第三章

  七、さびしききはみ  


 ふとした瞬間に、一護の顔から表情が消えることに気がついた。
 何を考えているのか、誰を想っているのか。感情の読めない目は、どこか遠くを眺めていた。
 視線が合うと、にやりと不敵に笑われた。何事もなかったかのように空を見上げ、一護は欠伸をしている。どこかで鳥の声がすると、嬉しそうにその姿を探し出した。憂いも何もない、のどかな表情をしていた。
 誤摩化された気がした。しかしあまりにも自然で、そして触れないでと言われたような。それ以上は踏み込む気にはなれないから不思議だ。
 あけっぴろげで、一度心を許せば寛大なくせに、本当の気持ちは大事に大事に仕舞っておいて、誰にも見せたりはしないのかもしれない。表情が消えた瞬間、隠している気持ちをそっと覗いているのだろうか。
「冬獅郎?」
 寒いのかと聞かれ、冬獅郎は思わず頷いてしまった。思考にどっぷり嵌っていたせいで、次にはもう一護は散歩を切り上げ城に戻ろうと言っていた。
「冷やすといけないからな」
「それはこっちの台詞だ」
 昨年よりは暖かい気もするが、長時間いるとやはり体が冷えてくる。一護の言う通り、今日はもう切り上げたほうがいいだろう。
 手に持っていたすべての餌を池へと放り投げ、冬獅郎は軽く手を払った。先を争って餌に食いつく鯉達を眺めながら、一護の表情がまた消えていた。
「帰るぞ」
「うん」
 いつまでも眺めていそうな一護の手を引っ張り、城へと踵を返した。握った一護の手は指先までもが冷えていて、帰ったらすぐに熱い茶を飲ませてやろうと思った。
「なんか馴れてる気がする」
「何がだ」
「今、自然に手繋いだだろ」
「それがどうした」
「恋人がいたとか?」
 そういう意味か。
 冬獅郎はくだらんと息を吐き、首を否定に振った。
「幼馴染とこうしてよく手を繋いだことがあった。だが昔の話だ」
 別れの際まで泣いていた幼馴染の顔が脳裏に甦る。ついていくと言って聞かなくて、諦めさせるのに苦労した。手紙がたまに届くが、返したことは一度もない。
 あの泣き虫。元気にしているだろうか。
 郷愁に囚われそうになるも振り払い、隣を見ると、一護が妙にきらきらとした目を自分に注いでいた。
「何を期待している。お前が考えてるような仲じゃないぞ」
「っち。なーんだ」
「お前のほうこそどうなんだ。故郷に恋人はいなかったのか?」
「‥‥‥‥聞きたい?」
 思わせぶりな言い方だ。興味を惹かれなかったと言えば嘘になる。
 勝手に憎んできた一護の身の上は、理不尽極まりないものだった。家族と引き裂かれ、城へと一人放り込まれた子供。夫だと名乗る男が既に五人いて、一癖どころか人間的にどうなんだという輩達ばかり。最初は恐くて仕方なかったと、一護は笑って話してくれた。
 自分が最初から歯車の狂った人生であるならば、一護は突然に歯車を狂わされた人生を歩んでいる。何も知らず平和に生きてきた一護に、家のしがらみなど一切関係の無い恋人がいたとしても何ら不思議はない。
「残念! いねえんだな、これが」
 あっけらかんと言い放たれて、冬獅郎は「あ、そう」としか言いようがなかった。
「毎日近所の剣道場に通ってて、周りは男だらけだったのになあ」
「お前も男だと思われてたんじゃないのか」
 十分あり得る。今だって袴姿。凛々しいなんてものじゃない。周りを取り囲む女達の抵抗か、羽織だけは女物で、繊細な柄が一護は女の子ですよと必死に訴えかけていた。けれど全体的に地味だ。
「なるほど‥‥‥‥今の時期、向こうじゃ一年に一回、剣道場同士の抗争が勃発するんだ。俺って必ず駆り出されてたから、もしかしたらそうかもな」
 うんうんと頷く一護に呆れてものも言えない。そもそも抗争とはなんだ。町の剣道場はそんなに物騒なのか。
 やんごとない生まれの冬獅郎には、一護の話は到底理解できなかった。
「家は診療所をやってたっていうのは話したことあったっけ? お袋が美人でさ、よく怪我でも病気でもない奴がお袋見たさに来るんだ。そのたんびに親父がキレて、医者のくせに、抹殺したらぁーって町中追いかけ回して大変だったな」
 話は逸れて、一護は懐かしそうに昔話を披露した。
 冷たい一護の指先に体温が戻ってくる。冬獅郎は徐々に暖かくなる一護の手を繋ぎながら、黙って話を聞いていた。
「妹が二人いるんだけどな、あ、双子なんだ。でもあんまり似てねえんだよ。一人はお袋似かな、もう一人は親父に似てると思う。どっちも可愛いんだ」
「お前はどっちに似てるんだ」
 ふと感じた疑問を口にすれば、一護が虚をつかれたように押し黙った。しばらく考えるように無言が続き、やがてはぽつりと言った。
「‥‥‥‥お袋」
「そうか。ではお前も将来美人になるかもしれないな」
 思ったことをただ言っただけなのだが、一護の反応は凄まじいものだった。突然手を離したかと思うと、両手で顔を覆って真っ赤な顔で絶叫した。
「信じらんねえっ、なんでそういうことをさらっと言うんだ!? ここは普通、『美人な母親似? お前が? っハハン』と嘲笑うところだろうが!! それともお前、今のは皮肉ってやつかっ」
 照れ隠しなのは一目瞭然。からかったつもりのない冬獅郎は、真面目に受け答えした。
「なぜ笑う必要があるんだ。美しい母上に似ていると周りに言われたことがあるんだろう?」
「そっ、それは髪の色とかそういうのであってだなっ、てか似てるって言ってんのは親父だけだしっ、身内の贔屓目に決まってんだろっ」
「親が言うなら真実お前は似ているんだろう」
 普通なら。きっと普通の親子なら喜ぶべきことだ。それくらいこと、母に生き写しだと言われて嫌悪しか抱かない自分でも分かる。
 子は親に似る。良くも、悪くも。自分の場合は、外面だけに留まってむしろ幸いだったのかもしれない。
「あぁほんと恥ずかしい‥‥‥‥でも、ありがとな」
 抑えきれない口元の緩みが、一護の喜びを表していた。こちらまでもが嬉しくなって、冬獅郎は鷹揚に頷いてみせた。
 一護は故郷の思い出を絶えず語っていた。だがそれも庭の出口に差し掛かるまで。
「こういう話、皆嫌がるんだ」
 仕方ないと笑った一護の表情は、年齢に対して釣り合わない大人びたものだった。しかし、子供のように故郷を語っていた一護を、冬獅郎はもう知っている。
 幸せに育ったのだろう。仲睦まじい親の元、大事に育まれてきたのだろう。
 一護が羨ましくもあり、だからこそこんなところは相応しく無いと強く感じた。自由に空を飛んできた鳥を狭い籠に閉じ込めても、あとは弱って死んでいくだけだ。
 想像し、寒気がした。一護の火照った頬が、いつか白く凍える日が来るのだろうか。
 いや、そうはさせない。俺が護る。
 一護の手の温かさだけが、今は唯一の励みだった。













「お前、どういうつもりや」
 ついに来たかと妙に冷静でいられた自分に冬獅郎は内心驚いていた。
 あれほど脅かされたというのに、心は凪いでいる。何も怖くはなかった。
 正室の進路を邪魔するように廊下に立ちはだかる側室を、冬獅郎は静かに見上げた。
「どういうつもりとは?」
 真っすぐに視線を返すと、声を掛けたギンは不愉快そうに眉間に皺を刻んだ。
 細身の体には相変わらず隙がなく、放つ気配は不穏だった。冬獅郎は平然とした態度をとりつつも十分に警戒し、間合いを推し量っていた。
 つい、と相手が一歩近づいてくる。まだ大丈夫。静かな目を相手に向けた。
「一護になんて言うて近づいたんや。同情でも乞うたか?」
 嘲る口調は冬獅郎の耳をすり抜ける。特に苛立ちは感じなかった。
「なんか言うてみい」
「なんて言ったらお前達は満足するんだ?」
 ギンから視線をずらして言い放つ。そこにいるのは、最初から気付いていた。
 廊下の突き当たりで影が動く。顔を出したのはまたも側室の一人。へらへらと笑うその男は、寝癖のついた髪を掻き上げながら歩み寄ってくる。
「こんな格好で失礼。なんせさっき起きたところなんで」
 時刻は既に昼だ。
 だらしなく着物を崩した男の名前は浦原喜助。側室の一人一人の名前と性格を冬獅郎は把握していた。敵になるやもしれない男達のことだ。手抜かりは無い。
「市丸君、駄目っスよ。小さい子を苛めちゃ」
 ギンを諌めるも、その実冬獅郎を馬鹿にしていた。息をするように毒を吐き散らす男だ。悪気が無いと見せかけているから余計にタチが悪い。
「御台様は故郷から一人でお出になられたんっスから、優しくしてあげなきゃ。ね?」
 優しい言葉も優しい笑みも意味が無い。笑っていない目が冬獅郎を否定している。
 ふと思った。味方のいなかった一護も、こうして冷たい視線の中を生きてきたのだと。初めから愛されていた筈がない。
 幸せな生活を突然奪われた悲しみを、冬獅郎は知らない。けれど一護の隠した気持ちは、ここ数日で少しだけだが知ることができた。
 故郷への思いと葛藤を表には出さない者の気持ち。代わりに誰かに優しくして、生まれた暖かな感情で覆い隠している。吐き出してしまえば楽なのに、それができない。周りが許さないからだ。
 城に縛り付けて、己の為に一護を犠牲にしている。大奥が、男達が憎い。
「そうやって一護のことも憐れんでやったというわけか」
「なんですって?」
「一人寂しい俺を憐れんでくれるんだ、一護にはそれはもう同情してやったんだろう?」
「顔は可愛いくせに、可愛くない口を利きますね」
 浦原の顔から退廃的な笑みが消えた。親し気な態度が一瞬にして他者を見下すそれに変わる。
「俺こそが、お前達に問いたい。どういうつもりだ? 一護になんと言って近づいた? 寵を得て何を狙っているのか、是非とも聞きたいな」
 無言で伸びてくる浦原の手を冬獅郎は打ち払った。間合いを取り、男二人を蔑んだ目で見やった。
「同情ではないと口だけならいくらでも言える。何も知らない小娘相手、籠絡するのは簡単だとでも思ったか?」
「口を慎みなさい」
「慎むべきはお前達だ。先ほどから無礼極まりない。側室風情が」
 言い放った瞬間の男二人の顔ときたら。
 追い討ちをかけるように挑発的に笑ってみせると、ギンの手が振り上がった。
「よせっ、何をしている!」
 振り下ろされる前にギンの腕を掴んだのは浮竹だった。その後ろ、京楽、藍染と続いている。
 すべて揃ったか。どこぞの小姓が呼んできたのだろう、よくやってくれた。
「いちいち言う手間が省けたというものだ。よく聞け、お前達」
 池の鯉が愛おしいと一護は言った。同情だな、と優しく笑っていた。
 ぱくぱくと口を開いて餌を強請る鯉を、二人一緒に眺めて話をした。ときどき忍んで城を抜け出すこと。今度一緒に行ってみようと誘われた。そのまま逃げてしまえばいいのにと言ったら、何とも言えない表情を浮かべて視線を逸らす。つかの間の自由。余計に苦しくなるのは、本人が一番よく分かっているのだ。
 冬獅郎は、己の母の話を少しだけした。一護は慰めの言葉を口にせず、ただそうかとだけ頷いて。それからずっと鯉を眺めていた。
 色とりどりの美しい鯉達。死ねば水底に沈んで、誰にも気付かれず朽ちていく。
『せめてぷかりと浮かぶことができたなら幸いか』
 表情を消し去って呟いた一護の言葉を、冬獅郎は忘れない。
 お前達は何をしてきた。何を見てきたというんだ。愛しているなら逃がしてやれ。
 本音を呑み込み、言い放った。
「一護を慰めてきたお前達の働き、真に大儀であったな。だが所詮は側室。これからは立場を弁え、後ろに控えているがいい」
 冬獅郎の小柄な体に複数の殺気が突き刺さった。浮竹でさえも怒りの籠った視線を向けている。
 心地良い。望んだ結果となったことに、冬獅郎は満足感を覚えていた。

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