「どうして、戻ってきたの」
忌々しい。
「ちくしょう‥‥」
チルッチはぎりりと爪を噛んだ。毎日綺麗に手入れをしていた爪はもうボロボロだった。
すべて奪われた。十刃としての地位も名声も、全部。崩玉によって新たに生み出された破面達は、悔しいが自分よりも遥かに強い。
チルッチの従属官は去り、それに対して怒りよりも笑いがこみ上げた。堕ちたものだ、自分の情けなさに笑いが止まらなかった。
「チルッチ様‥‥」
新たに与えられた宮に、チルッチは一人の筈だった。それなのに懐かしい、かつての従属官の声が聞こえる。
「チル」
「やあやあチルッチ! なんだねっ、辛気くさいねっ、腹でも下したかい!? そんな短いスカートを履いているからだよ!!」
ずかずかと入り込んできたのは同じく三桁に落とされたドルドーニだった。今のは聞き間違いか、チルッチがげんなりしたとき、ドルドーニの巨体の向こうからオレンジ色が見えた。
「どけっ、邪魔だ!!」
「おぉうっ、痛いよ子鹿ちゃん!」
「誰が子鹿だっ、それに勝手にチルッチ様の部屋に入るんじゃねえ!」
「君だって入ってるじゃないか」
「俺はいいんだよ、チルッチ様の従属官なんだからな!」
ドルドーニを押しのけて、オレンジ色の破面は嬉しさを隠しきれない顔でチルッチに駆け寄ってきた。
「お久しぶりです」
「‥‥‥‥‥どうして?」
「え? あぁっ、すいません、遅くなったのはこの宮がどこにあるのか分からなくて、それで、」
「迷子になっていたのだよね? そして罠に掛かってひいひい言ってる子鹿ちゃんを騎士の如く救い出したのがこの吾輩さ!!」
胸を張って格好をつけるドルドーニに興味は無い。それよりもオレンジ色の破面だ。チルッチは驚愕醒めやらぬ表情で、かつての従属官の名前を口にした。
「一護、あんた、新しい十刃のところに行ったんじゃなかったの?」
自分の下についていた従属官達は、十刃ではなくなったチルッチに見切りをつけたのだ。それを引き止めるというみっともない真似はしなかったし、そうされることが当然のことだと思っていた。
だから、こうして自分の元に駆けつけてくる一護が信じられなかった。
「どうして? 俺は、貴方に忠誠を誓ったのに」
「本当なら吾輩に誓ってほしかったのに」
「「オイ、髭、黙ってろ」」
一護とチルッチの声が重なった。相変わらず息が合うね、とドルドーニに言われ、以前と変わらない志で一護がここにいるのだと分かってしまった。
そう理解した瞬間、言い放っていた。
「出てって」
思った以上に冷たい声が出た。一護は最初何を言われたのかも分からずに、きょとんと目を瞬かせていた。しかしすぐに顔を青ざめさせるとチルッチに詰め寄った。
「どうしてっ、」
「鬱陶しいのよアンタ。せっかく一人になれて清々してるっていうのに、どこまで迷惑かけるつもり?」
「そんなっ、チルッチ様、参上が遅れたことを怒っていらっしゃるのですか、それならいくらでも謝りますっ、」
「どうでもいいわよそんなこと。あんたの顔なんて二度と見たくないって言ってんの」
見下すようにそう言って、しっしっと手を払う。先ほどから意味ありげな視線で自分を見ているドルドーニが気に食わなかった。
「二度と、ここには来ないで。顔も見たくないわ」
一護が何か言おうと口を開く。しかし何度か開閉するだけで、何も言ってはこなかった。俯いて身を震わせ、何かに耐えるように拳を握っている。
「いつまでそこにいるのよ。目障り。出てって」
もう一度きつく言った。一護がぱっと顔を上げる。
その顔は涙に濡れていた。
「チルッチさま‥‥」
ゆっくりとチルッチの名前を口に乗せ、それから一護は踵を返して駆け出していった。
その後ろ姿を見えなくなるまで追った。一護。ああして人間みたいに泣いて怒って笑って、破面にしては優しくて。そんな一護を、従属官の中でも特にチルッチは可愛がっていた。
特別な、子だった。
「いいのかね?」
ずっと黙っていたドルドーニが声をかける。お前も出てけとチルッチが鋭い視線を送ったが、一笑されるだけだった。
「追わないのか。吾輩が奪ってしまうよ」
「好きにしろ」
「本当に? 君が大事に護ってきたあの子のすべてを吾輩のものにしてしまってもいいと言うのかね?」
「クドい」
十刃の頃から一護に求愛していた男だ。きっと大事にするだろう。
「ふぅむ‥‥。しかしねえ、弱っているところにつけ込むのは紳士道に背く行為だよ。いつもの子鹿ちゃんをオトしてこそではないかね?」
「一護を見るたびに鼻息荒くして飛びかかってたアンタが紳士?」
「そうだよ、紳士だ。そしてその度に吾輩を追っ払っていた君はまさしく魔女だった」
一護が出ていった扉の先を見て、ドルドーニは深く溜息をついた。
「チルッチ・サンダーウィッチ。以前の君はどこに行った?」
「あァ?」
「どうせ誇り高い君のことだ、子鹿ちゃんのあまりの忠節ぶりに、今の自分が恥ずかしくなったというところだろう」
随分と知った口を利く。
以前なら問答無用で掻っ斬っていたが、今はそんな気にもなれなかった。ただ惨めだった。
「‥‥‥‥悪い? 十刃だった昔のあたしこそがあの子に相応しいのよ。それなのに、今のあたしは何?」
もう体のどこにも数字が無い。三桁などという不名誉な称号を与えられ、そんな自分が以前と同じようにあの子を配下に置く。
信じられない。吐き気がする。
「冗談じゃないわ、そんなの、許さない。こんなの、あたしじゃない‥‥‥っ」
信頼の籠った目でチルッチ様と呼ばれたとき、一護の目の前に立っている自分がどうしようもなく恥ずかしくなった。
嫌だ、見ないで、こんなあたしを見ないで。
「くだらない」
ドルドーニがやれやれと肩を竦める。やっぱり掻っ斬ってやろうか。
「今の君が君なのだよ、チルッチ・サンダーウィッチ。子鹿ちゃんは十刃から落とされた君を捜してここまでやってきたのではないのかね。君がどんなに屈辱に塗れようが、子鹿ちゃんにとっては君は君でしかない。難しく考える必要は無いと思うがね」
気障ったらしくそう言うドルドーニも同じく十刃を落とされた身だ。それなのに相も変わらず一護の尻を追いかけている彼には羞恥心というものは無いのだろうか。
ドルドーニは少し笑うと答えてくれた。
「さすがに吾輩も打ちのめされたさ。この繊細な心は今も血を流し続けているよ。けれど子鹿ちゃんは以前とまったく変わらぬ態度で吾輩と接してくれた。それを見ているとね、なんだかこう感動とともにムラムラとしてきて」
「本能に負けただけでしょ」
「違うっ! とにかく吾輩が言いたいのはだねっ、恥じる必要は無いということだ。少なくとも、子鹿ちゃんに対してだけはっ」
ドルドーニはそう力説すると、扉のほうへと視線をやった。
「君が羨ましい」
そこには一護がいた。不安そうな面持ちで、立っていた。
「以前の自分ではないというのなら、少しは誠実になってみるといい。‥‥‥‥今度追い返すような真似をしてみろ、吾輩が頂く」
最後だけ凄みを利かせて、そしてドルドーニは別の扉から去っていった。
二人きりになった宮で、沈黙が続く。どれほどそうしていただろうか。固い床に、カツリと足音が鳴った。
「一護」
チルッチは、静かに歩み寄った。