第三章

  風車  


 朝焼けの境内。前日に降った雪が、石畳をうっすらと白く染めていた。
 人の気配は無い。鳥さえも鳴かない早朝に、剣八が境内へと足を運んだのには理由がある。
 予感があった。目が覚めた瞬間に、今日だと思った。そして今、目の前に現れたのは、見るからに洗練された男だった。面識は無い。だが、この男だと剣八は直感し、にやりと口角を上げた。
「よお」
 気安く声を掛けるも、男は少しも表情を緩めなかった。友好的ではない空気の中、互いに互いを観察した。
 上品に整えられた茶色の髪から、凍った地面に立つ足先まで。不躾に眺めてこう直感した。厄介な人種だ。決して他人に屈するタイプではないだろう。獣の本能が、剣八に告げていた。
 男は白い息を吐きながら、一護の遣いであると告げた。
「風車をとりにきた」
「一護は?」
「風車を」
 男はそれきり口を閉ざしてしまった。
 懐に大事に仕舞っていた風車を、いつか一護が取りに来るだろうと思っていた。毎日とまでは言わないが、頻繁に通った境内。
 今度出会うとき、一護はその腹を大きくしているかもしれない。小さなやや子を抱いて現れるかもしれない。そのときはどんな顔をしているのか興味があった。思えば、一護はいつも悲しい表情ばかりを浮かべていた。
「あいつはどうだ? 元気か?」
 男は何も言わなかった。
「泣いてねえか?」
 ならば、と思って放った言葉は、予想外にも男の反応を引き出した。男の涼しい目元へとわずかに刻まれた皺。冷徹な面にひびが入る。
「屋敷は窮屈なんだろう。どんなにいい暮らしかは知らねえが、田舎育ちのあいつには合わねえんじゃねえか。てめえみてえな、お上品な男もな」
「‥‥‥‥だが、一護は戻ってきた」
「逃げることをよしとしねえ奴だ。どんなに苦しかろうが戦う、そんな奴だ。てめえのところに戻ったんじゃねえ、覚悟を決めて正面向いたにすぎねえよ」
「たった数度の逢瀬で、随分と知った口を利く」
「数度で十分だ。てめえは? あいつのことが分かってねえように見える」
「分からないさ」
 あっさりと認めた男を、剣八は意外に思った。こういう男は腕力よりも弁舌や計略を得意とする筈だ。加えて自分のような粗野な人間を最も蔑視する。一体どんな言葉で応戦してくるかと思い身構えた剣八は肩透かしを食らった。予想に反し、男はやり合うつもりはないとばかりに、低姿勢で目当てのものを差し出せと言ってくる。
「子供の玩具などどうでもいいが、あの子が気にかけている。中途半端が嫌いな子だ。知っているだろう?」
「だろうな」
「繋がりが欲しいというのなら無駄なことだ。早く風車をよこしなさい」
「一護はなぜ来ねえ? 動けねえ理由を聞かせろ」
 中途半端が嫌いなら、直接自分で来る筈だ。最後に見た不安そうな顔。屋敷では誰にも相談できずに抱え込んでいるかもしれない。
 では、目の前の男は? この男は知っているのだろうか。下手に問い質すこともできず、剣八は出方を伺った。
「私が止めた。それだけだ」
「理由になってねえな」
「妻が他の男と密会するなどと、許す夫がいるとでも?」
 ただの使者ではないと思ったが、そういうことか。
 軽い驚きを押し込め、剣八はもったいぶった動きで懐を探った。だがすぐに出しはせず、焦らして会話を引き延ばす。この際、訊きたいことはすべて訊いてしまおうと思った。
「京楽は? あの野郎ともできてんのか?」
「あれも私も妾だ」
「はっ、妾! いいご身分だ」
「一護が望んだことじゃない。周囲の思惑だ」
 男の口調は、妾が一人や二人では済みそうにない印象を剣八に与えた。身分の高い人間は正夫の他に、当たり前のように愛人を迎えて別宅に住まわせると聞く。あの初心を塊にしたような一護が、複数の男を相手にしているかと思うと不憫に感じた。
「あいつは、幸せか?」
「分からない」
 男はふと視線を横にすべらせた。つられて剣八も同じ方向に目をやった。朝靄が立ちこめる城下町のその先に、悠然と佇む城が見える。男は城を眺めながら、淡々と言った。
「あの子の幸せは、ある時点で終わってしまった。あの子が心の底から笑える日が来るのかどうか、私には分からない」
「複雑な事情がありそうだな」
 男は笑った。
「そうでもないさ」
 一瞬、男の顔が歪んだような気がした。見間違いか、今は無表情に剣八を見据えていた。
「風車を。話はもう終わりだ」
「最後だ。一護は元気か? 前は具合が悪そうだったからな」
 わざと腹に手を当てて言った。男の表情に変化は無かった。目を伏せて、やはり淡々と答えた。
「何も無かった」
「あぁ?」
「何も無かったんだ。そういうことにしようと、皆で決めた」
「どういうことだ?」
「風車を返してくれるのかくれないのか、早く決めてくれないか。帰りが遅くなるとあの子が心配する」
 男の視線は再び城へと行った。愛しげに目を細めるその様は、別人のように人間らしい温かみがある。最初の印象は拭い去られ、今剣八の目の前にいるのは一護を慕うただの男にしか見えなかった。
 同じ表情を見たことがある。京楽。一護に男というものを教えてやった数日後に乗り込んできたかと思うと、止めに入る手下達を薙ぎ倒し、この自分に拳をくれた奴。最初は憤っていたくせに、数度殴り合った後には大人しくなって。
『ボクが、最初に貰おうと思ってたのに』
 そのときの顔と、よく似ている。一護を想うあまり、どこか狂った顔に。
「‥‥‥‥風車は、無え」
「なんだって?」
「やちるにやっちまった。やちるっつーのは俺の、‥‥‥なんだ? まあとにかく、俺が面倒見てるガキのことだ。一護も知ってる。そいつが欲しい欲しいうるせえからやっちまったんだよ」
「では、そのように伝えておく」
「まあ、待て。代わりのもんを持ってきた」
 目当てのものが無いと知るや、男はさっさと帰ろうとした。それを引き止め、懐から出したのは小さな包みだった。
「やちるが、一護にだとよ」
 振れば、ざかざかと音が鳴った。中には金平糖がぎっしりと詰まっている。やちるの大好物だ。ちなみに手紙も入っていて、『また会いたい』と拙い文字で書かれている。子供を使うのは汚いかと思ったが、釣られるか否かは一護が決めることだ。
「もっといいもん食ってんだろうがな。ちゃんと一護に渡せよ」
「あぁ」
 男が受け取った包みを袖の中に収めたのを見届け、剣八は一仕事終えた後のように大きく息を吐きだした。一護に会えなかったのは残念だったが、この男と話せてよかった、そんな気がした。

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