第三章

  四、想うな、危険  


 夢を見ている。
 直感的にそう思ったのは、目の前に広がる光景が、今の住まいになった城のそれではなかったからだ。夢である筈なのに、冬獅郎の頭は妙にはっきりとしていた。
 知った屋敷の廊下を迷い無く進み、目指すは奥の間。目線がいつもよりも低い。体が小さくなっている。見下ろした己の手は、まるで紅葉のように稚かった。
 若君。
 誰かが自分をそう呼んだ。背後を振り返ると、乳母が立っていた。駆け寄ろうと踵を返すが、そのときまた人の声がした。
 母の声だ。結局はくるりと一回転すると、冬獅郎はやはり奥の間を目指した。なりません、若君。引き止めようとする乳母の手を避け、冬獅郎は廊下を走った。
 奥の間に辿り着き、母の名を呼んだ。滅多に訪れることのできない母の私室。ドキドキしたのを覚えている。
 あぁ、そうだ。これは夢であり、過去でもある。この後、何を目にしてしまうのか、自分は分かっている。行くな、見ないでくれ。そう叫んだ言葉は、虚しく響くだけだった。いつの間にか意識は体を離れ、冬獅郎の目の前には幼い子供が、自分がいた。
 ははうえ。
 甲高い声を上げながら、襖を一枚、また一枚と開けていく。幼い自分の後ろをただ付いていくことしかできない、無力な自分。
 最後の襖に、手がかかる。
 そして見てしまった。母と、父ではない男とが絡み合う様を。
 それは小さな両の眼にしっかりと焼き付いて、当時脆かった冬獅郎の心を粉々に打ち砕いた。二人が何をしているのか理解はできなかった筈なのに、恐ろしい何かに直面したかのように全身の震えが止まらなかった。
 美しいと思っていた母を、そのとき初めて醜いと思った。

















「どういうつもりなんだ」
 頭上から厳しい声が降り注ぎ、藍染は微睡みから意識を浮上させた。開けた視界には、声と同じく厳しく引き締められた一護の顔があった。どうしたの、と手を伸ばすも、すげなく避けられる。
 会話の途中で、眠りの世界へと引きずられてしまったらしい。けれど膝枕があんまりにも気持ち良くて、と言い訳するも、一護の表情は相変わらず厳しいものだった。
 さて、どうしたものかと藍染は思案する。謝ろうにも理由が分からないし、例えこちらが悪くとも謝るつもりの無い藍染は、一護の膝に後頭部を預けたまま、どうやってこのお姫様の機嫌を直そうかと賢すぎる頭を働かせていた。
 しかし、そうしているうちにもまた眠気が襲ってくる。縁側に近いこの場所は、ちょうど陽射しが差し掛かっていて、冬だというのに温かい。そしてなにより、一護の手が藍染の後ろから伸びて、なにか答えを求めるようにときどき胸を撫で擦ってくるのだ。変な気分になるよりも、むしろ気がほっと落ち着いた。
 やがて風に揺られる庭の木々のざわめきが、藍染に眠れと言った。
「寝るな!」
 ぱちん。
 頬を軽く打たれた藍染は、しばし無言に陥った。
 頭上ではやはり一護が不機嫌な形相でこちらを睨みつけている。
「‥‥‥君はいつから夫を殴るような暴君になったんだ」
「なんだよ、ちょっと叩いただけだろ」
 むっとして睨み合う二人の間に、冬らしく寒々しい風が吹き抜けていった。
 しばらく子供じみた言い合いが続いた。それなのに二人の体勢が変わらないのはおかしいと、どちらも気がついていない。膝枕する者とされる者、乱菊辺りが見ればこれは痴話喧嘩以外の何ものでもないと言うに違いない。
「‥‥くそっ、こんなことはどうでもいいんだった。俺が言いたいのは、冬獅郎のことだ」
「御台殿の?」
 藍染の眉間にはっきりと皺が寄った。冬獅郎を語る一護の表情が、一瞬にして労るそれへと変化したからだ。
 またどうでもいいのを気に掛けて、と一護が聞けば憤慨しそうなことを藍染は思った。
「お前、ギンに余計なこと言ったろ」
「なんのことかな?」
「冬獅郎が俺を殺しにきた刺客云々ってやつだよ。噂にまでなってんだぞ、何考えてんだバカ!」
「あながち間違ってはいないと思うけどね」
 一護の頬をするりと撫で、藍染は警告するように声を潜めて言った。
「相手は公家。遥か昔から反目し合っている間柄だ。輿入れと称して刺客を送り込むのは珍しくもない。それがたおやかな姫君の姿をしていたとしてもね、小刀一本あれば君を簡単に殺せてしまうんだよ」
「冬獅郎は違う、まだほんの子供だ」
「言っただろう、姿に惑わされてはいけない。確かに子供だが、美姫には違いないだろう? それを本人もよく分かっていて、利用する筈だ。視線一つ、仕草一つで、相手を意のままに操る術を知っているんだ。いつか武家の女を惑わし殺す為に、よく調教された手合だよ」
「‥‥‥‥よせ。悪趣味だ」
「冗談だとでも? だから君は甘いというんだ」
 呆れたように息を吐いて、藍染は目を瞑った。一護の困惑した視線を感じるが、しばらくは口を利いてやらなかった。
 自分に向けられる好意は疑うくせに、他人を信じて馬鹿を見ることが多い。世の中甘いものではないのだと、いつになったら理解してくれるのか。
「‥‥‥拗ねるなよ、」
 沈黙に堪り兼ねたのか、一護の声音がどこか優しくなった。藍染の顎のラインを指でなぞり、唇に辿り着く。
「冬獅郎のこと、気に掛けてほしかっただけなんだ」
 藍染の薄い唇を指が滑る。入ってくるかと思いきや、頬へと逸れた。焦らしているのか、誰だこんなことを一護に教えたのは。
「十四郎から聞いた話じゃ、いつも一人でいるんだそうだ。だからそれとなく‥‥‥な? 俺の言ってること、分かるだろ」
 一護の声音がまた優しくなった。藍染が目を開くと、すぐそこに一護の顔があった。少し伏せた睫毛が目元に影を作っていて、一護をどこか儚気に見せていた。
「どうしてそこまで気にかけるのか、当ててみようか?」
 言った途端、一護の指が離れていった。
「‥‥‥‥言わなくていい」
「かつての自分と重ね合わせているんだろう。彼の気持ちが、手に取るように分かる?」
「そういうんじゃ、」
 一護が目を逸らす。図星だと言っているようなものだ。
 藍染は黙って一護の手を取ると、唇に寄せた。
「同じ人間が二人といないように、同じ気持ちもまた存在しない。生きてきた過程も、感じてきた瞬間も違うのだから、自分と同じ誰かがいるのだと期待はしても、自惚れてはいけないよ」
 手の甲を擦り、ふっと息を吹きかけた。力の入った一護の手を解すように。
「君はまだ、彼のことを何も知らない。同じ気持ちだと思っては、あまりにも彼に失礼だ。それは理解じゃない、同情って言うんだよ」
 息を呑む一護の体の震えを感じながらも、藍染は手指を弄びながら言った。
「なにも同情することが悪いとは言ってないけれどね、でもそういうものは信頼する者同士において成り立つものだと私は思っている」
 段々と一護が項垂れていくのが分かる。叱られて落ち込んでしまった子供のようになってしまった一護に、藍染はくすりと笑った。
「私は私なりに、彼を気に掛けている。だから一人で抱え込まないで、こうして話してほしい」
 指先に軽く唇を押し当てて、滅多に出さない優しい声音で囁いた。しかし藍染の頭は畳の上にそっとだが下ろされてしまう。
 本格的に臍を曲げてしまったのだろうか。しかし、それは違った。
「藍染、」
 不意に翳る視界。一護の顔が近づいてきて、そのまま重なった。
 掠めるような軽い口付け。一護はその一度だけを藍染に与えると、胸の上に突っ伏した。
「嬉しい‥‥」 
 オレンジ髪から覗く耳が赤く色づいていた。それを戯れに指で引っぱりながら、藍染は大きく息をついた。
 彼をこのまま城に留めておいて良いものか、正直考えあぐねている。追い出すのは簡単だが、一護が納得しない。今言った通り、監視を続ける、いや気に掛けるのが良策だろうか。
 しかし、不安が拭えない。正室を迎えると聞いたときから、胸に渦巻く一抹の不安が徐々に膨らみ始めている。この不安がやがて何になるのかを、藍染は知っていた。
 一護と冬獅郎。二人は驚くほどその性質が似通っていた。だから惹かれ合うことがあっても、不思議なことではないのだ。
 けれど彼に対して傾ける気持ちが、我々に向けるそれよりも大きく、深くなってしまったときは。
 そう、一護がたった一人を選んでしまうようなことになったとしたら。
「‥‥‥藍染っ」
 苦し気な一護の声に、藍染ははっとした。同時に腕の力が緩まる。気付かぬうちに、一護の体を締め上げていた。
「‥‥‥‥すまない。考え事をしていた」
「俺を殺しそうになるほど、何を考えてたったいうんだ」
 怒りながらも冗談めいて言う一護に、しかし藍染は苦笑を保つのがやっとだった。
 殺しそうになるほど。心臓に悪い言葉だ。現実感が伴わない、そうだろう?
 己に何度も言い聞かせ、藍染は一護の腰にもう一度腕を回した。今度は痛くないように、絶妙の力加減で。
 陽が傾き、二人のいる場所が日陰に入っていた。ぴたりと体を寄せ合って、ときおり唇を触れ合わせるだけの時間が過ぎる。
 一護の重みに安らぎを感じながら、拭い難い不安が藍染の心を締め付けていた。

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