眼鏡祭
04 もう二度と
心の雨はいまだ止む気配を見せない。
そう嘆く斬魄刀の手入れをして、一護は縁側にごろりと寝そべった。
良い天気だ。こんな日は誰かが自分を誘いに来て。
そう考えてやめた。雨が酷くなる。
眼鏡を取って欠伸を一つ。きっとこれからもずっと、同じ日々が続く。
「どうしたの、凄い隈だよ」
前方から声をかけられて、相手が弓親だと気がついた。一護はへらりと笑い返すが途端に頭痛で眉を顰めた。
「二日酔い?」
「昨日、草鹿副官に、」
突然家に来たやちるに引っ張られて行った場所は居酒屋だった。上司の恋次、加えて他隊の副官までいた。夜通し飲まされていつ家に帰ったのか一護は覚えていない。
「正体を無くすまで飲んだのは、久しぶりで、」
特に凄かったのは十番隊の副官だった。会ったことも無いのに飲め飲めと、もう二度と行かないと一護は零した。
「顔色悪いよ。そこに座れば?」
木の下に腰を下ろせば背中を撫でられた。気の利いた男だ、一角ならこんな真似は思いつきもしないのではないのだろうかと考えた。
しばらく膝に頬を預けて一護は微睡んだ。
そしてふと目を覚まして見えた木陰に変化は無かった。ほんの短い間眠っていただけらしい。背中に感じる手は優しいままだった。
「弓親さん、もう」
「誰が弓親だ」
「‥‥‥‥ハゲ‥‥‥」
一角の目が鋭く自分を睨んできたが一護は呆然としたまま何の反応も返すことができなかった。
「今ならお前のこと倒せたぜ」
にっと笑われてついでに額を指で弾かれた。その痛みに一護の眠気が吹っ飛んだ。
「メシはもう食ったのか」
「いや、今日は食欲無くて、」
「んだよ、目当てにしてたのに」
そう悪態をつくものの、一角の手が再び一護の背中を撫で始めた。それに緊張して一護の背筋がぴんと伸びた。
「昨日、阿散井達と飲んだんだって?」
「はぁ、」
「今度は俺も誘えよ」
優しい手と一角とがどうしても結びつかない。
一護は曖昧に頷き、弓親はどこに行ったのだろうかと考えた。
「‥‥‥‥‥戦いから」
一角の手が止まり、一護はちらりと視線をやった。
「なんだよ」
「薄い背中だ。本当に戦いから、離れてたんだな」
「‥‥‥‥脳みその筋肉も落ちた」
そう言ってやったら一角が苦笑して、再び手が動き始めた。
「それで、急になんだよ。あれからずっと顔見せなかったのに」
「寂しかったか?」
「静かな昼食で満足だった」
敬語は今さらだ。気安さに少し混じったぎこちなさで会話した。
相変わらず手が優しくて、一護に緊張が付きまとう。冷たい風に体が震えるけれど、撫でられる背中だけは暖かかった。
会話が途切れて数分経った。撫でる手に少し力が入ったと思ったときだった。
「俺と戦えとか、もう言わねえから」
その言葉に一護は特別驚くことはしなかった。静かに心で受けとめて、うんと頷いただけだった。そして感じた寂しさに内心で笑った。
「やっぱ全盛期のお前とやらねえとな。今のお前はあれだ、なんかふにゃふにゃしてて‥‥ま、そういうことだ」
背中を撫でる手が離れる。そのときいくつかの顔が一護の脳裏をよぎり、肌を粟立たせた。
「せいせいする」
「言いやがる」
一護はゆっくりとした動作で眼鏡を外した。
「一角」
「あぁ?」
「覚えといてやる。班目一角」
流魂街には特別な思い入れは無いけれど、記憶に薄ら残る男がいた。この男によってつけられた傷に死覇装の上からそっと触れた。
「じゃあな。死ぬなよハゲ」
気分の悪さは消えていた。立ち上がっても目眩はしない。
眼鏡を掛け直し大きく一歩を踏み出した。
「俺はだし巻き卵が好きだ!」
二歩目でずっ転けそうになった。一護はずり下がった眼鏡も気にならずに一角を振り返る。
「砂糖入れるチビがいるが菓子じゃあるまいし俺は好きじゃねえ。だから一護、作るならだし巻きだ、いいな?」
「‥‥‥‥なんの話だ」
「明日の昼メシの話に決まってんだろ」
一護は思いっきり不審な顔をした。
「明日? お前、俺と一緒に食うつもりか」
「当たり前だろ、何言ってんだ」
そっちこそ何言ってんだ。
一護はびしっと指を突きつけて言ってやった。
「お前とはもう金輪際会わねえだろ! 然るにメシも一緒に食わねえ!」
「会わねえってなんだよそれ、勝手に決めんなよ」
「さっきのはそういう流れだろーが!」
「どういう流れだよ!? 俺はもう喧嘩は売らねえが二度と会わねえなんて一言も言ってねえだろ!!」
その言葉に一護は顔を真っ赤にさせた。
自分が勝手に勘違いしただけ。恥ずかしくなった。
「‥‥‥‥とにかく、もう会わねえからな」
「なにムキになってんだよ」
「うるせえよ。お前は何だ? 俺のダチにでもなったつもりか」
だから馴れ馴れしいというのだ。
踵を返して立ち去ろうとすれば胸ぐらを掴まれ軽くビンタされた。
「お、お前、喧嘩は売らねえって、」
「ムカついたんだから仕方ねえだろ」
なんて奴だ。
だから嫌いなんだ戦闘馬鹿は。拳で解決するなと言うのだ。
過去の自分は棚に上げて一護がそう思っていると、今度は頬を引っ張られた。
「不細工な面。笑えよ」
ぐいぐい引っ張られて正直痛い。気付けば一護も相手を殴っていた。
「殺すぞハゲ!」
「ってえなぁ! だいたいお前は根が暗いんだよっ、メソメソメソメソしやがって!」
「悪いかよ!!」
今度は容赦しない。取っ組み合いになって、地面に倒れたのは一角だった。その上に跨がって一護は怒鳴った。
「初めてできたダチだったんだっ、メソメソしてっ、悪いのかよっ」
「テメーはそうやって何年引きずるつもりだっ、他の奴だってダチが死ぬことなんていくらでもあるんだよっ、それでも前向きに生きてんだろうが!」
こいつは知っている。そう思ったときにはもう止まらなかった。
「俺だけ残ったっ、どうすりゃいいっ、どこ向いて生きてきゃいいんだよっ」
「下以外ならどこでもいいだろ! 新しいダチくらい作れっ、暗い奴だな!」
「他の奴らなんかいらねえよ!」
「ガキかテメエは! 誰かに誘ってもらわねえと動かねえタイプだろ!」
「だったらどうした、戦い方しか知らなかったんだ、お前と違って、最初から傍に誰かがいたわけでもねえ、」
「‥‥‥‥‥‥なんだよ、泣くなよ」
背中を撫でられた。優しい仕草に嗚咽が漏れた。
一人二人と減っていった友人達。ずっと立ち止まったままだと自分でも分かっていた。それでも新たな友人を作る気になれなかったのは、あの目の覚めるような日々はもう二度とやってこないと知っていたからだ。
「眼鏡外せよ。上から擦るってお前、ギャグか?」
眼鏡を奪われた。乱暴に涙を拭われて、それでもいつか聞いたことのある台詞に後から涙が溢れて出た。
「不細工だな」
背中を撫でる手に引き寄せられて一護は固い胸板に顔をぶつけた。
「仕方ねえから俺がダチになってやる。ついでに弓親とチビも加えとけ。それと明日はだし巻き卵だ、ちゃんと忘れず入れとけよ」
汗の匂いと心臓の音に一護は妙に安心した。
生きた人間の体温、感じるのは久しぶりのことだった。
墓参りを済ませた帰り、一護は道の向こうに光るものを見つけた。
「よぉ」
一護は思わず吹き出した。
「っな、なんで笑ってんだよ!?」
だって夕日が頭部に乱反射‥‥‥いけない笑っては。そう思うが一護はしばらく腹を抱えてひーひー笑った。
「なんかムカつくな‥‥」
「喋るなっ、笑える!」
「‥‥‥殴っていいか?」
一護は震える手で待ったと制止をかけた。深呼吸を繰り返し、眦に溜まった涙を拭う。
そして何事も無かったように挨拶した。
「なんで笑ってたんだよ」
「面白い夕日だったから」
「なんだよそれっ、オイ、待てよ!」
逃げるようにして一護は走り出した。しかしすぐに追いつかれて手を握られる。見上げればぶっきらぼうに睨み返された。
「なんだよ、笑うなよ」
笑わずにはいられない。
一護は繋いだ手を振り、にこりと笑う。そのとき風がオレンジ色の髪を撫でていった。