夕焼けの色が
好きだと言われて泣いた。
駄目だと言って泣いた。
強い力が横面を張った。
「班目第三席!?」
「なにも殴んなくてもっ」
十一番隊の隊員達はぎゃっと叫んで固まり、そして次には庇うようにして一角と一護との間に割り込んだ。しかし一角はそれらを押しのけ今度は一護の反対側の頬を平手で張った。
「ひいっ」
痛そうな音が響いて、殴られてもいないのに一護以外の隊員が悲鳴を上げた。
一護は頑迷にも踏ん張ってそれを甘んじて受けていた。苦痛の声は上げない。歯を食いしばり、結んだ唇の端からは血が滲んでいた。
「自分が何したか、分かってんのか」
「分かってる」
「てめえは俺ら全員の顔に泥を塗ったんだぞ。更木隊の名を汚したんだ」
「分かってる」
一角が拳を握った。今度は平手ではなく本気で殴る気だと察した隊員達が慌てて一角の腕に取り縋った。
「待ってくださいっ、こいつにも色々と訳がっ」
「こいつだって反省してますっ、な? そうだよな?」
必死に庇ってくれる同僚達に一護は唇を噛み締め何の反応も返しはしなかった。
「あの旅禍、こいつが生きてた頃のダチなんだそうです、だからっ、」
「だからどうした」
部下達を振り払うと一角は真っすぐに一護へと突き進み、胸ぐらを掴み上げた。
「てめえは誰だよ、あぁ!? 十一番隊の隊員だろうがよ!!」
強く突き放され、一護は数歩たたらを踏む。そして地面へと倒れ込んだ。
そのまま俯き一護は立ち上がろうとしない。駆け寄ろうとした隊員達を一角が目で制し、威圧感を込めて見下ろした。
「てめえは降格だ。第四席が聞いて呆れる」
それを聞いてざわめき庇う言葉を発する隊員達を一護は無表情に見つめていた。常とは違う様子に、周囲だけが戸惑った。
「‥‥‥‥下っ端からやり直せ。そんでまたのし上がってこい」
渋々と吐き出された言葉。言うつもりなど無かったのに、と一角がぶつぶつ呟いていた。
そして険しい視線を和らげ、一角はしゃがみこんで一護の顔を覗き込もうとした。
「一、」
「その必要はない」
「あん?」
「俺は、間違ったことなんてしてない」
「ーーーてめっ」
一護は顔を上げ、そして言おうと決めていた言葉を言った。
「俺は、死神を辞める」
「一、護?」
目の前を走るのは、自分の手を握って走っているのは、まぎれもない、数年前に死んだ友人。
「喋ってねーで足動かせ!!」
振り返らずに怒鳴った友人は、姿形何も変わっていなかった。
少し低い声、オレンジ色の髪、何も変わっていない。
背後からは「黒崎てめー何考えてるっ!?」とか「手柄独り占めか!?」とか「隊長にチクるぞコラァ!!」とか。
一護は死神だ。その証である、死覇装。
チャドはわずかに逡巡し、それから手を握り返した。
「お。やっと状況が分かったようだな」
それにはチャドは無言を通した。まだ、分からないことだらけだ。
一護が死神だということは自分は旅禍で、つまりは敵同士。けれど一護は今、自分の手を握って逃げてくれている。これがどういうことかなんて友人だったから分かる筈だ。
分かる筈なのに。
「いいのか?」
「何がっ」
喋るなと言われたが聞きたいことが山ほどあった。
「後ろの、仲間だろう」
「まぁな。でも、いいんだ。お前のほうが大事だ」
息も切らさずにそう言う一護は何も変わらない。
「やべっ、行き止まりっ」
慌てた様子で一護は立ち止まる。チャドもそれに倣って立ち止まった。
足を止めて並んでみれば、一護はこんなに小さかったかと驚いてしまう。けれど違う、大きくなったのは自分だと気がついた。
変わらない、一護。
「仕方ねえ」
背中の斬魄刀を取り、一護は構えをとった。迫り来る仲間の死神とやり合うつもりなのだとチャドは察した。
「おい、」
「大丈夫だ。俺まだ死神に成り立てだけど、あのオッサンどもには負けねえよ」
荒くれ者達を目の前にして一護は余裕の表情だった。追いついた仲間の死神達も、やる気の一護を見てとると一様に表情を引き攣らせる。
「ボコボコにされたくなきゃそこどきやがれ」
「お前何考えてんの!?」
「そーだそーだ! 更木隊が旅禍助けてどーする!!」
「黙れブサイクども!! ダチ助けねえで何が更木隊だっ」
一護の啖呵に誰も彼もが困惑に表情を歪めた。チャドも同じく、どうしてそこまでと、唇を噛み締めた。
一護は変わらない。昔のままだった。
「チャド、チャドっ」
「何、だ、」
「ボケっとしてんな。俺があのブサイクどもの相手してる間に逃げとけよ」
そう言って、にやりと笑った一護は、あの日約束したそれと重なった。
「よっしゃ、行く、ぜぇ!?」
最後の言葉が裏返り、一護は視界がぐるりと回るのを感じた。
見えるのはチャドの背中。まるで米俵のように担がれていた。
「こっちのほうが早い」
行き止まりなら壊せばいい。
チャドは壁を撃ち抜き、土煙に紛れてその姿を一護とともに眩ませることに成功した。
「ははっ、親父のやつ、いい歳してまだ変な恰好してんのかよ」
けらけらと笑う一護は幼かった。
「高校生活どうだ?」
「ム‥‥‥‥バンドをやってる」
「恰好良いじゃん」
「‥‥‥‥‥‥ム」
「変わんねえなあ、お前」
一護も。
そう言おうとして、言えなかった。
「ルキアだろ。探してんの」
「知ってるのか?」
「こっからでも見えるだろ、ほらあれだ。あの塔にいるんだ」
指差した先に見える白い塔。
「牢の鍵も手に入れてある。行くか?」
「お前、」
一護は笑った。にやりとしたその笑みは、派手な喧嘩を前にして浮かべるチャドにとっては馴染みのもの。
「一緒に泣いたんだ、俺達」
突然に脈絡の無い話をする癖は知っていた。けれど、今の一護が浮かべる表情は、チャドは一度も見たことがない。
「かたや大貴族のご令嬢と、かたや十一番隊の悪ガキ。でも不思議と気が合ってな。最初はどうでもいい話してよ、あの雲が美味そうだとか形がチャッピーに似てるとか、そういうほんと中身の無いことばっか」
逃げ隠れたのは寂れた倉。一護の静かで沈んだ声が壁へとぶつかり木霊した。
「気付いたら二人して泣いてた。あいつはあいつで俺は俺で色々あって、何があったとか話したりしなかったけど、でも悲しいのは一緒だったから。わあわあ泣いて、そんで最後には笑って別れてた」
何かを思い出すとき、一護の視線は足下のやや右斜めに注がれる。今もそうだった。
チャドの知る一護は目の前にいるというのに、違うと訴える声が頭の隅で響いていた。
「顔合わせちゃ泣いて笑って、色んな話した。楽しい話だけ。あいつには幼馴染がいて、俺にはチャドがいた。だからあいつ、お前のこと知ってただろ?」
「‥‥‥‥どうりで、」
名を名乗ったとき、ルキアはあんなにもこちらを凝視してきたのか。
「ルキアが捕まって、俺はあれからなんかこう、よく言えねえけど、どうしても調子が出ねえんだよ。あいつといるときは泣けたから、だからそれ以外じゃ何があっても笑うことができた。なんかさ、泣くのは二人のときだって体が覚えちまったみてえなんだ」
「親友」
「うん。お前と俺みたいな感じなんだ。なあ、約束覚えてるか」
覚えていた。
一護のほうも覚えていたこと、それに驚いた。
「お前の為に殴ってやるって約束しただろ。俺はルキアの為に、そうしてやりたいんだ」
「‥‥‥‥‥そうか」
一護、一護、知っているか。
お前が死んで、この拳に意味が無くなったこと。お前の為の拳、もういらないと思っていたこと。
「誰かの為に、か。お前らしい」
ここにいる。
一護の為に拳を振るえる。それが誇らしいと感じた気持ち、それが変わっていないことに安堵した。
「お前は、やはり変わっていない」
そうだ、変わっていない。
同じ場所に、いた。
「応えて、やれなかったんだ」
牢に入れられた一護は自嘲気味に笑って言った。
「応えたかった」
「なんて?」
「‥‥‥‥俺も好きだ、って」
「‥‥‥‥そう」
クスクスと、今度は押さえきれないように声を漏らして一護は笑った。その目には、薄ら滲む涙。
「死んでから気付くなんて、馬鹿だよな」
「そんなことないよ」
「ひでえよな。誰だよ、こんなことしやがって、」
「いっちー?」
「今になって、両想い? っハ、ひどすぎるだろ‥‥‥」
笑って言う、その言葉。
一護はずっと笑っていた。
「言っちゃ、駄目なの?」
どうして言わなかったのかとやちるが聞けば、一護は一層深く笑った。
「違ってたんだ」
「何が?」
「場所が」
とんとん、と叩いた牢の床。
「手も握った。温もりも感じた。けどな、同じ場所にはいなかったんだ」
「分かんないよ」
やちるには理解できない。手も握って温もりを感じて、好きだと思ってなお、違う場所にいるという。
「死んだら終わり」
つ、と指を滑らせる。行き着く先は何も無い。
「想いが残って苦しめる。会えたらもっと苦しめる。死んじまったらもう二度と同じ場所には立てねんだよ、やちる」
「‥‥‥‥いっち、」
「泣くな」
「っ、でも、」
「泣くなよ、俺までそうしたくなるだろ。ああだから泣くなって、泣くな、泣くな‥‥‥‥」
笑えと言われた。
自分がいなくても笑っていてくれたら嬉しいと、そう言われた。
「チャド‥‥‥‥っ」
斬られた。
「チャドっ、おいっ、」
斬られた!
唇から血を流し、くらむ視界を乱暴にでも振り払う。そうして一護は這いつくばってチャドの傍へと行こうとした。
「やめなさい」
「チャド!!」
「やめるんだ!!」
強く肩を押さえつけられた。
この男が女に対してこうも乱暴に振る舞うのはこれが最初で最後だろう。一護は殴られた頬の痛みを忘れ、京楽を睨み据えた。
「ごめんよ」
「離してください」
「手加減できなかった」
「離せって言ってんだろ!」
それはいったいどちらへ対しての謝罪だ。自分は、京楽に殴られたことなどどうでもいい。
ただ目の前で血を流して動かない人がいる。
「触れちゃいけない」
「なん、でっ、」
「彼は旅禍だ」
「知ってるっ、俺の親友だ!」
「違うよ」
否定された。
否定された?
「‥‥‥‥何が、違う、」
「親友だった、だろう?」
その瞬間、すうっと冷気が喉を通り過ぎていった。
「違う」
「君はもう彼岸へと渡ってしまったじゃないか。そうなれば、すべてが過去になる」
「違う」
「死人に口無し。本当なら会話すら、交わしちゃいけないところなのに」
「違う!」
「京楽隊長、」
七緒がたまらず止めにはいった。
一護が、今にも事切れそうな顔をしていた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥ちがう、」
しかし、もう分かってしまった。
その一言で、もう分かってしまったのではないのか。
「チャド」
そう呼ぶのは自分だけだった。茶渡という名前をチャドと呼んで、しかし現世のクラスメイトもそう呼ぶのだそうだ。
自分だけの、呼び名。
「チャド」
這って進む一護を、今度は誰も邪魔できない。一瞬伸びた京楽の腕を、七緒が後ろから引き止めていた。真っ青な顔で、駄目だと首を振って引き止めていた。
「チャド」
辿り着く。
中学生のときよりも逞しくなった体。触れたら暖かかった。
指を絡める。子供の手と大人の手。
癖のある髪を撫でた。喧嘩した後は、自分が直してやっていた。そして自分の髪はチャドが。
「チャド‥‥‥‥っ」
死んだら過去か。
誰か否定してくれ。そうではないと、死んでも何も変わらないと。
ここにいて、少し離れてそこにいる。今は重なるようにして一緒にいる。
同じ場所にいるのだと、誰か言ってくれ。
「一、護、」
わずかに動く。
「チャド?」
もう一度名を呼ばれた。今度はしっかりと。絡めた指に力がこもり、それぞれがぎゅっと握り合う。
生きてる。
そう、生きてる。
「チャド‥‥‥‥‥」
だから。
「さよならだ」
「‥‥‥‥‥なに、」
「さよなら、チャド」
赤く色を増す空を一人、眺めていれば。
「一護」
「よお、ルキア」
草以外には何も無い野っぱらで、二人はまるで示し合わせたかのようにかち合った。
「聞いたぞ、お兄様と仲直りしたってな」
「別に、最初から喧嘩などしておらぬ」
すとんと草の上に腰を下ろし、二人して空を見上げた。
「色々あったなー」
「うむ、色々とあったな」
無罪放免、とまではいかなかったが今のルキアに枷は無い。
「死神を辞めると聞いた」
「んだよ、いきなり」
「どうなのだ」
「‥‥‥‥‥‥辞める。辞めたい」
本当なら今既に自分は死神ではない筈なのに。
「でも辞めるなってさ、辞めさせてくんねーの」
「そうか」
「皆、勝手ばっかりだ」
ぶちりと草を引き抜くと一護はそれを風に乗せた。あっという間に見えなくなる。
「きゅうこん」
「なに?」
一護が引き抜いた野草の先には、球根。
「求婚、てやつか。されたんだ」
「誰にだ!?」
煩い、と一護は眉を寄せた。食いついてくるだろうと思っていた。一護は球根付きの野草を放り捨てると一人二人と指を折った。
「えぇと、‥‥‥‥‥あぁ分かんねえ」
「覚えておらぬのか貴様は」
「うっせ。‥‥‥‥でもなー、それもいいかも、なんて」
「自棄になるなよ」
一護は笑った。つられてルキアも笑う。
しばらく無言でいる二人へと、風がときおり強く吹く。
「このまま流されていきそうな俺がいる」
「なんだ、いきなり泣く奴があるか」
「死にたい‥‥‥‥っ」
しゃくり上げる一護の背中をルキアは無言で撫でてやった。
いつもならどちらかが泣けばもう片方も泣いてしまう。あの頃は、辛いことが多すぎた。
しかし今のルキアの目に涙は無い。
「泣け。うんと泣いてしまえ」
「嫁に、来いとかよー、ふざっ、けんなぁっ、つけ込んでんじゃ、ねえよっ」
「そうだな、そんなにお安くないな」
「俺の作った味噌汁、食いたいとか、作れねーっつの、」
「作れんのか」
私でも作れるぞというルキアの台詞に、一護は反論もせずにただ泣いていた。
「一護、チャドは」
「ぉおお、お前っ、今言うか!」
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げて一護は初めて生気のある声を発した。
やはり、とルキアはひどく胸を打たれた。
「好きなのだろう?」
「昔っ、な!」
がしがしと乱暴に涙を拭い、一護はぐっと天を仰ぐ。
「むかし‥‥‥‥‥」
ほろ、と涙が零れ。
「たわけ。今も、ではないか」
「‥‥‥‥‥ん。あぁ、今もだ、今も、は、ハハハ」
今度は笑って涙を流した。
そんな一護の頭を引き寄せ、ルキアは胸を貸してやる。
「今日ほど豊満な胸が欲しいと思ったことはない」
「諦めようぜ。俺ら貧乳は一生貧乳だからな」
「そうだな、一生。裏切るなよ、一人だけでかくなってみろ、絶交だぞ。‥‥‥‥しかしそれ以外なら何があろうとも、私達は親友だからな」
オレンジ色の髪が頷く。
それから堰を切ったかのように、一護は声を上げて泣き出した。
風に舞い上がる、草に嗚咽にそれから想い。飛んでゆけとルキアが呟き、一護は一層声を上げた。
東からは暗闇が。
「‥‥‥‥‥チャド、」
夕焼けを塗りつぶしていった。