第四章

  恋のえさ  


 城下町。その最も南に位置するところに、更木と呼ばれる町がある。賭場が多く、破落戸達の集まる治安の悪い地域として、地元の人間に知られていた。
 時折、田舎から出てきた余所者が、知らずに足を踏み入れる。そして翌日、身包み剥がされて、ということは珍しくなかった。這々の体で逃げ出す姿が目撃されては、地元の人間の乾いた笑いを誘っていた。
 日が沈むやいなや、そこかしこから丁半博打の掛け声が聞こえてくる。酔っぱらいも多く、喧嘩も頻繁に起こっていた。獲物を探してうろつくやくざ者も、ちらほらと見かけた。更木は、将軍お膝元にあって、危険この上ない町だった。
「見ろよ、あれ」
 東の空が暗闇になったころ。人相の悪い数人が固まって歩いていると、ここ更木ではお目にかかれない珍しいものを発見した。彼らは同じような笑みを浮かべると、それからは慣れたもので、目配せひとつで各々が動き出す。すばやく取り囲み、突き当たりで追いつめた。
「なん? あんたら誰」
 彼らに言わせてみれば、それは鴨だった。それも葱しょった鴨。随分と、身なりの良い優男である。見るからに更木には縁の無さそうな男は、事態の悪さを理解していない様子だった。
 男の背はひょろりと高く、髪は珍しい銀髪。さらさらと流れ、手入れの行き届いているのが分かる。着物は遊び人ふうに着崩してはいるが、ものは一級品。裕福な商家に生まれ、甘やかされて育った次男坊、といったところか。城下の出身ではまずないだろう。癖の強い喋り方から、上方の出身に違いない。親の商いについてきて、何も知らず更木に迷い込んだ。破落戸達はざっと観察すると、そう判断を下した。
「坊ちゃん。痛い目見たくなかったら、なあ、分かってんだろ」
 懐に手を入れ、匕首をちらりと見せる。まっとうな町人なら震え上がり、財布を差し出すという次第だ。しかし、鴨は更木に迷い込んでくるほどのおとぼけぶりである。破落戸の脅しに、はて、と首を傾げた。
「ボク、ちゃあんと言うてくれな、分からんわ」
「あぁ?」
「そもそも、今会うたばかりでやで、分かってるやろ、なんて無茶があるかい。恋人同士でもあるまいし」
 あれと言われたらそれを差し出す、阿吽の呼吸が両者にある筈も無い、と男は言ってのけた。まっとうと言えばまっとうな意見かもしれない。
「馬鹿かてめえ! 今の状況分かってんのかっ」
 一人が着流しの上を撥ね除け、上半身を見せた。背中と腕にかけての見事な刺青。さあ、これでどうだ。さすがに世間知らずのお坊ちゃんも、青ざめて震え上がるかと思いきや。
「おっちゃん、寒ないか」
「こっ、‥‥‥‥やっちまえ!」
 短気な破落戸達は一斉に飛びかかった。特に綺麗に整った顔目がけて拳を唸らせる。めり込む前に、鴨はにたあと笑った。
 視界から、鴨が忽然と消えた。あれ、と目を剥いたその直後。
「痛い目いうんは、こうゆうこと言うてんのか」
 破落戸達は、地に倒れ伏していた。何が起こった。混乱し、情けない悲鳴を上げる。背中を強く打ちつけたらしい、激痛が走る。受け身すら取れなかったというのか。
 ぱんぱん、と手を払う音が聞こえた。顔だけどうにか動かし、音の方向を見やる。後悔した。
「っひい!」
 薄暗くなった路地に立っていたのは、まさしく鬼だった。目が合う。それだけで心から恐怖した。
「あんたらに聞きたいことあるんやけど」
 鬼は問うた。
「更木の剣八には、どこ行ったら会えるんや」











 時間は半日ほど遡る。それは剣道場での出来事だった。
「ギン!!」
 何かを打つ音と、竹刀が床に落ちる音。飛び立つ鳥の羽音が、遅れて聞こえた。ほんのわずかな時間に起きたことだった。
「‥‥‥‥‥殴ったん?」
 頬を押さえ、男がふらふらと後退した。相対するもう一人は、自分のしたことに驚き、手を見下ろして呆然としていた。
「殴った、ボクを、殴ったんや‥‥‥‥‥一護ちゃんのアホぉ!!」
「あ、ギンっ、待て!」
 剣道場を飛び出していった男は、そのまま姿を消した。以降、彼の消息は杳として知れない。
「ほっとけ。五人もいたんだ、減って丁度よくなった」
 そう素気なく言うのは、一護の良人、冬獅郎である。今日も溜息が出るほどの花の顔、と言いたいところだが、彼の左頬には真白な湿布が貼られていた。実家の人間が知れば悲鳴を上げるに違いない。顔に傷をこさえてしまったのだ。そう、よりによって、顔に。
 しかし、一番平然としているのが本人だった。男子たる者、体に傷があって当然、とのことらしい。一護としては、今後夢で魘されるほどの衝撃を受けているというのに、なんとも剛毅な夫である。
 怪我の原因は、ギンにあった。剣道場での打ち合い稽古の際、顔に突きをくらったのだ。寸前で避けて大事には至らなかったが、明確な悪意に、観戦していた一護は激昂し、つい手を上げてしまった。
「な、殴っちゃったよな、俺‥‥」
「あぁ、殴ってたな。あそこで平手とは、ある意味、拳よりも色々キいただろうな」
「グーだったら、誤摩化せたような気がする‥‥」
 だが現実は、パーだ。仕置きの意味が、十分に込められていた。たったの一回。だが、相手を打ちのめしてしまった。あのときは咄嗟で、考える暇も無かった。頬を押さえる冬獅郎の指の隙間から、鮮血が零れ落ちるのを見た瞬間、頭に血が上って、怒りを抑えきれなかった。
「ていうか、痕っ、残ったらどうすんだっ、お前の家族に、なんて詫びたら‥‥!」
「若いからすぐに消えるだろ。残ったとしても俺が気にしないんだ、お前も気にするな」
「簡単に言うな! お前、顔だぞ、顔っ。もったいねええ」
 冬獅郎の小さな顔を両手で包み、一護はしきりに残念がった。自分よりも遥かに鑑賞価値の高い夫の美顔が、竹刀でザシュっとやられたときの瞬間が脳裏にはっきりと甦る。
「ちょ、ちょっと祈ってくる‥‥」
「どこにだ。神頼みで傷が消えるか」
「何もしないよりかはマシだろ」
「俺のことよりも、家出人捜索はどうすんだ。諦めて、次、補充すんのか」
 逃避しかけていた一護は、冬獅郎の冷たい言葉ですぐに現実へと戻ってきた。すとんと正座して、どこか怒った調子で言った。
「そんなこと、しねえよ」
「殴ったのに、結局は許すのか。そもそも俺がやり返すところだろう。お前、手が早すぎるぞ」
「だよなあ‥‥失敗した」
「それは違う。俺は正室だ。お前の正式な夫だ。それを害した側室一人、普通なら斬り捨ててしまってもいい」
 物騒な発言に、一護は驚いて身を仰け反らした。冬獅郎は当たり前だ、と頷いてみせる。
「大げさに言ったが、つまりは俺と奴らの間には格の違いがあるということだ。俺が来るまでに築いた絆なんぞ、身分やしきたりの前では、それほど役に立たん。吹けば飛ぶ代物だ。なのにお前は、平等を目指そうとして、失敗している。はなから無理なんだ。だったら、最初から優先順位をつけろ」
「そんなっ」
「既に、お前はそうしているだろう。何か困ったことがあれば、藍染、藍染、藍染だ。あの男が万事解決してくれると思って、頼ってないか」
「‥‥‥‥‥そう、見えるのか」
「正確には、あの男が自らお前に手を差し伸べているんだ。周りにはそうと分からぬように。お前にさえ、気付かれないように。良い側室を持ったな。他はいらんが、あの男だけは手放すな。一等可愛がってやれ」
 一護は何かを言い返そうとして、結局は複雑な表情を浮かべて終わった。優劣を付けずに接してきたつもりが、中途半端と言われ、開き直って差別しろと勧められる始末。それも年下の冬獅郎にだ。所詮、自分は俄なのだろう。綺麗ごとばかりでことは解決しないのだと、突きつけられた気がした。
「だからと言って、暴君にはなるなよ。お前のその中途半端な優しさが、誰かを救うこともあるんだ」
「誰かって、誰?」
「知るか、そんなもの」
 なんだよ、言っておいて。けれど本当だろうか、と自分の手を見下ろした。ギンの頬を打ち据えた右手。この手で、一体誰が救えるというのだろう。
「ーーーー失礼。御台殿、よろしいか」
「入れ」
 二人にとって聞き馴染んだ声の主は、静かに入室してきた。一度、周囲の気配を気にするかのように辺りを見回し、正室の間をすばやく閉じる。向き直った入室者に、一護は駆け寄った。
「藍染、俺っ、」
「大丈夫。ことの次第は聞いたよ」
 着物の端を掴んだ一護の手に、藍染が己のそれを重ねて握り込む。俯く一護の耳元に唇を寄せ、安心して、と囁いた。わずかに身を震わせ、一護が頷いた。
 甘い雰囲気を見せつけられ、あれで平等に扱っているつもりなのだから、冬獅郎は呆れてしまう。一護が彼へと傾ける信頼の大きさは、他の側室達との比ではない気がする。二人の馴れ初めは、決して穏やかではなかったと夜一から聞いていたから、なおさら二人の絆の深さを不思議に思った。
 大奥の一切を取り仕切る藍染は、さっそくとばかりに報告した。
「ギンが城下に下りたのを、出入りの商人が目撃していた。その先は、夜一達隠密が追っている。見つかるのは時間の問題だ」
「俺も」
「行っては駄目だ。腰を据えて、待っていなさい」
「けどっ」
「藍染の言う通りにしておけ。お前が行ったら、絶対ややこしくなる」
「冬獅郎まで何なんだよ。俺の味方じゃねえのかよ」
 夫婦だろっ、と支援を期待したのだが。
「ほいほい城下に下りては、騒ぎを起こしてるそうだな。松本が嘆いてたぞ。城の外に愛人まで作ってるそうじゃねえか」
「あいじん!? あ、わ、違う、絶対違うっ、藍染、あいつはそんなのじゃないからな!」
 彼の人の話題は、ここ大奥では御法度だ。一護の手を握る男の指に力がこもる。一瞬、ひと先早い冬のように冷え冷えとした表情を浮かべた藍染を見て、一護は焦った。
「調べものがありますので、これにて失礼します」
「あ、藍染っ、」
 一護の手を離し、藍染はさっさと出ていってしまった。その後を追おうか追うまいか、一護は襖と冬獅郎とを交互に見る。正室の部屋にいるのだ、彼の許可が必要だった。
「行ってやれ」
「ごめんっ、後でまた来るからな!」
 別れ際に、湿布の貼られた頬を優しく撫で、一護は部屋を飛び出していった。
 一護がいなくなると、部屋がしんと静まり返る。広い空間を、一護ひとりが満たしていたのだ。冬獅郎は、別れ際に触れられた頬に触れ、そっと息を吐きだした。











「なんなんだ、てめえっ」
 叫んだ男は、頭から襖に突っ込んでいった。賭場は一瞬の静寂の後、修羅場と化した。
 騒乱は、見慣れない男の訪問から始まった。賭けの最中に、ひょいと顔を出したかと思うと、「剣八」に会わせろと言う。誰も相手にせず、むしろ金目のものを毟り取ってやろうとにじり寄った。しかし一人目が投げ飛ばされ、二人目が拳でのされ、三人目と四人目が同時に失神させられたところで、賭場を仕切っていた男が唾と一緒に指示を飛ばした。
「一角さんと弓親さんを呼べぇ!!」
 相手は脇差しすら抜いていない優男。舐めてかかって、用心棒達はほぼやられてしまった。客は逃げ出し、木札は散乱。賭場はメチャクチャだ。叱責覚悟で、元締めの側近二人を呼びにやる。
 向かってくる破落戸をあらかた片付けた闖入者は、ゆっくりと首を巡らした。暴れたりない獣が、獲物を探す仕草に似ていた。
「どこのどいつだ、うちのシマを荒らしてる奴ぁよお!」
 威勢のいい声とともに、数人の男達がなだれ込んできた。既にのされた者達とは違う、触れれば切れそうな鋭さのある男達だった。
「てめえか、コラ」
 先陣を切る坊主頭の男が、棍棒片手に啖呵を切った。
「あんたが、剣八はん?」
「あぁ?」
「違うん? どっち?」
「‥‥‥‥お頭に何の用だ」
 違うのか。ギンは途端に男に対する興味を失い、疲れたように座り込んだ。体力的にではない、気疲れだった。
「もお、いつになったら会えるん?」
「おい、答えろ。頭に何の用なんだよ」
「うん? ‥‥‥‥あぁ、ボクなあ、一護ちゃんの旦那さんなんよ。一護ちゃんていう子、知ってる?」
 坊主頭の男の顔が引き攣った。それからマジマジとギンを凝視してきた。
「ボク、色々あって町離れることになったんや。はは、離縁っちゅーことやな。でもその前に、一護ちゃんの初めてを奪った男の顔、見とこうかと思って来たん」
「あ、あー‥‥そうか、そりゃ、ごくろうさん」
 気の毒に、という同情の視線が突き刺さる。ギンは構わず続けた。
「短い間やったけど、一護ちゃんとの生活は、幸せやったなあ。ほんまに、幸せやった‥‥」
 うふ、ふふふ、と不気味に笑い始めたギンを、彼らは本気で可哀想に思ったらしい。「おい、頭呼んできてやれ」と小さな声が聞こえた。
 ギンは、城を飛び出してきてから、まだ一度も脇差しを抜いていなかった。抜くまでもない相手ばかりだったから、というのもある。しかし、別の意図が存在していることを、ギン以外誰も知らなかった。
 頭と呼ばれる剣八は、ほどなくしてやってきた。肩には、小さな子供を小鳥のように乗せている。寝起きだろうか、髪はぼさぼさ、半眼で、豪快に欠伸をしての登場だった。背は、長身のギンが見上げるほどに高い。一護ならば、なおさらだろう。この男が、一護の柔な体を組み敷き、綻び始めたばかりの蕾を強引に咲かせ、夜露のような涙を啜ったのだ。
 ようやく、会えた。
「剣ちゃん!」
 甲高い子供の声が上がった直後、ギンの抜き放った脇差しは、その切先を柱に埋めていた。ちっ、外したか。すばやく抜き去り、躱した男に向かって凪ぎ払う。
「頭っ」
「どういうつもりだっ」
 どうもこうも、最初からこうしてやるつもりだった。これはとっておきだ。今の今まで抜かなかったのは、今この瞬間のためだった。
 脇差しを右に、小刀を左に。ギンは舞うように得物を振るった。仕切りを取り払った賭場は、剣道場よりも広く、動き回るのに不自由は無い。しかし、先ほどからかすり傷すら付けられないというのは、どういうことだ。
「お前で三人目だ」
「なにっ、がやっ」
 この余裕。ギンは奥歯を軋った。
「京楽、神社で会った茶髪の男、それでお前だ。あと何人いやがるんだ、一護の旦那って奴は」
 剣八はわずかに首を傾げ、刀を避けた。今度は首筋をぼりぼりと掻きながら、刃先を手の甲で払った。遊ばれている。こんなことが、あっていいはずがない。
「一護の最初を奪ったっつーがよ、そりゃ誤解だ」
「なんやと!?」
「半分も挿れてねえぞ。中でも出してねえしな。出したのは腹の上だ」
「こっ、殺したるっ」
 そう、これはただの八つ当たりだ。どうせ城を出ていくのなら、最後に心残りを無くしてからと思っていた。一護が身を任せた最初の男の顔に、傷ひとつくらいはつけたかった。
「一護ちゃん‥‥っ」
 叩かれた頬が、今も痛い。打った直後の、一護の後悔に塗り固められた顔を思い出す。自分よりもずっと傷ついた顔をしていた。今頃、自分がいなくなって、せいせいしているところだろうか。いいや、そんな子じゃない。きっと必死になって探してくれている。分かるのだ、それだけの絆を、築いてきたから。
「どうした。気は、済んだのか」
 剣八は、最初から刀すら持っていなかった。ただギンの怒りの刃を受け流すだけだったのである。項垂れるギンの手から、脇差しと小刀が零れ落ち、硬い音を立てた。
 ーーーもう終わりかい、ギン。
 藍染の意地悪な声が聞こえた。冬獅郎の味方についた彼を、ギンは憎らしく思っていた。しかし違うのだと、心のどこかでは分かっていた。一護のためだ。一護のために、あの男は信念を曲げ、正室を守ると決めたのだ。自分に、そこまでの覚悟ができるだろうか。‥‥‥‥できない。すべてを投げ出してもいいと思えても、実際に行動に移せるかといえば、ギンは、そうではなかった。
「‥‥‥‥迷惑、かけました」
 藍染のようには、なれない。それを知った今、ギンは思った。遠くに、去るべきだと。幼馴染の乱菊は、一護にはなくてはならない人間だし、自分がいなくても城で生きていけるだろう。だったら、自分が城に留まる理由など、もはや存在しない。一護の傍にいたいという、想いを除けば。
 このまま城下町を去り、行き着く先は男娼か、盗人か。おそらくここにいる破落戸達とそうは変わらない身分に転落するのだろう。城に戻り、許しを乞うという選択肢もあった。だが、それだけはどうしてもできなかった。
 結局は、我が身可愛さが招いた結果なのだ。冬獅郎に頭を下げたくない。子供のような意地が、ギンにはあった。

「なんだ。もう終わりか、狐」

 一瞬、藍染が現れたのかと思った。しかし、違った。破壊された賭場の入り口に立っていたのは。
「な、なんでえ?」
 嘘だ、いる筈が無い。こんな小汚い野良犬の巣窟に、下りてくるものか。
 ギンは何度も瞬きし、その姿を凝視した。だが、見間違えようも無い。少女のように繊細で、可憐という言葉がしっくりはまるような容姿の少年。日番谷冬獅郎が、目の前にいた。
「なんで、お前が、」
「んなことは自分で考えろ。お前はただ、俺と一緒に屋敷に戻ればいいんだ」
「一護ちゃんの、ため‥‥?」
 そう、すべては一護のために、この少年はやってきたのだろう。正室が、側室に対し、折れてみせたのだ。内心はどうあれ、中々できることではない。
 また、負けた。
 ギンは忸怩たる思いで、唇を噛み締めた。
「お前が剣八だな」
 ことの成り行きを見守っていた剣八の元に、冬獅郎は歩みを進めた。首が痛くなるほど剣八を見上げたかと思うと、澱みの無い口調で言った。
「黒崎一護の正室だ。側室が、面倒をかけたな。代わって詫びよう」
 この少年が、と周りにいた男達が目を剥いた。剣八はさして驚いた様子を見せず、低い位置にある少年の顔を見下ろしていた。
「四人目か。妾三人に、ガキみたいな正夫が一人。一護も、難儀だな」
「訂正しろ。妾は五人だ」
「っは! 全部で六人か。一護みたいに初心な奴の腹ン中を掻き回して、楽しいか」
 剣八の傍で話を聞いていた男達が、動揺に身をひいた。怒っている。更木の剣八が、怒りで滾っていた。
「下劣なのは認めよう。だが、そうする必要があった」
「なに」
「秩序のためだ」
 男達は、今度こそ後じさった。被害の及ばないところまで、足下にいた幼女を抱え、できるだけ遠くに避難した。
「そのためなら、一護ひとり泣かせてもいいってのか。好きでもねえ男に足を開かせて、黙って我慢してろってのか。壊れたら替えればいいと思ってやがんだろ」
「間違ってはいない」
「そうかよ。そういうのを、お前らの言葉では、ご立派、って言うんだろうな」
 剣八が、落ちていた刀を無造作に拾った。既に抜き身だったそれを冬獅郎に向け、殺気を放つ。激情を解き放つ一歩前の、抑えた声音で、剣八は吐き捨てた。
「泣いても痛がっても、あんとき無理に抱いてりゃよかった。孕ませてりゃよかった。おいガキ、あいつをよこせ」
「惚れてるのか」
「訊くな」
 逢瀬は、たったの三度。一度目は邂逅、二度目に情を交わし、三度目は秘密を共有した。互いに知るのは名前くらいなもので、けれど大切な部分を一護は見せてくれた気がしていた。嫁にするなら、ああいうのがいいと、剣八は思っていた。
「‥‥‥‥‥‥に、」
「なんだって?」
 現れたときから表情を微塵も変えなかった少年が、不意に微笑んだ。その美しさ、高貴さに、生まれの違いをまざまざと見せつけられた更木の男達は、息を呑んだ。
「外に、これほどまでにあいつを思っている男がいる。喜ばしいことだと言ったんだ」
「馬鹿に」
「してなどいない。いざというとき、つまりは、一護の身に危険が及んだとき、ーーーどうか、よろしく頼みたい」
 冬獅郎が、頭を下げた。ギンは驚いて、声さえ出せなかった。
 怒りを削がれ、戸惑う剣八に、冬獅郎は言った。
「一護と会いたいのなら、この俺が取り計らおう。今日は、それが言いたくてここに来た。おい狐、とっととそのアホ面を仕舞え。帰るぞ」
 惚けていたギンは、その声にはっと我に帰った。
「っえ!? ていうか何、ボクを迎えに来たんと違うんか!?」
「なんでこの俺が、貴様ごときをわざわざ迎えに来なければならんのだ。たまたまいたから拾って帰ってやるだけのこと。感謝しろ」
 そう吐き捨てると、冬獅郎はさっさと賭場を出ていった。残されたギンに、少女が近寄り、
「元気出してね」
 と、慰めた。









 ギンの処分を巡っては、老中達からは離縁の二文字が飛び出した。御台所を傷つけ、城を出奔、城下で暴れ回ったというから、仕方の無いこととも言えた。
「まあ、そう怒ってやるな」
「上様っ」
 しかし、ただ一人、一護だけが庇う発言をした。傍に控える乱菊が、ほっとした表情を浮かべた。
「もとはといえば、俺がギンを追いつめたことに発端がある。御台と側室達の確執を、知っていて放っておいたことにもな。お咎めなしとは言えないが、ここは俺の顔に免じ、奴を許してやってほしい」
「甘いっ、甘すぎます!」
「今回だけだから」
「駄目!」
「ここに歌舞伎のすぺしゃる観覧券があるんだが」
 ぴら、と見せた札に書かれているのは、有名一座の名前。しかも座席は最上級。場は水を打ったかのように静まり返り、数多の視線が一護の指先に集中した。
「ちなみに人数分あるぞ」
「ば、買収でございますか」
「いや? 日頃の働きを労おうと用意しただけだ。いらないんなら破り捨ててくれても構わねえけどな」
 かくして、入手困難な歌舞伎観覧券は彼女達の懐に収められ、ギンには謹慎一ヶ月の下知が下された。謹慎中は、一護に会うことも、また大奥の私室から出ることも許されず、巻軸一巻に反省文を書いては、毎日藍染に提出するようにとの罰も言い添えられた。
 何よりも反省が求められる期間である。冷やかしにくる側室達に何を言われようとも、ギンは言い返してはならないし、することがないからといって、怠惰な生活を送ることも許されなかった。論語や漢詩など、普段なら決して手をつけない類の書物を、山と読まされ学ばされ。早朝に起床し、早晩眠る。まるで修行僧のような生活を送ること一ヶ月。
 謹慎開けのギンは、一護の褥に呼ばれることとなった。
 翌日。
「ボク、一護ちゃんに、女の子にされてしもうた‥‥」
 と、赤ら顔で呟くギンがいたとか。
 何をしたか、されたのか、ギンは決して口を割らなかったという。側室達の妄想ばかりが膨らんだ、とある午後。大奥の庭の池にかかる橋の上に、藍染と冬獅郎が並び立っていた。
「顔の傷はどうだい?」
「ほとんど消えた。痕も残らないそうだ」
「若いというのは、いいね。ひとつの財産だよ」
 心配した一護が、毎日様子を見に来た甲斐があったのか、それとも祈ってくれた成果であるのかは分からない。白い頬には、今はうっすらと筋があるだけだ。
 人の気配を感じた鯉が、橋の下に集まってきていた。ぱくぱくと口を開けて、餌をねだってくる。餌袋をいつも携帯している一護とは違って、冬獅郎には手持ちがない。すると隣にいた藍染が、橋の欄干の上に落ちていた枯葉を掌で潰し、池に撒いた。鯉は餌だと思い込み、水しぶきを上げながら、我先にとぱくついた。
「ひでえことしやがる」
「馬鹿な彼らが悪い。上から与えられるものを、疑いもせずに受け入れる。人間と同じさ」
 波打つ水面を見下ろす藍染の横顔は、人の心など持っていないかのようだった。
「ところで、更木の男を認めたって?」
「ああ。外に味方を置いておいて、損はないだろう。お前達は、面白くないだろうがな」
「面白くないどころか」
 言葉を切って、藍染は沈黙した。鯉が悠々と泳ぐ池を見下ろし、しばらく黙っていたかと思えば、次には恐ろしい言葉を口にした。
「君が御台所でなければ、鯉の餌にしてやるところだ」
 まるで冗談には聞こえない台詞だった。背筋に嫌な汗が流れる。まだ実家にいた頃に聞いた、大奥に住む化け物の話を思い出した。
「だが、許そう。君は、まだ恋を知らぬほどに幼い」
「‥‥‥‥ガキだって言いたいのか」
「そうとれるのなら、自覚している証拠だよ。子供の身が歯痒いかい?」
 藍染がこちらを見る目は、鯉を見下ろす目と同じだった。後ろ盾にはなったが、それだけのこと。使えないと分かったら、言った通り、鯉の餌にでもするつもりだろう。常に首に刃を当てられている状態。大奥とは、そういうところなのだ。
「更木の男が邪魔になったら、いつでも言うといい。二人で、鯉の餌にしようじゃないか」
 ーーーまとめて鯉の餌にしてやる。
 冬獅郎の耳には、実際の言葉にはならなかった、藍染の本音が聞こえた気がした。

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