別れで始まる恋もある 03
『あの雲があの樹に届いたら、一緒に帰りましょうね』
流れる雲を睨みつけ、そして一護は大きく息をついた。
「自己嫌悪に陥るくらいなら謝ってきたらどうじゃ」
「誰が謝るかよクソジジィ」
瞬間、一護がいた場所に杖が振り下ろされた。
「危ねえな!」
「儂がクソジジィならおぬしはクソババァじゃ!」
実年齢はそう変わらない。けれど一護は生徒の中に紛れることができるほどにその外見は若々しかった。
一護は一人の時間を邪魔された苛立ちから誤摩化すように煙管を取り出し火をつけた。校内は禁煙だがそれを言えば会話が成立しないので、元柳斎は黙って一護の動作を見守っていた。
「あのガキ、」
「十四郎か」
「余計なことを吹き込んだな。あれから目を合わせればすぐに逸らしやがる」
鋭い流し目を送れば元柳斎は飄々とした態度で肩をすくめてみせた。一護は舌を打ち、苛々と紫煙をはきだした。
最近刻み煙草の減りが速い。一週間分が三日で無くなっていた。
「目をかけるのはお前の勝手だけどな、俺のことを好き勝手に話すのはやめろ」
「なぜ」
カリ、と煙管の吸い口を噛む音が響いた。
一護は無表情だがその内心憤っていることを元柳斎は見抜いていた。
「なぜ? 重國、ボケやがったか」
「無理して尖るのはよせ。今のおぬしはまさにガキの振る舞いそのものじゃ」
今度は一護の煙管が元柳斎のいた場所を薙いだ。擦りもしなかったことに一護は眉を顰め、後ろに移動した元柳斎を顔だけで振り返った。
「避けんな。昇天させてやる」
「ごめんじゃ」
ここに一護の斬魄刀があれば戦闘になっていただろう。しかし今持っているのは螺鈿細工の煙管が一本。これでは戦いにならないと、一護は元柳斎に背を向けて再び座った。
その後ろ姿を眺めて元柳斎は痛ましげに目を細めた。
そうやって座り込み、空を眺める一護の姿は護廷ではよく見られたものだった。そしてそんな一護を迎えにくる副官の姿も。
けれどそれはもう二度と見られない。
一護を迎えにくる者は、もう誰もいない。
今日は風が弱い。
雲はのろのろと進んでいた。一護の目の前にある背の高い樹を追い越すのには当分時間がかかるだろう。
一護は目を瞑り、そして周囲の音に耳を澄ませた。鳥の鳴き声が聞こえ、二羽が戯れるように羽ばたいているのが想像できて、自然と唇が綻んだ。
思い切り息を吸い込んで肺に煙を入れた。体に悪いことは分かっていたがやめられないのだ。気付けば胸の中がもやもやとしていて、それが何なのか知りたくもなかった。だから煙草で誤摩化して、肺も胸も心の中も煙でいっぱいにした。
そして吸い込んだ煙を一気にはきだした。そうすれば少しだけれど、気が楽になれた。
「ぅわっ、ゲホっ、煙い‥‥‥っ、」
頭上から聞こえた声に一護は驚いて目を開けた。誰かの接近に気が付かなかった自分が信じられず、慌てて立ち上がった。
「‥‥‥‥浮竹、」
「ゲホ、はい、ぅえっ、まともにっ、」
まともに吸い込んでしまったらしい。ゲホゲホと咳き込む浮竹を呆然と眺め、一護の心臓はどきどきと鼓動を打っていた。それは決して驚きのせいではない。どうして気が付かなかったと、不吉な何かが一護の鼓動を速めていた。
「はぁ、ああ、疲れた」
咳き込みすぎて疲労困憊の浮竹は目に涙を浮かべて一護に向き直った。一護は何か得体の知れないものでも見るかのように、浮竹をじっと注視していた。
「元柳斎先生にここだと聞いて」
にこりと笑ったその顔は屈託が無くずっと避けていたのにどういう心境の変化だと一護は訝しむ。また元柳斎が何か余計なことを言ったに違いないと思い当たり、失せろと睨みつけてやった。
「ああそうだ、飴いりませんか。口寂しいなら煙草よりも飴のほうが断然体にいいですよ」
一護の睨みをさらりと無視して浮竹は懐から飴を取り出し差し出した。だがそれを乱暴に払い、一護は胸ぐらを掴み上げた。
「馬鹿にしてんのか、あぁ? 今度は手なんか抜いてやらねえぞ」
「誰も、馬鹿になんかしていないし、それから手を抜いてくれなんて、言った覚えはありませんっ、」
舌を打ち、一護は浮竹を突き飛ばした。どうしても真正面から浮竹の目が見れない。そして浮竹からも、自分を見られることが我慢ならなかった。
そして取り落とした煙管を探す為に視線を彷徨わせれば、それは浮竹の手の中にあった。
「おい、」
「少し話をしませんか」
「話ってのは互いが対等であって初めて成立するもんだ。お前じゃ無理だな」
「貴方はどうしてそういう言い方しかできないんですか」
不快だ、という表情で浮竹が言い返せば一護が皮肉げに笑ってみせた。
「山本から色々と聞いたんだろ。同情でもしてるのか、ぇえ? 怒りゃしねえから本当のこと言ってみろ」
笑みの中に底知れぬ怒りを感じとり、浮竹は息を呑んで後ろに退がろうとした。しかし寸でで留まり、拳を握りしめると一護の目の前に立った。
「同情はしていません。ただ、悲しい話だと思いました」
「‥‥‥‥それで?」
その目が嫌だと思う。どうして自分を真っすぐに射抜くのか。
けれど逸らすことは自分の矜持が許さなかった。
「貴方は乱暴で、いい加減で、口が悪い」
脈絡の無いそれに一護は面食らったが、それでもにやりと口元を吊り上げ、続きを促した。
「気に入らないことがあればすぐに暴力で黙らせて、聞きたくないことには耳を塞ぐ。貴方は、子供のようだ」
「中々言うな。それから?」
所詮はガキの言うことだ。一護は真面目にとることはしなかった。適当に聞いて、受け流す。
明日には会話したことすら忘れているだろうとそのとき思っていた。
「それから、貴方は、貴方の背中はとても小さくて、俺は気付いたんです」
一度言葉を切り、そして言った。
「貴方はとても寂しいんだ」
言い終わるその瞬間、浮竹は頬を打たれていた。後からじんと痛みが襲い、その衝撃に一歩よろめいた。
見ると一護は余裕の表情をかなぐり捨てて荒く息をついていた。わなわなと体が震え、無礼な言葉を吐いた男を憎悪の視線で貫いた。
「よくも、そんなことが言えるっ」
何も知らないくせにと、心が怒りで荒れ狂っていた。
「俺が、寂しいだと?」
「‥‥‥そうです、貴方は寂しいんだ」
その言葉に一護は怒りを煽られ、食いしばった奥歯から軋んだ音がした。頬の筋肉が痙攣し、激情のままに拳を振り上げた。
「貴方は子供だ。だったら素直に泣けばいいんだ。それを、いつまでもうじうじと、」
「黙れっ」
落ち着け、落ち着け。
一護は振り上げた拳を握りしめ、静かに下ろす。怒りがとぐろを巻き、少し突けば目の前にいる男を殺してしまいそうだった。爪が肉に食い込み血を流す、それを見て冷静になれと自分自身に言い聞かせた。
「‥‥‥‥くだらねえ」
煙管などどうでもいい。一護は踵を返す。ここにはいたくない、いられなかった。
「待ってくださいっ、逃げるんですか」
そんな挑発には乗らない。一護は歩を進め、その声を無視した。
早く一人になりたかった。
寂しくなど、ない。
「待ってください、せめてっ、」
腕を引き寄せられ、そして一護はあの言葉を再び耳にした。
「せめてあの雲があの樹に届くまで、俺と一緒にいてください」
その言葉に一護は立ち止まり、そっと空を見上げた。
流れる雲、それがあの樹に届くまで。
「‥‥‥‥‥先生、」
ただ静かに、一護は涙を流していた。