子守りはつらいよ

  09  


 出会い頭に衝撃が襲った。
 グリムジョーの体は廊下の端まで吹き飛ばされ、派手に壁へと打ちつけられる。何が起こったのかを理解する前に、視界に入った男に向かってグリムジョーは飛びかかっていた。しかしぶつかり合う寸前、背後から何者かに羽交い締めにされた。
「テスラ、そのままふん縛れ」
「承知しました」
 両手を後ろ手に拘束される。カチリと音がして、腕がびくともしなくなった。どんなに霊圧を上げても弾かれてしまう。
 グリムジョーは殺気を込め、目の前の相手を睨みつけた。
「ノイトラっ、てめえ、どういうつもりだ‥‥っ!」
 攻撃を避けられなかった自分も腹立たしいが、不意を狙って襲いかかってきたノイトラのほうが遥かに憎しみが勝る。ただではおかないと詰め寄ったとき、不意に膝裏を蹴られ、グリムジョーは床に倒れ込んだ。
「無様だなァ。まあ、そうしてるのがてめえにはお似合いだ。犬は床でも舐めてろ」
「猫の間違いでは?」
「あぁ、そういやそうだったな」
 訂正を入れたテスラの足は、グリムジョーの背中を踏みつけていた。踵が背骨に食い込み、容赦無く苦痛を与えてくるが、呻き声を上げることはグリムジョーの誇りが許さなかった。
「なんだ、その目は? 構ってほしいのか?」
 ノイトラの尖った靴先が、グリムジョーの顎を持ち上げる。屈辱的な扱いに、目の前の男を殺してやりたい欲求が膨らんだ。嵌められた拘束具が手首に食い込み血を零す。
 殺す。絶対に殺してやる。両手を引き千切ってでも、ノイトラの息の根を止めてやる。
「俺を殺してえって顔をしてるな」
「‥‥‥あぁっ、今すぐにっ!」
 ノイトラの足裏にわざと顔を押し付け、グリムジョーは狂喜的な笑みを浮かべて言った。同時に、拘束具が悲鳴を上げる。背中から、テスラの焦った気配が伝わってくる。お前は後だ、先にノイトラを殺してから。
「いいぜ。やってみろよ。‥‥‥一護にそうしたようにな」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。鋭い弧を描くノイトラの目を見つめ返し、グリムジョーは言葉を失った。頭に上った血が、すうっと引いていくのが分かる。
 表情を消したノイトラが足を離し、グリムジョーの顔を覗き込んできた。
「てめえはあのときから何も変わっちゃいねえ。馬鹿のまま、図体だけでかくなっただけだ」
 何も言い返せなかった。まさにその通りだと、グリムジョーが一番よく知っていた。
 ノイトラの舌打ちが、人気の無い廊下に響く。直後、グリムジョーは前髪を鷲掴みにされ、乱暴に引き起こされていた。
「来い。一護が待ってる」
 一護。
 その名前に、グリムジョーの体が大げさに反応した。一護を壁に叩き付けた手が、今になってぶるりと震えた。



 ベッドの上で、一護は静かに眠っていた。
 まるで死んでいるようだった。あのときみたいに、ぴくりとも動かない。
 グリムジョーは踏み出しかけた足を止めた。これ以上、前に進めなかった。
「行けよ」
 背中を蹴られ、グリムジョーは前のめりに倒れ込んだ。両手は拘束されたままで、かろうじて足を動かした結果、一護が眠るベッドの縁にぽすりと顔だけが着地した。
「‥‥‥ノイトラ?」
 振動に一護が目を覚ます。眉間に皺を寄せながら、ゆるゆると瞼を押し上げた。苦痛に顔を歪めながらも伸ばした手が宙を踊る。それをノイトラが握り込み、己の唇に寄せた。
「ここにいる」
「‥‥ん、そうか、‥‥グリムジョーは、連れてきてくれたのか?」
 一護の指が、ノイトラの薄い唇をなぞり、頬のラインを確かめるように滑っていった。ノイトラは細い目をさらに細め、一護の指を心地良さげに受け入れていた。
 あのノイトラが、されるがままでいることがグリムジョーには信じられなかった。本心はどうあれ、一護にはいつも反抗していた男だ。それがまるで手なずけられた獣のように大人しくなっている。
 今にも口付け合いそうな親密な空気が、グリムジョーの怒りを煽った。知らず拳を握りしめると、拘束具がじゃらりと鳴った。
「っい、いたのか!?」
 上擦った声を上げ、一護はすぐそこにあったグリムジョーの顔に驚いていた。目に入らないほどノイトラに夢中だったのかと勘繰ってしまう。
「‥‥‥ノイトラ、二人だけにしてくれ」
「褒美は?」
 自然な動作で顔を寄せるノイトラから、慌てて視線を逸らした一護の顔は耳の先まで赤くなっていた。
「‥‥‥褒美は、後だ、‥‥後で、部屋に」
 ノイトラの唇が吊り上がった。ベッドから離れる際、一護の首筋を細い指が撫でていった。
 一護とグリムジョー。二人だけになった室内は、しばらく沈黙が続いた。グリムジョーは、はなから言葉を発するつもりは無かった。ただふてぶてしい表情で一護を睨みつけていた。
「手、痛いだろ。外してやる」
 顔の赤味が収まった頃、一護が優しく声を掛けてきた。グリムジョーは無言で背中を向けた。拘束具が硬い音を立てて床に落ちたのを聞くと、すぐさま立ち去ろうとしたが、一護がそれを許さなかった。
「行くな。話がしたくて呼んだんだ。だから、行くな」
「‥‥離せよ」
 グリムジョーの服の裾を、一護が掴んで離さない。痛みに顔を顰めながら体を起こし、グリムジョーを必死に引き止めていた。その手が、今度はグリムジョーの腕に触れる。ほっそりとした指の感触、柔らかい印象に、グリムジョーの頭にまたカっと血が上った。
「離せっ!!」
 その一瞬だけ、頭が真白になった。気付けば一護は、また動かなくなっているんだ。
 お終いだ。真白になった頭の中で叫ぶ声が聞こえた気がした。
「大丈夫」
 気付けば、グリムジョーの視界には何も映らなくなっていた。代わりに、不思議な音が聞こえる。トクトクと規則的に鳴る音だ。どこかで聞いたことのあるような懐かしいそれに、グリムジョーは耳を傾けた。
「グリムジョー。大丈夫だ」
 大丈夫、大丈夫、と優しい調子の言葉が上から落ちてくる。何か温かくて柔らかいものが、グリムジョーの体を包み込んでいた。恐る恐る手を動かして、その存在を抱きしめた。
 一護だ。
 一護の胸に抱かれている。叫び出したくなるような衝動が、グリムジョーを襲った。
「俺っ、」
 真白な寝台。その上に横たわって、いつまでも目覚めない一護の姿が、脳裏に甦った。
「疲れているんだよ」と言って、部屋を出ていった藍染を思い出す。どうして傍にいないのだろうと不思議だった。一護のこと、大切じゃないのかって。
 ウルキオラが呟いた。お前のせいだ、と。
 虚ろな目だった。手をかざして、虚閃を放とうとしていた。
 光に包まれる視界の中、グリムジョーは動かなかった。動けなかった。そのまま、光に貫かれようとしていた。
「グリムジョー」
 放たれる寸前。一護が目を覚ました。
 うわ言のように同じ名前を繰り返し呼んでいた。あのときもそうだ、大丈夫かって、俺の顔を見てそう言ったんだ。
 我慢できなくなって、泣いた記憶。
 それらが胸を満たしていく中、グリムジョーは心臓の音を聞いていた。一護が生きているという証拠。安堵に力を抜くと、よりいっそう一護にもたれ掛かった。
 頼もしくて大きく感じた一護の体は、随分小さくなっていた。

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