第三章

  三、まるで鏡  


「お早うっ、今日も良い天気だな!!」
 朝っぱらからの大音量に、庭木に止まっていた雀が一斉に飛び立っていった。甚だ迷惑な男の登場に、しかし冬獅郎は一瞥をくれるだけで何も言わなかった。縁側に腰掛けたまま、手元の書物に視線を落とす。
「何を読んでいるんだ? なんだか雅やかな装丁だなあ」
 冬獅郎が実家を離れる際に持ってきた書物を指して、男は気さくに話しかけてくる。しかしだんまりを決め込んだまま、冬獅郎は読書に集中した。隣ではいいとも言っていないのに男が座り、世間話を振ってくる。
「今日は朝から乾布摩擦をしたんだがな、くしゃみと同時に吐血してしまった」
 体の弱い男であるらしい。読書に没頭するも、冬獅郎の耳は男の言葉を拾っていた。次第に文字が頭に入らなくなってくることに苛々してくる。
 ここは冬獅郎の私室であるというのに、男は最初から遠慮というものがなかった。冬獅郎と十四郎、似ているなガハハ、と笑ってそれからは毎日のように訪ねてくる。出ていけと言ってもまるで堪えた様子も無く、翌日には親し気に声を掛けてくるから、冬獅郎はもう半ば諦めていた。
「早朝稽古はいいぞ。そうだ、日番谷も一緒にしないか?」
 毎日の鍛錬は怠っていないというのに体は病弱な男、名を浮竹といった。大奥に来て、最初に話しかけてきたのがこの男だった。
 正直、誰とも仲良くするつもりの無い冬獅郎だったが、この男は違うらしい。初日に訪ねてくると、案内と称して冬獅郎をあちこちに連れ回してくれた。もちろん感謝している、訳が無い。
 鬱陶しいこと甚だしい。俺はただ静かに読書したいんだ、邪魔しないでくれ。
 そう視線に乗せて、浮竹を睨みつけてやった。たいていの人間ならこれで怯んで退散してくれるのだが、浮竹は真逆の態度をとった。
「その鋭い眼差し‥‥‥そうかっ、俺と手合わせしたいんだな!」
「なんでそうなるっ!!」
 思わず書物を畳の上に叩き付け、冬獅郎は激昂した。この男、激しくズレている。
「なんだ、違うのか?」
「違う。もういいから出ていってくれ‥‥」
 疲れた。そして怒鳴ってしまった自分に内心で舌打ちした。
 武家の人間など歯牙にかけるな。取り乱すなんて真似をして、恥ずかしいと思え。
 ここでは徹底的に感情を殺し、ひっそりと生きていくと誓ったことを思い出し、冬獅郎は落ちた書物を拾うと再び読書を再開した。
 しかし、冬獅郎はまだ分かっていなかった。浮竹という男がどれほど空気の読めない男なのかということを。
「‥‥‥っハ! そうか、すまん‥‥‥」
 突然の謝罪に、冬獅郎の眉がぴくりと動いた。だが無視だ。
「俺としたことが失礼なことを言ってしまったな。公家の人間は箸より重いものは持てんのだったな」
 ‥‥‥無視しろ、無視。絶対に反応するな。おそらくこいつに悪意は無い、筈。
 冬獅郎のこめかみがぴくぴくと脈打ったが、理性の活躍により、どうにか怒りが収まりそうだ。
「それにこんなに可愛らしい顔に木刀で傷でも付けようものなら、一生恨まれそうだからな!」
 理性、崩壊。
「とっとと失せやがれっ!!」
 直後、浮竹の顔目がけて書物を投げつけてやった。














 右を向いても左を向いても、男、男、男。
 大奥という場所は本当に男しか存在しない。唯一の例外は、ただひとり。
 女が三人集まれば姦しいと言うが、男もそれに劣らないということを冬獅郎は知っている。私室を出て少し廊下を歩いただけで、男達の視線を感じた。好奇、値踏み、様々な意味の込められた視線の数々に、冬獅郎は無表情を保ちながらも居心地の悪さを感じていた。
 大奥には、来る前から良い印象は持ち合わせてはいなかった。たった一人の為に、数百人、多くて数千人の男を集めて詰め込むと言う趣味の悪さに、冬獅郎は吐き気を覚えていた。そこに放り込まれた自分の運の悪さは、おそらく生まれつきのものだろう。最初からここに送り出されることは、生まれる前からの決定事項だ。
 恨みに思った時期はもうとうの昔に過ぎ去った。今の冬獅郎にあるものは、冷えた感情だけだ。
 しかしそれが煮え立った瞬間が、つい最近あった。
 一護。この城の主。
 田舎育ちの猿みたいな女だと聞いていたが、実際に目にしたときは精錬された人間に見えた。そう思った自分に腹が立った。あの優しい眼差し、労る言葉、すべてが忌々しい。大層な化けの皮だと嘲ってやりたかった。
 五人の愛妾を既に持つ女。だらしない、どうしても母を思い出してしまう。
 二度と目にはしたくないと思う気持ちが叶ったのか、あれから一護が冬獅郎を訪ねてくることは無かった。
「ここか‥‥」
 私室を出て、向かった先は剣道場だった。浮竹に勧められたからではないが、これから竹刀を振るおうかと思っていた。体を動かさなければぶくぶく太り、身体だけでなく精神も堕落する。実家にいた頃から、鍛錬は毎日の日課だったから、ここ数日サボってしまった分を取り戻さなければならない。
 今の時間帯、側室達はそれぞれの趣味に没頭しているという。わざわざ汗を流しにくる輩はいるまい、そう考えて剣道場を訪れた。しかし扉に手を掛けようとしたとき、中から人の声がした。
「日番谷は、とても良い子です」
 浮竹だ。
 冬獅郎は扉に伸ばした手を引っ込めた。それにしてもなにが「良い子」だ。子供扱いしやがって、と内心悪態をついた。
「それにとても聡明だ、十三歳とは思えない。聡明すぎる、とも言えますが‥‥」
 話題の主役はこの自分。
 一体誰と話しているのだろうか。突然やってきた正室、話題にするには持ってこいの材料だろう。しかし本人のいないところで話をされるというのは気持ちのよい話ではない。このまま去るのが正解だと思ったが、踵を返した冬獅郎を、別の声が引き止めた。
「寂しい思いをしてるんじゃないか」
 瞬間、心の臓が凍り付いた気がした。それからやってくる熱。
 どうしてお前がここにいる。
「‥‥‥さあ、どうでしょうか。いつも一人でいるみたいですが」
「実家から人を連れてきたんだろ? そいつらはどうしたんだ」
「皆、帰らせたようです」
 そう、だから俺に近づいたのか。情報を引き出す為に。
 冬獅郎は拳を握りしめ、湧き上がる怒りをどうにか抑え込もうとしていた。
「そんな顔をしないでください。放っておけないのは俺も同じです。なんせ十四郎と冬獅郎ですから、‥‥こう、親近感というか」
 そういえば、と言って一護が笑い出す。和やかな空気の外で、冬獅郎は怒りでどうにかなりそうだった。
 人を馬鹿にするのも大概にしろ。誰も来たくて来たんじゃない。俺の人生は、こうして蔑ろにされる為にあるんじゃないんだ。
 一度は区切りをつけた怒りの筈なのに、変だ、どうしても抑えきれない。ここは、大奥は、人を狂わせる。
 頭に血が上り、二人の罪を暴くために道場へと踏み入るか、このまま何も聞かなかったことにして私室に逃げ帰るか、二つの道の一つを選ぼうとしたときだった。
「一護様‥‥」
 熱っぽい、浮竹の声がした。それから衣擦れの音が聞こえる。
 次第に上がる、二人の乱れた呼吸と微かな水音。それが何を意味するのかを、冬獅郎は知っていた。
 母と知らない男が寄り添い合い、そのとき聞こえた音と同じ。淫らで厭らしい音だ。
「じゅ、十四郎っ、待て、‥‥こんなところで?」
「そう、こんなところで。嫌ですか?」
 戸惑う一護の声が、徐々に甘さを含んでいく。気付けば冬獅郎は駆け出していた。
 逃げたのだ。













 あぁ、気持ち悪い。
 全身に鳥肌が立ち、冬獅郎は爪を立てて掻き毟った。あの音が耳から離れない。
「‥‥‥!?」
 足に何かが当たったと思った瞬間、体が浮き上がっていた。あ、と思う間もなく冬獅郎の小さな体は床に叩き付けられた。
「‥‥っく、そ、」
 泣き面に蜂とはこのことか。躓くなんてついてない。
 一体何に、と後方を振り返った冬獅郎は息を呑んだ。
「これは失礼。御台様」
 愛妾のひとり。名は思い出せない。自分と似た銀髪を揺らし、その男は床に這いつくばる冬獅郎を傲然と見下ろしていた。
「急に走ってくるもんやから、避けきれんかったわ。ワザとやないから堪忍してな」
 謝罪とは思えない言葉を吐き、男は無遠慮な視線で冬獅郎を上から下までじろじろと眺め回してきた。不躾なそれに冬獅郎は当然不快になる。すばやく立ち上がるとさっさと踵を返そうとした。
「ちょっと待ちぃな」
「‥‥‥‥何か用か」
 男は市丸ギンと名乗り、冬獅郎に近づいてきた。立ってみて分かったが、背の高い男だ。手足がひょろりとしていて針金みたいだと思ったが、隙の無さからおそらく着物の下は鍛え抜かれた体があるに違いない。
「ふぅん。間近で見ると、ほんと可愛らしいなぁ、君」
「‥‥‥喧嘩を売ってるのか」
「別にぃ。ただ思ったことを言うただけ。褒めてんねやで」
 男に対して可愛いは褒め言葉ではない。幼い頃から散々言われてきた言葉だが、何度聞いても許容できるものではない。自分の女顔は自覚しているが、同時に憎いのだ。それを褒められて、何が嬉しいものか。
「怒った顔も可憐やねえ。変な気、起こしてしまいそうや」
 ぎょっとして、冬獅郎は後じさった。直後にギンがけらけら笑う。からかわれたのだ。
「不愉快だっ、帰る!」
 今度こそ別れを告げて、冬獅郎は背を向けた。しかし、がくりと前につんのめる。突然、首の後ろに力が掛かり、次にはもう冬獅郎の体は壁に押し付けられていた。
「待て、とボクは言うたんや。行っていいとは言うとらんで」
「‥‥‥きさ、まっ、離せ、」
「ガキが、ボクに偉そうな口利くんやない。可愛い言うても所詮は男や、腹の立つこと」
 ギンの長い指が、冬獅郎の華奢な首をくるりと捕らえていた。このままへし折られるんじゃないか、冗談とは思えないギンの目が、冬獅郎にそう思わせる。
「どういうつもりでここに来たのかは知らんけど、噂はほんまなんか」
「‥‥っ、‥‥うわ、さ?」
 首にかかる指の力が増す。呻き声さえ絞め殺され、冬獅郎の体が痙攣した。
「公家の姫さんが、将軍殺しに来たってなあ。その話題で大奥は持ち切りや」
 冬獅郎の目が見開かれた。同時に首を解放される。冬獅郎は床に崩れ落ち、ひどく咳き込んだ。
「‥‥‥‥‥邪魔せんといてや、藍染はん」
「おいたが過ぎるぞ、ギン」
 落ち着いた声の男が、ギンの暴挙を止めた。冬獅郎は急に入り込んでくる空気に大きく体を上下させながらも、介入した男の顔を見ようとした。
「絞殺は誤摩化しがきかないだろう。死体を検分されたらすぐに発覚する」
「‥‥‥‥そういや、そうでしたなァ」
 けろりと言われた台詞に、冬獅郎はひゅっと息を呑んだ。その拍子にまた激しく咳き込み、涙まで浮かんでくる。
「先走りは君の悪い癖だ。ことを穏便に運ぶということを知らないのか」
「あんたに言われたないわ。隠れて物騒なことしてる人にはな」
 味方など、いる筈が無い。
 途切れそうになる意識を無理矢理つなぎ止め、冬獅郎は顔を上げた。茶色の髪の男が薄い笑みを浮かべて冬獅郎を見下ろしていた。その目はまったく笑っていない。
「初めまして、御台殿。私を御存知か?」
「‥‥‥‥藍染、」
 藍染はまるで出来の良い生徒を褒めるように、浮かべた笑みをさらに深めてみせた。しかし目は反比例して冷たくなっていく。
 冬獅郎はその目に捕らえられたまま、少しも逸らすことを許されなかった。冷や汗が頬を伝う。それを拭う余裕すら与えてくれない。
「根も葉も無い噂が飛び交っているようだ。御台殿においてはその心中お察しするよ」
 ギンもそうだったが、言葉と態度とがまったくもって相反している。浮竹は分かりやすい男だったが、この男は違う。底の見えない恐ろしさを感じる。
「人の噂も七十五日。なに、空気のように過ごしていれば、人はすぐに忘れるだろう」
 暗に出しゃばるなということか。最初からそのつもりだ。
 だが、気に食わない。どうして他人にそうまで言われなければならないのだ。恐ろしいと思う反面、生来の負けん気が顔を見せる。冬獅郎の険しい表情に、藍染の顔から笑みが消えた。
「言いたいことがあるようだ。是非とも聞きたいな」
 どうにか体を起こすと、冬獅郎は二人と対峙した。明確な身長差から、見下ろされるのは仕方が無い。それでも正面から視線を受けとめ、跳ね返す。
「‥‥‥来たくて、来たわけじゃない」
 膝が笑ってしまいそうだった。皮膚に食い込む爪の痛みさえも分からない。
 せめて声だけは震えてしまわないように、腹に力を込めた。
「だが来た以上、ここで生きていくと決めたんだ。噂なんか知るかっ、俺はしたいようにする、それだけだ。他人のお前らにあれこれ指図される謂れは無い‥‥っ!」
 精一杯の大見得を切る。藍染とギンにどう言い返されるか、拳をさらに強く握ることでそれに耐えようとした。
 しかし二人は互いに顔を見合わせ、視線で何かを伝え合っていた。少し呆気にとられた表情に見えるのは気のせいだろうか。
「驚いた」
 それだけ言って、二人はあっさりと去っていった。
 呆然と立ち尽くす冬獅郎に、二人が交わした言葉など聞こえる筈も無い。
 一護と似ていた、と言われたなんて、ずっと後に知ることだった。

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