第三章

  五、秘密  


「風邪かなー‥‥」
 と呟いた直後に一護は周囲を見回した。
 よかった、誰もいない。
 以前、風邪だと思って放置していたらあわや毒死、という事件があってからは、一護が少しでも体の不調を訴えると周りの人間が騒ぎ出すのだ。幸い、一護の呟きは誰の耳にも入らなかった。
 少しぼうっとする頭を傾げ、一護は城壁の近くに身を潜ませていた。警護の隠密は既に撒き、今頃は血眼で探しているに違いない。見つかる前に行動を起こすべく、あらかじめ用意していた荷物を手に、一護は人目を盗んで走り出した。
 目当ての場所に着くと、念のため木の後ろに隠れ、持ってきた風呂敷包みを広げて着替え始める。
 しばらくして出てきたのは、武家の少年。育ちの良さそうな、とまでは言い難いが、質素な袴姿が瑞々しい。
 普段、腰に差している業物は抜き、布に包んで脱いだ着物と一緒に植え込みに隠した。代わりに二束三文で購入した刀を腰紐に差し入れ、念のため護身用の小刀は懐に収めたままにする。そしてこれまた質素な羽織に腕を通して、ようやく出来上がり。
 出仕する女の親族という顔をして、一護は大門から堂々と城を出ていった。
 ひょこひょこと動く橙色の頭を見下ろす人物が二人いた。大門近くの松の木に身を寄せ、やれやれと肩を竦めて一護を見送った。
「行ったか」
「はい。‥‥‥あの、本当によろしいのですか」
「よい。警護はちゃんとつけてある」
 変装した隠密数人が、他人の顔で一護の後をついていく姿が夜一達のいる場所から見ることができた。一応人目を気にしているのか、一護は落ち着き無く周囲を見渡していたが、撒いたと思った隠密が自分にぴったりと張り付いていることにはまったく気付いていない。
 城にいるときよりも、一護の表情はずっといきいきしていた。将軍という大層な身分も何も無い、ただの子供に見える。まったくの無防備なその姿に、夜一は溜息とは違う大きな吐息を零した。
「砕蜂、我々も行くぞ」
「はい」
 二人の忍は風の音とともに消え去った。



 城下町に来たのはこれで三度目。
 まず驚いたのが人の数。生まれ育った土地とまるで違う。活気があって、店へと呼び込む声がひっきりなしに聞こえてくる。それにいちいち応えてみせる一護の姿に、隠密達が苦笑いしているとは知る由もない。
 町の人間は、まさか一護が将軍だとは思っていなかった。どこか田舎から出てきた若者として認識し、微笑ましいと言わんばかりの視線を送っている。立ち止まり、どこに行こうかときょろきょろしている一護に、親切にも神社に出店があることを教えてくれた。
 軽い足取りで神社へと向かうと、想像よりもずっと賑やかな光景に遭遇した。まるで祭みたいだ。一年に数度しか行われないそれが、毎日のように開かれていることに一護は素直に驚いた。お上りさんよろしく手当り次第に出店に顔を突っ込んだ。
 金は決して多くはないが持っていた。故郷を離れる際に懐に忍ばせておいたものがいくらかある。将軍といっても自分が自由にできる金など無いに等しい。もし城の誰かが融通してくれたとしても、黄金色に輝くものを出されてしまいそうだ。間違っても出店で使えるわけがない。
 一護はふと立ち止まり、ひとつの風車を購入した。昔、家族と一緒に出かけた祭で父親が買ってくれたことを思い出しての、なんとなくの行動だった。
 ふうっと息を吹きかけると、当然からからと音を立てて回り出す。それがなんだか嬉しくて、一護は笑った。何度も何度も吹きかけながら、神社のお堂に近づいていく。入り口近くの喧噪とは異なり、そこは静寂に満ちていた。
 賽銭箱に銭を投げ入れると、重い鈴を鳴らした。そして手を合わせ、一護はしばらく祈った。
「熱心だな」
 隣に誰かが並び立ったことに気が付いたのは、声をかけられてからだった。驚いて隣を見ると、知った男が一護を見下ろしていた。
「け、」
 剣八。
 名を呼ぶ前に腕を引っ張られていた。固い体に鼻頭をぶつけ、抗議の視線を上に向けると今度は強い視線とぶつかった。眼光の鋭さに息を呑む。
 言葉を失う一護を連れて、剣八は歩き出した。来いとも行くぞとも言わず、まるでそうすることが当たり前のように、一護を伴い神社の出口を目指す。しかし、数歩と進まぬうちに立ちはだかる者達がいた。
「その方を離してもらおう」
 商人ふうの男もいれば、お茶屋で働いていそうな娘もいた。ありふれた格好をした者達の素性を一護は知っていた。驚いた視線を向けると、何も喋らないでと目配せされた。
「何だてめえら?」
「その方を離せ」
「ふん? おい一護、知ってるのか?」
「えっと、」
 一護が身分の高い武家の生まれだと思っている剣八は、彼らを家の者だと解釈したようだ。面白くなさそうな表情を浮かべ、一護の肩を馴れ馴れしく引き寄せた。それを挑発だととった隠密達は、一様に眉間に皺を寄せた。
「俺、帰んないと」
「あぁ? まだ会ったばかりだろうが」
 一護にぞんざいな口を利く男に我慢ならなくなった一人が、目にも留まらぬ早さで苦無を投げつけてきた。しかし剣八へと届く前に難なく叩き落とされる。ぎょっとしたのは一護だけではない。隠密達の空気が代わり、殺気を放った。
「帰してたまるかよ。まだてめえを最後まで抱いてねえ」
 一護が顔を赤くすると同時、隠密達が飛びかかってきた。一護はぽいと放り出され、そしてあっという間に。
「なんだよ、大したことねえな」
 立っていたのは剣八一人。
 苦痛に呻く隠密達へと駆け寄ることさえ忘れ、一護は唖然とした。夜一率いる精鋭達が、町の破落戸にあっさりとやられるなんて。
「嘘だろ、」
 並々ならない強さだとは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。目眩を感じ、一護はふらついた。
「おい、大丈夫か」
 足下の覚束ない一護を支え、剣八が顔を覗き込んでくる。こんなにも近くで視線が合わさるのは、あの夜以来。背中に触れる掌の固さが、初めて体を許した夜のことを否応にも一護に思い出させる。
「離せ」
 湧き上がったのは罪悪感。
 両手で男の体を押し返し、距離を取ろうとした。しかしびくともせず、むしろ背中は引き寄せられ、力強い腕の中へと囲われてしまう。
 剣八からは、汗の匂いがした。夫達が嗜むような香の匂いが懐かしいと思う反面、この匂いこそが自分に相応しいとも思った。
「剣八、離してくれ、」
「俺に会いにきたんじゃねえのか」
 驚いて顔を上げると同時に口を塞がれた。大きなそれに覆い被さられ、顎を固定されては逃げられない。角度を変えて何度も唇を吸われ、抵抗する一護を宥めるように背中を上下に撫でられた。粗野な外見に反して触れる動作は優しいことを、一護は二度目の邂逅で知っている。
 もう一度、この男に身を委ねたいという誘惑に駆られた。しかし、
「‥‥‥っ、ん、はぁ、あ」
 目眩が襲い、一護の体は傾ぐ。目の前が白く点滅して、血の気が引いていくのを感じた。
「一護? おいっ、」
 気持ち悪い。吐き気を覚え、一護は口元を押さえる。
 青ざめた顔を見て、剣八が軽く目を見開いた。
「孕んでるのか?」
 言葉の意味がしばらく理解できなかった。ようやく理解できたときには呆然となり、涙が頬を伝った。
「どうしよう」
「どうしようってお前、あークソっ、妊婦の扱いなんて知らねえぞ。おい、歩けるか?」
「無理だ、腰が、抜けた‥‥‥」
 ぐすっ、と鼻を啜り、どうしてか溢れてくる涙を袖で乱暴にぬぐい去った。けれど後から後から零れる涙に次第にしゃくり上げ、一護は声を上げて泣いた。
「どうしよっ、俺、俺、ほんとに? ‥‥ほんとにここに、いるのか?」
「俺が知るか。なんで泣いてんだよ」
「わか、分かんない、」
「京楽の子供か?」
「それも分かんねえよっ、」
 やけくそになって叫んで咳き込んでまた泣いて。相手が分からないと言う一護に呆気にとられる剣八がいるのを忘れ、子供みたいにわんわん泣いた。無意識に手を当てたお腹は相変わらずぺたんとしていて、中に赤ん坊がいるとは到底思えない。
「う、うぁ、どうしようっ、俺、そんなっ、」
 喜ばしいことだ。ずっと望まれていたことじゃないか。
 なのに、それなのに。
「生みたくねえのか?」
 剣八の言葉が一護を打ちのめした。涙がぴたりと止まり、代わりに喉元をひやりとしたものが通り過ぎていく。
「好きでもない男の子供かもしれねえって?」
「そんなことっ」
「ないってんなら、どうしてお前は泣く。普通なら目出度えことだろ。お前の事情はよく分からねえが、嬉しそうには見えねえな」
 一護は唇を噛んで俯いた。頬がやけに冷たく感じ、けれどもう涙が新たに頬を濡らすことはなかった。
「あの夜と同じ目をしてやがる」
 いまだ自力で立つことのできない一護を支え、剣八は苦笑にも似た笑みを浮かべた。
「孕んでなかったら持ち帰って俺のを仕込んでるところだ」
 笑えない冗談に不機嫌な表情で睨みつけるも、言い返す気力は残っていない。目眩は収まったが、倦怠感が体を支配していた。
 そのとき、剣八の顔から笑みが消えた。
「今日はここまでだな」
 一護の後ろに視線をやりながら、剣八が言った。振り返ってみると、簡素な着物を身に纏った夜一が立っていた。
「帰ろう」
「夜一、あの、俺、」
「説教は屋敷に戻ってからじゃ。乱菊も心配しておった。覚悟するのじゃな」
 剣八との会話を聞かれやしなかったかと、それだけが心配だった。夜一の元へと行く前に、剣八の耳へとそっと囁く。
「誰にも言わないで」
 剣八は無言で頷いた。ほっとした瞬間、一護の胸元に手が忍び込む。あっと声を上げる一護の後ろで、夜一が怒声を響かせた。
 剣八の手は何かを握って出てくると、それを一護の目の前に掲げてみせた。
「次に会うときまで、俺が預かっとく」
 風車。
 華奢なそれは、剣八の大きな手に収まってしまうとひどく小さく映って見えた。
「頼れる奴がいなくなったら、俺のところに来い。面倒見てやる」
 ありがとう、と。
 唇からは滑り落ちたが、決して頼ってはいけないと一護は心に決めていた。













「上様のばかぁあああ!!」
 城に帰った途端、一護はタックルまがいの抱擁を受けた。あまりの勢いに咄嗟に腹を庇ったが、誰も不審に思うことはなかった。
 乱菊の良い匂いに包まれながら、一護は素直に謝罪の言葉を口にした。
「んもうっ、一人だけ面白いことして! 今度からは私も連れてってくださいね!」
 怒っていたのはそこか。
 夜一率いる隠密一同、呆れた表情を浮かべた。
「ささっ、外は寒かったでしょう? 部屋を暖めてますからそちらにどうぞ」
 冷えた一護の頬を両手で包み、乱菊がにっこりと笑みを浮かべた。
 まるで母のようだと思ったら失礼だろうか。胸に顔を埋めて、思いきり甘えたい衝動に駆られた。
 言わなきゃ。
 言わなきゃいけないのに。
「乱菊、」
 唇が戦慄いた。
 どうしてだろう、自分でも答えが出ない。覚悟は決めた筈なのに、どうして。
「ごめん、」
「もう謝らないでください。ね?」
 その夜。大きな秘密を抱えたまま、一護は一睡もできなかった。

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