第三章

  九、秘して黙する男の誓い  


 珍しい、あの乱菊が泣いている。
 一護は霞む思考の中で、ぼんやりとそう思った。
 喉が痛い。何か喋ろうとして、けれど咳き込むことしかできなかった。乱菊の嗚咽がまた激しくなった。
 再び瞼が落ちる。とにかく、眠たくて仕方なかった。













「いいザマじゃ」
 ろくな照明のない回廊から、蝋燭のゆらぎと共に人影が現れた。藍染は座禅を組んだ状態で顔を上げ、闇の中、笑った。
「こんなところまでご苦労なことだね」
 夜一には余裕の表情を浮かべる藍染が想像できた。舌打ちは抑えたものの、握りしめた拳が戦慄いた。
「かつて大奥で栄華を誇った人間が、今は牢の中。どういう気分か聞かせてほしいものじゃの」
「中々快適だよ。余計な肉が落ちた」
「ついでに命も落としてくれると我々の手間も省けるというものじゃがの」
「食事も寝具も揃っている。それで死ねとは随分甘い待遇だ」
「汚らしい牢で死ぬのも貴様に相応しいが、喜べ、ちゃんとした場を用意してある。それまで惨めに生きているがいい」
 怒りの噴出した夜一の言様に、藍染は微笑を浮かべた。暗闇の中、誰にも見られていない今、藍染は驚くほど穏やかな表情をしていた。襤褸を着せられ、粗末な食事を振る舞われても、少しも屈辱と思っていない。美しい着物に袖を通していた頃よりもずっと己の頭が冴え渡っているのを感じていた。
「馬鹿な男じゃ」
「馬鹿ではない男などいないよ」
「では貴様は、中でも抜きん出た馬鹿じゃな。なぜ、上様に、一護に手をかけた」
「あまりに言うことをきかないから、痛めつけてやっただけだよ」
 平然とそう答えると、夜一の形をした影が一瞬震えた。苦無の一つでも飛んでくるかと思ったが、それはなかった。
「あの子は自我を持ち過ぎていた。己というものを持っている人間に、将軍の座は相応しくない。世を動かすのは頂点に立つものではなく、その周りにいる者達だ」
 悠然と語る藍染の姿勢は崩れなかった。修行僧にも似た心境で、長く同じ体勢でそこにいた。いつ眠ったのかも、いつ目覚めたのかも、この数日定かではない。
 夜一はしばらく黙り込んでいた。藍染は言いたいことだけを言うと、また静かに両手を組んだ。
「‥‥‥‥それでも、そうだとしても、儂はあの子がいい。死人のような将軍よりも、人間らしい温かみのあるあの子のほうが。知っているか、藍染。あの子が来てから城は変わったのじゃ。笑わなかった女が笑った。一護を助けようと、反目し合っていた者同士が手をとった。想像できるか、藍染。以前とはもう違うのじゃ」
「そう、女はね。変わっただろうさ」
 皮肉に満ちた声音が出た。
「けれど我々男は違う。相変わらず、将軍に、女に縋らなければならない。媚を売って、尻尾を振って、自尊心さえ捨て去って。‥‥‥‥何も、何も変わらないんだよ。上がどれほど変化しようと、我々男は這いずり回って生きていくしかない」
 女が絶対的な権力を有するこの世界では、そうあることが当然の理なのである。大昔から変わらない事実。
 それを覆したくて、のし上がってきた。平民の出自であったが、才覚と知略でここまで、一護のもとまでやってきたのだ。
 頭の悪い子供だと侮っていた。これなら簡単に操れるとも。
 だが違った。自信も策略も何も通用しない相手だった。自分よりも上手だとか、そういう理屈ではない。平凡で、どこにでもいるような人間。けれど逆境に負けないしぶとさを持っていた。特別なことではない。ただ何かを守りたい一心でのことだろう。
 そんな一護から徐々に逃げ道を奪い城に縫い止めて、そう、結局は縋って引き止めたのは己の意志だ。手放したくなった。理屈も損得も何もなかった。それすらくだらなく思えるもっと大事な何かの為に、自分は。
「愛していたのではなかったのか?」
 藍染は格子の向こうを見た。夜一の表情は相変わらず見えなかったが、それは相手も同じ。本音の吐き出しやすくなった状況で、二人は対峙していた。
「一護を、愛していたのではなかったのか?」
「君にはそう見えたのかい?」
「分からぬ。だが、そうでなければ説明がつかぬ」
 嫉妬に駆られた末に。
 藍染は細い息を吐き出した。
 こう言えば信じてもらえるだろうか。ほんの脅しのつもりだったと。わずかな本気を垣間見せて、一護を怖がらせて終いにするつもりだったと。
 けれど、自分の思惑や予測など、一護を前にすれば何ら意味を持たなかった。気付けば頭に血が上っていて。そう、失態。
「不思議な子供だ。馬鹿で頑固で痛々しいほどの一途。私から見れば無価値の集大成だ。それなのに、いつのまにか私のほうが振り回されている」
 いつしか根比べを楽しんでいて、負けずに向かってくる一護を見るのが楽しみになっていた。子供っぽい言い合いさえ享受していた。
 不意に会話の途切れる瞬間が、好きになった。視線を下ろせば一護が居心地悪そうに、けれど何かを期待して頬を赤らめているのが見えたから。
 気付けば、どこにでもいるような人間に成り下がっていた。それでもいいかと思えるほどに絆されていた。
 なんてザマだと藍染は自嘲した。籠絡するつもりが、罠にかかったのは自分のほうとは。
 冷たい牢が、己の終着点か。
 ある意味相応しいとも言えた。
「野心を捨てきれなかったことが貴様の敗因か」
 いいや、野心などとっくの昔に忘れ去っていたさ。
 そんなものは、はなから無意味だった。
「もういいだろう? 終わりにしよう」
 久し振りにした会話のせいで、喉が乾き、ひどく粘ついていた。寒さが身に堪え、藍染は深い溜息をつく。
 暗やみの中、組んだ己の両手を見下ろした。一護の首。細かった。細くて儚くて、
「‥‥‥‥あの子の、容態は?」
「知りたいか? 知ってどうする」
「‥‥‥‥そうだね。知ったところでどうしようもない」
 もうこの腕に抱くことも、褥で交わることもない。
 眩しいばかりの一護との思い出が胸に去来して、藍染は肩を揺らして発作的に笑った。狂ったように笑った。
「藍染、」
 憐れんだ夜一の声音が己をさらに惨めなものとさせた。何か言われた気がしたが、それを理解するには、また受け入れるには長い時間が必要となった。
 鳴り止まない哄笑の中、牢へと近づく足音が聞こえた。夜一が仕方ないと息を吐き出し、訪問者を迎え入れた。
「まだ本調子ではないというのに‥‥‥乱菊」
「すっ、すいません! でもどうしてもと言われて、」
 頭を下げる影が見える。藍染は乱れた髪の隙間から、もう一つの動かない影を見やった。
「一護‥‥‥」
 湿った空間で、呼ばれた影が動いた。打掛を何重にも羽織った子供が、ゆっくりと格子に手をかける。
 あぁ、顔がよく見えない。顔が見たい。その瞳を覗き込みたい。
 どうしてかこちらに差し伸べられる手を、藍染は握りしめていた。ひんやりとしているが、確かに熱があり、生きていると知らせていた。
 これが最後。藍染は唇を寄せ、愛おしげに接吻した。



















「風邪にございますね」
 御典医の卯ノ花は、常と変わらない穏やかな物腰でそう言った。
「かっ、風邪?」
「左様にございます」
 一護は思わず両手で口を押さえるという女の子らしい仕草をしてみせた。
「え、いや、え? 風邪? 嘘だろ?」
 卯ノ花はにこりと笑みを浮かべ、しかし首は横に振ってみせる。一護の顔からさーっと血の気が引いていった。脇に侍る乱菊が複雑な表情で、天井では夜一が深く息を吐き出していた。一護は着物の上から腹に手を当て、誰とも知らず問いかけた。
「‥‥‥‥いない?」



「それでな、『このバカヤロー!』って飛び蹴りされた」
 蹴られたという尻を撫で、一護はそのときを思い出したのか苦笑いした。
「転ばなかったかい?」
「壁で鼻打った。あいつ可愛い顔してかなり凶暴だぞ。お前も気を付けろ」
 確かに鼻が少し赤くなっている。取っ組み合いもしたのだろう、ところどころ髪が跳ねていた。
 皮肉でも何でもなく、今や将軍と御台所は兄妹のように仲睦まじい。褥では何も無かったことは、一護の口から聞かされていた。そして隠していた腹のことも。
「いや、そもそも剣八が悪い。俺に誤解させるからだ」
「一護」
「ん?」
 先を行く一護が振り返った瞬間を狙ってすかさず唇を奪った。そっと離れる際、懇願する。
「彼の名前はもう出さないでと言っただろう?」
 ここ大奥で、更木剣八の名は禁句中の禁句だ。側室を押しのけて上様の初物を奪った男として一部の人間に記憶されている。実際には未遂と言えなくもないが、一護にとっては十分疾しい出来事である。申し訳無さそうに身を縮ませた。
「怒るなよ、」
「怒っていないさ」
「ほんとかー?」
「本当」
「お前といい乱菊といい、最近やけに優しいな。何か企んでるとかじゃないだろうな‥‥。もしくはお前、ニセモノだろう!」
「確認してみるかい? 今夜にでも」
 流し目を送ると、一護は最初ぽかんとして、それからあっという間に頬を染めて慌てだした。その反応に思わず吹き出してしまい、一護にバカと詰られた。
 そのとき急に強い風が吹いた。咄嗟に風上に立ち、強風から一護を守る。
「ありがと」
 腕の中から一護がにかりと笑った。少年ぽい笑みが相変わらずよく似合う。これが一護の純真さの表れのような気がした。
「藍染?」
 じっと見つめていたことに気がつき、藍染は同じく笑みを返した。冬らしい乾いた空気が皮膚を引っ張る。もう城内に戻ろうと一護を促したが、まだ外にいるんだと突っぱねられた。
「なあ、藍染」
 二人、気に入りの場所。庭に架けられた小さな橋の上で一護は歩みを止めた。
「‥‥‥‥もし、本当に子供ができたらさ、」
 眼下の水面に吸い込まれる一護の瞳がひどく思い詰めていた。無意識に腹へと添えた一護の手。藍染は目を逸らしたくなったが、橋の縁に爪を立て、どうにか耐えてみせた。犯した罪から目を逸らすな、己を叱咤した。
 一護の震える唇がすべてを吐き出す前に、藍染は言った。

「君と一緒に、逃がしてあげる」

 優しい声音で発した台詞は、冬の冷たい空気の中へと溶け込んでいった。
 驚いた顔で見つめ返してくる一護に淡く微笑み、藍染はゆっくりと膝を折った。
「約束しよう。君と、君の子供を、権力の好きにはさせないと。本当は、今すぐにでも逃がしてあげたいところだけれど‥‥」
 一護の唇が戦慄いた。信じられないと、目が見開かれる。
「これは償いだ。いつか、来るべき日に、私は必ずこの約束を果たすと誓うよ」
 償いきれるものでない。何も知らない一護。
「すまない‥‥‥一護」
 愛しているとは言えなかった。言える資格がなかった。
 この先二度と、言えなかった。

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