第四章

  一、桜が咲く頃  


 知っている背中だった。しかし身に纏う着物がいつもと違う。見るからに安物と分かる布地は、孤高と表現するに相応しいその人にはまったく似合っていなかった。
 いつも丁寧に整えられた茶色の髪が、乱れ、色艶を失っていた。指先はあかぎれだらけ。あの指を自分はよく知っている。苦労して、働いても働いても報われない人間の指だ。
 その指が刀を握っていた。刃の先から滴り落ちる血が見える。彼の足下には人が倒れていた。死んでいるのだろうか。広がっていく血溜まりが彼の足先に届こうとしていた。
「感謝しています」
 彼が言った。感謝。何に、誰に。
「今日という日を迎えられたのは、すべて貴方のお陰だ」
 顔が見えない。笑っているようにも泣いているようにも感じた。声に張りがなかったから、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「けれど、まだです。まだたくさん、必要だ」
 彼の指から刀が落ち、硬い音を立てた。血溜まりがぱしゃりと鳴る。彼がこちらを振り向いた。
「さようなら。‥‥‥‥恨み言は、地獄で聞きましょう」
 歩くたび、血の足跡ができていた。彼が通った道が赤く続いている。
 目の前までやってきた彼を抱きとめようと、一護は両手を広げた。広い背中を知っていたから、抱きしめられるようめいいっぱい大きく腕を伸ばした、けれど。
 するりと通り過ぎていく。視線すら交差しない。
 二人は、同じ場所に存在していなかった。



「一護‥‥一護‥‥」
 優しい声がふってくる。一護はゆっくりと瞼を押し上げた。
「どうしたんだい?」
 視界がぐにゃぐにゃに歪んでいた。泣いてるんだと気付いて、指で乱暴に擦ろうとするが止められる。
「うー‥‥っ」
 頬を包み込む大きな手を嫌がり、一護は褥に突っ伏して泣いた。隣から戸惑う気配が伝わってくる。
「一護?」
 慰めようと髪に触れる指先だけは許してやった。溜息が一つ聞こえる。
 親指が耳に触れた。あの刀の柄を支えていた傷だらけの指が。思うとまた涙があふれて、一護はえぐえぐと嗚咽を漏らした。
「怖い夢でも見たのかい?」
 伺うような声は父を思い出させた。しかし隣にいる男は、父性というものからはかけ離れた存在であるということを一護は知っている。それでも触れる指先は心地良かった。次第に落ち着きを取り戻し、一護は仰向けになった。
「藍染のあほぅ‥‥」
 覗き込んでくる両の瞳には自分の姿が映っていた。優しい色合いの真ん中に自分がいる。夢の中で見たそれとは、まったく違っていた。あれは思い出すだけでもぞっとするような冷たい光を帯びていた。出会ったときよりも殺伐としていて、尖った氷のように容赦がなくて。自分がまだ知らない藍染のひと欠片なのだろう。
「夢の中で、お前が無視した」
「私が?」
「目の前にいたのに、素通りしてった」
「だから泣いていたの?」
 藍染の指先が眦に触れた。手入れされた、優雅な指先だった。でも本当はそうじゃない。血塗られた手だ。不幸を斬り捨て、目の前の人間を踏み台にここまで、自分のところまでやってきた。すべての過去を優しい面差しの裏に忍し隠し、平気で嘘をつくこの男のことが最初誰よりも嫌いだった。
「泣かないで」
 啄むような口付けが落ちる。唇は乾いていたが、重ねていくうちにしっとりと湿り気を帯びていった。人によって口付けの仕方が違うのだと知ったのはいつだったか。藍染のそれは、最初は優しくて途中から強引になる。人との接し方ともよく似ていた。
 涙を啜られ、顔中に口付けられる。藍染の手を握りしめ、甘えるように頬を寄せた。
 この男の終着点が自分であるのなら、もうあんな真似をさせずに済むのだろうか。夢の中の藍染は、まだ必要だと言っていたけれど。
 夜明けまであと数刻。その時間を惜しむように、二人は抱き合った。














「王手」
「ぎえっ」
 開始から数分。まさに瞬殺である。
 玉将の斜め向かいには、冬獅郎の金将があり、逃げても飛車が待ち構えていた。
「ま、待っ」
「待ったなしだ。なんだお前、強いとか言っときながら大したことないな」
「お前が強すぎるんだよ! もう一回! もう一回!」
「何度やっても同じだと思うがな」
 天賦の才というものを目の当たりにした一護だったが、生来の負けず嫌いからしつこく再戦を強請った。このまま負けてなるものか。
 しかし、連敗に次ぐ連敗。ハンデをやろうかと提案されたが、とてもじゃないが受け入れ難い。
「もっと卑怯になれ。そう正攻法ばかりじゃ勝てるものも勝てんぞ」
「藍染と同じこと言うんだな」
 冬獅郎の眉間に皺が寄った。まずいと思ったが後の祭りだ。一護が姿勢を正したのに対し、冬獅郎は正座を崩して胡座をかいた。前屈みに将棋盤の上へと頬杖をつく。見た目は美少女のくせに、仕草がとても男らしい。
「で、最近どうなんだ?」
「どう、って?」
「妾共とぎくしゃくしてただろう。今は褥に呼んでるのか?」
 ずけずけとした物言いに一護は口籠った。顔に熱が集中してしまい、見ていて分かるほどに動揺した。
「まるで生娘みたいな反応だな」
「‥‥‥‥どういう反応を期待してたんだ」
「さらりと流すか、傲慢に微笑むかだな。あれだけ男がいれば、女は自然と艶を放つ。臭いほどにだ。母がそうだった。いつも自信に満ちあふれて、愛されることが当然だと思うようになる。その身に降り掛かる愛とやらが、実際には薄っぺらなものだとは気付かずにな」
「親をそういうふうに言うなよ」
「親だから言えるんだ。他人の親を貶すほど俺も腐っちゃいない」
「お前の話を聞いてると、随分穿った見方で言ってる気がするけど」
「産まれたときから知ってるんだ。穿つも何も、真実だ」
「自分の親でも分からないことなんていっぱいあるだろ。俺だって、お袋の生まれを知らなかったし。お前だって、自分の母親のことで知らないこと、いっぱいあるんじゃねえのか」
 冬獅郎の柳眉が吊り上がった。言い過ぎたのかもしれない。一護はバツの悪そうに一度視線を落としたが、恐る恐る視線を上げた。不機嫌ではあったが、彼は意外にも落ち着いた表情をしていた。
「俺は女が好きじゃない」
「は?」
「正確には女になった女が好きじゃないわけなんだが」
 突然何を言い出すんだ。一護は頭に疑問符を飛ばしながら、冬獅郎を凝視した。
「お前は不思議だな。女になった筈なのに、その匂いがない」
「はぁ、そう、」
「この城にいる女達もそういうのが多い。乱菊といったか、あいつもそうだし、夜一という女もだ。むしろ大奥にいる男のほうが女らしいとさえ思うことがある」
 冬獅郎の繊細な指が、駒の一つを摘まみ上げた。玉将だ。
「お前を巡って女みたいにキーキーと、まったく煩くてかなわん。‥‥‥もしかしたら、男も女もそう変わらん生き物なのかもしれんな」
 翠玉の瞳が一護を捉え、柔らかく細められた。思わずどきりとしたほどの笑み。同じ人間であるのが不思議なくらいだと思った。男も女も変わらないと言うが、こうも自分と違って美しいとなると彼の言葉は甚だ疑問である。
 冬獅郎はひとつ頷くと、徐に立ち上がった。そして一護に向かって手を伸ばし、散歩に誘った。
 庭園に植えられた桜の木が、開花を迎えようとしていた。
 一護と冬獅郎は当たり前のように手を繋ぎ、庭に下り立った。仲睦まじい様子に、遠目に見ていた家臣達はほっと胸を撫で下ろす。これで世継ぎが生まれてくれたら、と未だ幼い二人に期待を寄せた。
「蕾が膨らんできたな。そろそろ綻ぶだろう」
 桜の幹に手を置き、冬獅郎が言った。たしかに今にも咲きそうだ。
「花見がしたいな」
「面倒くさいのは御免だ。やるなら二人でするぞ」
「‥‥‥‥お前さあ、あいつらに喧嘩売ったんだって? ほどほどにしとかないと、寝首掻かれるぞ」
「安心しろ。奴ら、姑息じゃない。お前の将棋と一緒だな。実に正攻法だ」
 冬獅郎の話では、道場で鍛錬をしていると試合を申し込まれるらしい。しかし試合とは名ばかりの真剣勝負。特にギンなんかは顔を狙ってくるという。正攻法か、それ。
「大丈夫なのか? なんなら俺が皆に」
「助けはいらん。安心しろ、結構楽しいんだ」
 一護の手を引いて、隣の桜の木に移動した。その木は他の木よりも蕾が膨らんでおり、薄桃色の花弁をわずかに覗かせていた。
「こいつがきっと一番だな」
 まだ若木といえる頼りなさだったが、蕾の数が他より多い。植物のことはよく分からなかったが、庭師が良い仕事をしてくれているのだろう。
 自然と冬獅郎と目が合い、嬉しそうに笑った。
 そんな二人の姿を、遠くから見つめる男達がいるとは気付きもしなかった。



「仲良く手なんか繋いじゃってまあ‥‥」
 京楽は髭を撫付けながら、遠くを歩く二人を眺めていた。隣に座る浮竹が、先ほどから情けない唸り声を上げている。
「ちょっと、泣くなら向こう行ってくれないか」
「嫌だ。ここからじゃないと、一護様の姿が見えない‥‥うぅっ」
「超鬱陶しいんですけど、この人」
 浦原が目頭を押さえる浮竹を押しのけ前に出た。欄干から身を乗り出して一護の姿を追った。
「あのクソガキ、生意気にも隠密つけてるんですよ。たぶん、一護さんの計らいでしょうが。この間、試しに吹き矢飛ばしてみたら届く前に叩き落とされましたよ」
「君、そんなことしてるの?」
「ちょっとした冗談っスよう。でも面白くない。特別扱いなんて、一護さんらしくないことする」
「結果的に彼は助かってるわけなんだけどね‥‥」
 正攻法だと思っているのは当人ばかり。実際には冬獅郎が気付かないところで卑怯な真似は繰り返されていたのである。もちろん一護の耳にも入っていて、夜は延々お説教。ろくに触れられぬまま朝を迎えることも珍しくない。しかしそれは悪さをしている一部の人間のみで、浮竹や京楽はうまく立ち回り、一護の情けを受けていた。もちろん不満がないわけではない。
「意外だったのは惣右介君だよ。まさか御台様につくとは思わなかった。何か企んでるんだろうけど‥‥ううん、分かんないなあ。市丸君、君何か知ってる?」
 ギンは先ほどから扇子を弄り回してぼうっとしていた。着流しから足を露にして、随分とだらしない様子でいる。側室の中で一番若い彼は、冬獅郎に対して一番対抗心を燃やしていた。しかし今はどうだ、まるで腑抜けている。
「一護ちゃんが御台様を褥に呼んでからああだ。ま、煩くなくていいけどね」
 男女の交わりがあったかどうかは謎だが、京楽は無かったと思っている。だって見てみろ、一線を越えた二人がお手々繋いで庭を散歩、桜を見上げてほのぼのするか。自分ならぶちゅっとやってしまっている。
 寂しいのだろう。己の思惑とはかけ離れたところで人生を操られ、見知らぬ城へと辿り着いた。震える小鳥か、親を失った子猫に似ている。支え合って命を繋いでいるような、ぎりぎりの危うさだ。
 兄弟の情が男女の情に変わる日は近いのかもしれない。そのときは、我々とは比べものにならないほどの固く強い絆が生まれるのだろう。
「この歳になって怖いものができるなんて」
 春の陽気がすぐそこまで近づいている。しかし男達は深いため息を零し、未だ冬の最中にいた。

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