冬獅郎?」
「気安いぞ。名を許した覚えはない」
 目には嫌悪の色が。一護は不思議な既視感を覚えた。
 知っている。どこかで見た、これはたしか‥‥。
「失礼する。どうせ名ばかりの正室だ、大人しくしておけばよいのだろう?」
 最後に皮肉を込めて言い放ち、冬獅郎は颯爽と謁見の間を去っていった。誰も止める者はいなかった。止められなかったというのが正しかった。
 静寂の中、ベキっ、と何かが折れるような音がした。
「クソガキー!!」
 乱菊が扇子をへし折っていた。般若の形相で壊れた扇子だったものを畳に叩き付けると、一護へと猛然と詰め寄った。
「あのガキっ、めろめろにさせてやりましょう!」
「‥‥‥‥‥は?」
「絶対っ、ぎゃふんと言わせてやるっ! 男誑しと言ったこと後悔させてやるー!!」
 両手を突き上げて鼻息荒く宣言する乱菊に、そーだそーだと周りからも声援が上がった。
 ただ一人、一護だけがまったく状況についていけなかった。

-Powered by HTML DWARF-