第三章

  六、鯉二人  


 一夜明けて、いい知れぬ不安が一護の胸に渦巻いていた。
 今朝はうまく笑えただろうか。誰にも不審に思われやしなかっただろうか。
 幾多の顔が浮かび、消えていった。どの顔も自分の嘘を見抜いている気がして恐ろしくなってくる。
 腹の秘密が、こんなにも重い。
「手が止まってるよ」
 耳元で声がして、同時に鋏を落としていた。目の前には不格好に生けられた花々が、一護の次の一手を静かに待っている。
 甘い香がした。そうだ、ここは大奥。
「気がそぞろだね。今日はもうお終いにする?」
「‥‥‥ごめん。最後までするよ」
 生け花をしてみたいと、京楽に教えを乞うたのは一護だった。その約束は今日果たされることになったが、あんなことがあると分かっていたなら決して持ちかけたりはしなかった。自室にこもり、延々考え込んでいた筈だ。
 内心の葛藤を表情の裏に押し隠し、一護は落ちた鋏を拾い上げようとした。しかし冷たい金属に触れる前に、上から大きく暖かな手が重なった。
 包み込んでくる手にどきりと肩を揺らし、一護は手の持ち主を見上げた。相変わらず派手な柄の着物が彼にはよく似合っている。存在自体が華やかだからか、決して負けていないところがすごい。こんな男が自分の夫なのだということに、今さらだが世の中間違ってると一護は思った。
「またぼんやりしてる」
 掬いとった一護の手に唇を寄せ、京楽が艶めかしい視線を投げ掛けてくる。自然と頬が熱くなるのを感じ、一護は俯いた。こんな子供に色仕掛けはやめてほしい。
「誰のことを考えていたの?」
 指の一本一本に唇を這わせながら、問いかける口調はどこか剣呑としていた。目が笑っていない。一護がそのことに気付いたとき、小指に痛みが走った。
「しるしだよ」
「‥‥‥‥しるし?」
「そう。僕のものだというしるし」
 いきなり何するんだと抗議する前に、今度は噛まれた小指に京楽の舌が這った。目が合うと微笑まれ、音を立てて吸われもした。小指の先から疼きを感じ、一護は全身に鳥肌を立てる。恥ずかしくて隠れてしまいたい衝動に駆られ、抗おうと腕を引っ張ってみたが、手首を掴む手に容赦はなかった。
「春水っ、もう、」
「切り取ってしまいたいなあ」
 小指の付け根にかりかりと歯を立てられ、まさか言葉の通りにしたいのだろうとは信じたくもない。一護の怯えを感じとったのか、京楽がゆっくりと小指から唇を離していった。
「彼に会ったのだって?」
「彼?」
「剣八君だよ。わざわざ城を抜け出して、彼に会いに行ってたの?」
 一護の顔が強ばったのは、夫以外の男と会った疾しさからではなかった。しかし京楽の目にどう映ったかといえば、彼が起こした行動でよく知れた。
「あ!」
 反転した視界に微笑む京楽の顔が映り込む。口内に捩じ込まれた舌の感触に遅れて気がつき、一護は息を詰まらせた。
「外に男を作るなんて悪い子だ」
「んっ、んんん」
「僕達だけじゃ満足できない? それとも最初の男が忘れられないのかな」
 口付けの合間に詰られ、責められる。普段、自分に甘い男が怒りに染まっているのを感じ、一護は抵抗をやめて大人しく受け入れた。もっとひどくしてほしいとさえ思ったのは、言えない秘密のせいかもしれない。
 言い訳もせず、ただ必死に口付けに応える一護に悋気を削がれたのか、京楽の唇はいつしか優しく変化していた。荒々しく貪った一護のそれをいつものように包み込んでは愛撫し、薄い体を指先で辿っていく。
 いたずらに乳房を弄ばれて、その巧みな動きに一護は息を弾ませた。着物の上から尖った頂を押しつぶされ、普段は出さない甘い悲鳴が口を衝いて出る。今が昼間だと理性が告げているけれど、男の愛撫に対抗できる筈もなく散々に翻弄されてしまった。
 仕置きが終わり、首筋に埋まる京楽の頭を抱え込みながら、一護は子供らしからぬ悩まし気な吐息を零した。
「ずるいよ」
「‥‥‥なにが?」
「無礼者とか、そこへ直れとかさ。君は誰よりも人の上に立つ人物なんだから、もっと横暴になってくれなきゃ。そうしたら僕も遠慮なく君を苛められるのに」
「俺はそんなに偉い人間じゃない」
 つい最近までは田舎を駆け回っていた子供だった。罷り間違って城に住んではいるが、根っこの部分は変わっていない。
 そう強く主張する一護の目元に口付けて、京楽は苦く笑った。
「変わらないのは君の美徳かな。でも、いつまでも故郷を懐かしむのはやめておくれよ」
「それくらい、」
 いいだろ、と反論する唇は優しく封じられた。
「ときどき、ひどく悲しそうな顔をしている君を見るよ。遠くを眺めて、帰りたいと思っているだろう? 言葉にしなくても分かるよ。愛しい人のことはね、この僕にはすべてお見通しなのさ」
 嘘。
 何にも知らないじゃないかと、言葉が喉までせり上がった。
 一護の表情を不満と取ったのか、京楽が哀れっぽく囁きかけてくる。
「剣八君にはもう会わないで。城から出るなとは言わないよ。けど僕ら以外の人間に肌を許すのは、もう金輪際認めない。君は僕達と歩むと決めたんだろう? だったらお願い、聞いてくれるよね」
「故郷にも帰るなって言うのか」
「僕達を捨てる気?」
 強い語気に一護は驚いた。またふんわりと重なってくる唇に反応できない。
「城を退いたら一緒に暮らそう。世代交代は何も寿命に限ったことではないのだから。跡継ぎを生んで、後はそれに任せてしまえばいい」
 その瞬間、一護の胸に去来したのは何だったのか。
 覆い被さる夫を押しのけ、一護は逃げるように部屋を飛び出していた。














 広い池を鯉が悠々と泳いでいた。
 彼らは自分が閉じ込められた存在だということに気付いているのだろうか。それとも気付かぬ幸せというものもあるのだろうか。
 取留めのないことを考えながら、冬獅郎は池の周りを散策していた。
 計算し尽くされた大奥の庭は、季節ごとに顔を変える。今は秋。紅葉を楽しみながら、自分もまた鯉の一人なのだと切なくなった。
 静寂が引き裂かれたのは、その直後。
 まろぶようにして池近くに駆け込んできた人間に反応して、水飛沫を上げて鯉が一斉に逃げていく。
 紅葉にも負けない目にも鮮やかな頭髪の人物を視界に収め、冬獅郎は露骨に表情を歪めてみせた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 呼吸を乱し、着物は崩れ、実に見苦しい。
 これが天下を支配する人間か。俺の運命を狂わせた者なのか。
 湧き上がる不快感が、冬獅郎の秀麗な顔を修羅にさせた。怒気を孕んだ視線で睨めつけ、即刻立ち去れという言葉が唇から発せられようとしていた。
「とう、しろう‥‥?」
 今気付いたと一護の目が見開かれる。いつもなら馴れ馴れしく声を掛けてくるくせに、今の一護は後退った。顔が血を失ったように悪い。そして、頬に走る涙の筋。
「どうした」
 自然と詰問する言葉が出ていた。それに自身で驚くよりも早く、一護の顔がくしゃりと歪む。
 冬獅郎から顔を背け、一護は嗚咽を食いしばるも漏れる声音は哀れを誘った。
「おい、」
「訊くな‥‥‥っ」
 何も訊くなと繰り返す。肩で息をして、涙は止めどない。
 まるで子供のように稚いその姿は、冬獅郎から憎悪を一時的にだが忘れさせた。一歩、自分から一護のいる場所へと踏み出したのは、今日が初めてのことだった。
「何があった」
「訊くなと、俺は言ってるんだ‥‥っ」
 冬獅郎が近づけば、一護が離れていく。走り去ろうとしないことに疑問を感じ、しかしそれができないのだと理解した。
 一護の嗚咽はひどくなるばかりだった。後退しながらも呼吸を荒げ、足下をふらつかせる。体勢を崩して地面に蹲り、一護は声も上げずに号泣した。
「どうした。何があった。言え。言わんとお前がここで馬鹿みたいに泣いていると人を呼んでくるぞ」
「やめろよ!」
「だったら大人しく吐け。人の散歩を邪魔したんだ。お前には話す義務がある」
 尊大に言い放つ冬獅郎に、一護は一瞬嗚咽を忘れ、しかしまたぼたぼたと涙を落とした。きつく袴を握りしめる一護の唇は、最初頑なに引き結ばれていた。けれどついには降参したのか、どこか投げやりに、そして悲し気に言った。
「気付いたんだ」
 何がと口を挟むことなく、冬獅郎は続きを促した。
「心のどこかじゃずっと前から分かってた。さっきようやくそれに気がついたんだ。俺が皆を受け入れた理由。覚悟を決めたふりをして、裏では皆を騙していたんだ」
「騙していた?」
「そうだ。理解したいと、分かり合いたいと嘯いて、‥‥‥将軍の勤めを果たすだと? っハ、お笑いだ。そんなの全部嘘だったんだよ」
 乱暴に涙を脱ぎ去り、一護は声を荒げてぶちまけた。
「子供が生まれれば、争いの種になる。一人を選べと言われなかったのは都合が良かった。全員と寝てしまえば誰の子か分からなくなるよな? くだらねえ大人どもの思惑に使われてたまるか、俺の子供だ、誰にも渡さない」
 一護の拳が地面を打った。冬獅郎は、知らず全身を小刻みに震えさせていた。
 喉が乾き、唾を呑み込むのに苦労した。一護を凝視し、乾いた声で訊いた。
「一人に寵を注がなかったのは、その為なのか?」
「どこの世界に子供に苦労させたいと思う親がいるってんだよ。周りに振り回されて、自分の意志を無視されてっ。誰が、誰がそんなところに、くそっ、」
「だが、そんな‥‥‥‥いや、待て。お前、こんな話をして、‥‥‥おいっ、まさか」
「そのまさかだよ、ちくしょう」
 また拳で地面を打って、一護はすんと鼻を啜った。
 身籠った。
 その事実に、間抜けにもあんぐりと口を開いて冬獅郎は固まった。
「もっと先のことだと思ってた。そうなりゃいいと思ってたんだ。できるだけ時間を稼いで、今よりずっと力をつけて、俺の子供は俺のものだと言えるまで、どうか俺に授けないでくれって、」
 いつだって祈っていたのかもしれない。
 複雑な表情を浮かべる一護の手は、腹の上にあった。
「あいつらがもっと嫌な奴らならよかった。俺を蔑ろにするような、ひどい奴らならよかった。なのにどいつもこいつも馬鹿ばっかりっ、お陰で情が移っちまったじゃねえか、こんなにも苦しいじゃねえかよ。あの中の誰かが父親なんだと思うと、前よりずっと憎い、ずっと好きだ」
 愛し気に腹を撫でた一護を見て、冬獅郎の体に衝撃が走った。
 あんなに憎んでいたのに、恨んでいたのに、このえも言われぬ感動は何だ。
 己の母を重ね合わせ、勝手に憎悪していた。しかし実際は違う。自分と同じように他人の思惑に翻弄され、それでも生きていこうとする一人の人間。
「誰にも言うなよ」
 呆然と立ち尽くす冬獅郎に、一護は秘密の共有を提案した。
 細めた目の向こうは深い悲しみと覚悟に彩られ、それを冬獅郎は何よりも美しく思った。

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