第三章
八、暗い殺意
一護がついに御台所に夜伽を命じた。
大奥ではその話題で持ち切りかと思いきや、むしろ静謐に満ちていた。いっそ不気味なほどに。
皆、息を潜めて何かに怯えていた。特に小姓達は、仕える主の私室に行くのを嫌がり、仕事を押し付け合う事態となっていた。
つい先日、機嫌を損ねたという理由で小姓の一人が大奥を追い出されたばかりだからである。その彼に落ち度は何もなく、ただ運がなかったとしか言いようがない。次は我が身と誰もが恐れていた。
不意に、派手な粉砕音が轟いた。
小姓達は一斉に身を竦ませた。様子を伺おうとする者は一人としていない。聞かなかったことにするのが良策だと互いに確認し合い、彼らはこれからを空気のように過ごすことを誓った。
そしてまたひとつ、激しい音がした。
「ギン、いい加減にしろ」
部屋の中は壮絶な様相を呈していた。花瓶も、掛け軸も、衝立ても、無事なものは一つとない。
騒ぎを聞きつけてやってきた藍染は、年若い男の癇癪に大きく溜息をついてみせた。
「気は済んだか?」
もう投げつけるものを見つけられず、ギンは余裕の無い視線を藍染に投げつけた。
一度感情が高ぶると手に負えない。そこらの犬なら引っ叩いて言うことを聞かせるところだが、この男の場合は増々手が付けられないことになる。藍染は部屋の隅に佇み、ただギンを観察した。
「ボクが、あんなガキに負けたっていうん?」
癇癪が落ち着いた頃、ギンが掠れた声で呟いた。藍染は無感動な瞳をわずかに細めるだけで、否とも応とも言わなかった。
近頃の一護と御台所の二人ときたら、険悪だった頃が嘘のように仲睦まじい。手を繋いで散歩をする様は兄妹だと笑ってしまえばいいものを、そうできない親密さがあるから側室達は面白くない。
御台所が発した生意気な宣言が問題ではなかった。一護だ。側室に対する態度がどこかよそよそしい。
週に一度の手習いは今まで通り行われてはいるが、夜伽の回数はめっきりと減った。あの子供を慮ってのこととは理解していても納得はできない。ついに感情が許せないと爆発したのは、御台所が閨に呼ばれた翌日のことだった。
「ボク、絶対許さへんよ。絶対、絶対許さんっ」
「勝手な真似はするな」
「藍染はんは悔しくないん!?」
激昂する姿は子供そのものだ。呆れるよりも、藍染は純粋に驚いていた。
こんなにもこの男は狂ってしまった。普通の男になってしまった。身も世も無く物に当たり散らすしか術を知らない脆弱な男に。
野心を持って大奥に上がってきた頃の姿は見る影もない。
「ことを起こしては己の立場を追い込むことになる。今は様子を」
「指銜えて見とけって言うんか! なにが総取締りやっ、あのガキが来る前に殺すくらいできひんかったんか!?」
「声を潜めろ。聞かれていい話じゃない」
藍染は部屋を奥へと進み、整えられた庭に面した露台に出た。ひやりとした空気が肺に入り込み、肌がぴんと張り詰める。寒さの増した今の時期、あの子供の体が心配になった。
「御台殿のことを、私は一切知らされていなかった。一護が我々に気を遣って黙っていたのだろう」
あの子が望んで正室を迎え入れたとは考えられない。側室五人で手一杯だった筈。
ただの五人ではない。少しずつ絆を深めてきた五人だ。醜い部分も何もかも、すべて曝け出して今に至った特別な間柄。
それは冷えた指先に息を吹きかけ、少しずつ温まっていく現象に似ていた。決して温かいだけではない。少しでも手を離せばすぐに冷えきってしまう。とても危うい関係であった。冷たい指先同士を絡ませ、互いに熱くなるまでどれほどの時間を要しただろう。
注意深く、大事に育んできた。気を抜けばするりと手を離して逃げてしまう一護を捕まえて、自分の存在を教え込んできた。物覚えの悪い子で、刻み込むのに苦労したが、あの薄く儚い体躯は今や我々のもの。
いや、私の。
「ギン」
喚いていたギンはいつの間にか大人しくなっていた。息を呑み、こちらを凝視している。
よいことだ。やっと静かになり、藍染は頷いてみせた。
「今は信じて待ちなさい。珍しい動物に気が夢中になっているだけだろう」
日番谷冬獅郎。
たしかに美しい少年だ。あの、細い首。
「いいね?」
「‥‥‥‥はぁい」
この手にちょうど回り切るほどの。
書道の手習いに、藍染はいつまでたっても現れなかった。
時刻を間違えたか。焦る一護の元に現れたのは見知った小姓。恭しく頭を下げ、主である藍染が書庫にいると一護に告げた。
「今日は来れないということか?」
「いえ、上様にお見せしたいものがあると。どうか書庫までご足労願いまする」
書道具を携えようかと迷ったが、今日これからはもう必要ないとのこと。小姓に案内されてついていった先は、重厚な扉に閉ざされた大奥秘蔵の書物が眠る場所だった。
細い腕で書庫の扉を押し開いた小姓は、燭台を一護に渡し、どうぞと入室を促した。中は薄暗く、空気は冷たかった。
「本当に藍染がいるのか?」
「先ほどからお待ちです」
よく教育の行き届いた小姓は無表情に肯定し、一護に再度入るよう告げた。
首を傾げつつも一護が書庫に足を踏み入れたその瞬間、背後で扉が閉ざされた。
「あっ、おい!?」
「申し訳ありませぬっ」
扉の向こう、悲痛な声がした。
何かの冗談だと思った。試しに扉を押してみるが、軋んだ音一つ立てやしない。混乱し、がむしゃらに扉を叩く。体当たりしてもびくともしない。閂を下ろされてしまったのだ。
「何しやがるっ、開けろっ、開けるんだ!」
「お許しくださいっ、ご命令通りにするしかなかったのですっ」
謝罪の言葉を繰り返し、やがて小姓の気配は消えた。遠くなる足音を聴きながら、一護はずるずると床にしゃがみ込んだ。
燭台の火が、ゆらりと揺れた。取り落とさなかったのか。自分でも驚いた。
「命令って、誰に‥‥?」
一人しかいない。一護はいまだ落ち着かない心臓の上に手をやり、そして腹の上に置いた。
密室となり、寒さがさらに増していた。出られない不安の比ではない焦りが一護にはあった。一護の長い不在に気付いた誰かが、いつかは助けにきてくれるだろう。しかしそれはいつだ。今は早く来てくれないと困る。
打掛を掻き合わせ、一護は燭台を強く握りしめた。元々それほど長くなった蝋燭が、徐々に短くなっていく。ここに長居するつもりは毛頭ない。
一護は意を決し、悪ふざけの主謀者を問いつめることにした。
「藍染、いるのか!?」
尖った声音に反応する気配は感じられなかった。本当にいるのかと一瞬疑ったが、燭台をかざして前へと進む。
大書庫は迷路のように入り組んでいた。長い歴史を凝縮したそこは、一護を惑わせる。同じような景色が長く続き、入り口さえも分からなくさせた。
「藍染っ、藍染、どこだっ、」
灯も無しにこの暗闇の中いるというのか。同じような蝋燭の光がどこにも見当たらなかった。
会えば一発殴ってやるという気概が、不安と焦りに変わる。
「藍染!!」
それは、背後に忍び寄っていた。
静かに一護の唇を掌で塞ぎ、胸へと抱き寄せる。
「‥‥‥‥っ、」
「おっと。燭台はこちらに」
藍染。
抗議しようと背後を振り返るその前に、蝋燭がジっという音とともに消えた。
何も見えない。本能的な恐怖に体が強張った。
「大丈夫。怖くないよ。私がいるだろう?」
優しい声音とともに両腕が絡みつく。どうしてだろう、いつもと何かが違うように感じた。
「あ、藍染、どういうつもりだ、」
「二人きりになりたかったからね。ちょっとした趣向を凝らしてみたのさ」
頤を捉えられ、振り向かされるのが分かった。しかし互いに顔の判別がきかないほどの暗闇だ。本当に目の前に藍染がいるのかも疑わしい。
「いつものところじゃ、いけなかったのか、」
「邪魔が入るかもしれないだろう? 幸いここには誰も来ない。歴史を学ぼうなんて殊勝な輩はね」
額辺りに吐息を感じた。かなり近い。存在を確かめようと胸板に手を置いたとき、唇に馴れ親しんだ感触が重なった。
冷たい。長くここにいたせいで、唇が氷のように冷えていた。趣向とやらにはまったく賛同できないが、哀れな気持ちが今は勝った。
互いの熱を共有し合うようにして始まった口付けは二人を夢中にさせた。藍染の言う趣向、暗闇による状況は一護を不安にさせ、より深く繋がろうと突き動かす。
しかし、不意に首筋を撫でた冷気に一護の動きが止まった。藍染を押し返し、気まずげに唇を押さえる。
「‥‥‥‥早く出よう」
男との触れ合いで体温は上がったが、体に良い場所ではなかったことを思い出したのだ。
「藍染、入り口に戻れるか? ‥‥‥藍染?」
まるでそこにはいないような静寂。触れている筈なのに、沈黙が一護にそう錯覚させた。
「御台殿を思い出したのかい?」
ようやくして口を開いた彼から飛び出したのは、そんな台詞だった。
「彼に悪いと思った? 褥の中で、私達とは距離を置くようにお願いされたかい?」
このとき、一護は暗闇であったことを感謝しなければならない。表情の判別ができるほどの明るさがあったのなら、今頃は恐怖に震え上がっていただろう。
無機質な声音を不審に思い、一護は頬を探し、両手を彷徨わせた。
「約束したのに。我々に、身も心も許すと、そう約束してくれたのに。分かり合いたいと言ったのは嘘だったのだね」
「それはっ、」
違うと言えなかった。腹の中の秘密。疾しい気持ちが、一護の口を噤ませる。
「あの子供に何を吹き込まれたのかは知らない。だがそれを鵜呑みにしてしまうほど、我々の絆は浅いものだったのかと思うと私は悲しいよ」
「そうじゃない、何も言われてなんかいないっ、冬獅郎は悪くなんかないっ、俺が」
「似た者同士、気が合ったのだろう。褥では君が慰めてやったのだろうね」
闇の中、一護は息を呑んだ。そして傷ついた。振り上げた拳は、しかしぶつかる前に封じられた。
まるで見えているかのような正確さで手首を掴まれ引き寄せられる。抗ったが、背中を派手に壁に打ちつけられ、一護は息を詰めた。
「懸念が現実となったか。君には失望したよ」
突き放した言葉に腹の底が冷える。身を強張らせる一護の首に、するりと指が回った。
「‥‥‥っ、あ」
何かを言おうとした一護の喉が、引き絞られるようにしてか弱く鳴いた。
まさかそんな、嘘だろ。
「苦しみの原因は、絶たねばならない」
だが、と続け。
「君が心を改めるならば、今、許そう。彼を大奥から追放するというのが条件だ」
一護は目を見開いた。その拍子に溜まっていた生理的な涙が頬を滑り、床にぽたりと落ちる。
「たった一人に心を傾けた罪を償うというのなら、この手を離してあげる。そう、これは取引だ。以前にも言ったね。この城で、君は生き延びなければならない。そのために必要なのは、彼ではない。この私だ」
ぎりり、と指に力が入った。
取引、いや違う。これは脅しだ。追放という生温い言葉の裏に、別の意味が隠されていることを一護は察した。
「それとも、目の前に突きつけられなければ君は分からないか? 分かりやすい犠牲を見せつけられなければ」
犠牲。
ーーーーー冬獅郎っ。
「あ、‥‥‥だ、め」
「聞こえない」
「んっ、は、はぁ‥‥‥‥よ、せ、‥‥やめ、ろ、」
「それは彼への愛?」
一護の唇が、魚のように開閉した。空気を求めて喘ぐ唇に優しい口付けが降り注ぐ。
もう自力では立ってはいられないほど、体から力が抜けていた。とめどなく零れ落ちる涙が一護の頬を流れていく。
「言うんだ。彼を追放すると」
ぎりぎりのところで指が力を抜いていた。しかし返答次第では即座に殺される。
本来は苛烈な性格だと一護は知っていた。この男は本気だ。
ここで死んだら腹の子はどうなる。父親は、目の前にいる男かもしれないというのに!
「‥‥‥‥俺は、」
「さあ、言うんだ」
「俺、はっ、」
守る、と。
そう彼は言った。
子供二人、何ができる。守ると真っすぐに言える彼をどこか諦めた気持ちで見やりながら、しかし同時に一護は羨ましくもあった。誰かを眩しく思ったのは初めてのことだった。
『諦めるな。いつか子供もお前もこの城から出してやる』
彼を見ているのが楽しかった。年が近いだけではない、境遇が似ているわけでもない。いつしか自分が失っていたもの。かつてこの城から出ていってやると息巻いていた昔の自分を思い出して、胸がどうしようもなく熱くなった。家族以外に大事なものなんてないと思っていたあの頃。変えたのは、夫達。
今が、不満なわけではない。目の前の現実を受け入れたのは確かだ。でも子供だけはその範疇にない。生まれた瞬間から決められた道を進めとは言いたくなかった。
「‥‥‥‥手を、離せ、藍染っ、」
腕に爪を立て、一護は命じた。ここで冬獅郎の命を差し出すことも、自分が死ぬことも許さない。
「俺に、お前を憎ませるな、」
「ーーーーそう」
指が緩む。しかし、
「それが君の答えか」
今度こそ本気の力が込められた。悲鳴さえも潰される。
「何も失いたくないとは贅沢なことだ。傲慢とも言える。私はここに来るまで、汚辱にまみれ、自らの手も血に汚してきたというのに」
膝が折れ、床に崩れる一護をなおも暴力が襲った。へし折る勢いで。
「もう君しかいないというのに、この汚い手を取ったのは君だけだというのに」
「あ、‥‥っあぃ、ぜ」
「捨てるくらいなら最初から手を伸ばさなければよかったんだ、ぬか喜びさせておいて、なんて、なんて残酷な」
頬に当たるのは、誰の涙だ。
ぱたぱたと落ちる、これは。
「一護‥‥‥?」
あぁ、やっぱり。
濡れている。この男が、泣いている。
暗闇で、不思議と藍染の顔がよく見えた。初めて見る頼りない表情。伸ばした手で頬に触れ、しかしすぐに床へと落ちる。
「一護‥‥‥」
呆然とした声を遠くで聞きながら、一護の意識は深い闇へと沈んでいった。