おかしな二人

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  06. 空を見上げるおかしな二人  


 男はとても満足していた。
 目の前にいる憎き仇が絶望に染まった目をしている。それが何より愉快でたまらなく、そして虚しくてならなかった。
 男の妻は随分と前に他界した。誰よりも愛していた。
 しかし妻が夫の手を握りながら彼岸へと渡る間際、呼んだその名は男のものではなかった。男を一心に見つめて何度も呼ぶ名は護廷では知られたもので、そして妻はぎゅうと握った手をそのままにこの世を去った。
 許せなかった。最後の最後で妻の裏切りを突きつけられた。
 それからは復讐の虜になった。妻を奪ったその男をいかに苦しめ命を奪うか。
 そして復讐は思っても見ない形で遂げられた。自分と同じように、仇も愛する者に裏切られたのだ。
 可笑しかった。笑いが止まらなかった。両隣を刑軍に引き立てられていたがそれでも腹の底から押さえきれない哄笑が沸き起こっていた。
 仇が今、どれほどの傷を受けているのか男には手に取るように分かった。心に入ったひびがこれから先、長い年月をかけてその身を苦しめる。それを思うと当初計画していた復讐が陳腐なほどだった。
 あの子供はよくやってくれた。褒美をやりたい。これ以上は無いという復讐を自分に代わって成し遂げてくれたのだから。
「‥‥‥‥十年だそうだ」
「は、は、ハ! ‥‥‥‥なに?」
「お前の復讐とやらに巻き込まれたあの子は、この先十年、暗い牢に閉じ込められる、」
「ほう」
 それは残念だ。
 男はそう呟いて、そして延々と笑い続けていた。










「逃げよう」
 何度か目は覚めていたが意識がしっかりとするには数日を要した。自分の傍に居続けてくれた人の存在を一護はずっと感じていた。握られている手の感触も、語りかけてくる声も、すべてが優しかった。
 そしてようやく一護のほうから手を握り返すことが出来たとき、男の発した言葉を聞いて一護は静かに驚いた。
「逃げるんだ。一緒に」
「‥‥‥‥‥どこに?」
「どこでもいい。遠くだ、誰の手も届かないところがいい」
 そこでようやく一護はその言葉の真意を知った。
 つまりは罰が待っているのだ。
「‥‥‥‥‥ありがと」
 するりと手を離そうとすればしっかりと握りしめられた。
「今日明日にも刑軍が来る。その前に、僕と逃げてくれるだろ?」
 甘い声音に一護はくすぐったくなった。前からそうだったけれど、今はとびきり甘い。
「流魂街で暮らそう。君と一緒なら地獄でもいい」
「あんたには似合わねえよ」
 華やかな人だから。流魂街で初めて見たときもすぐに目についた。周囲の澱んだ空気の中、そこだけぱっと明るくなったような。そんな人に外の街はそぐわない。
「きっと楽しいんだろうけど、遠慮しとく」
「どうしてっ」
「そんな顔すんなよ」
 痛いほどに手を握り込められても一護は振り払おうともせず、もう片方の手を京楽へと伸ばした。いつもさりげなく整えられていた髭が無惨な状態になっていて、それについ笑ってしまった。
「ひどい顔だ」
 けれどこちらのほうが可愛らしい。不安な表情で見下ろしてくるいい歳をした男に対してそう思うと、頬へと指を滑らせた。
「ごめんなさい」
「なに、」
「ずっと言いたかった。初めて抱きしめられたとき、本当はそう言って家を出ていくつもりだった」
 それがずるずると長引いて、気付けば傍にいることが当たり前のようになっていた。
「本当の家族を忘れるくらい、あんたの傍は居心地が良かったんだ」
「‥‥‥あぁ、僕もだ」
 一護の指が京楽の唇へと滑る。そうすれば啄むように指に口付けられた。
「春水さん、」
 その光景を一護はぼうっと見つめていた。指を口に含まれ柔く噛まれても、それが嫌だとは思わなかった。
 京楽の唇が指から手首、それから腕の付け根へと襦袢の上から落ちてくる。視線が間近で絡み合っても不思議と一護は動揺しなかった。
「‥‥‥ん」
 唇同士が合わさったときふいに喉が締め付けられた。腹の奥底から何かがせり上がってきて、その苦しさに息を荒げ、その分口付けは情熱的になった。
「はぁ‥‥‥父さん、」
「‥‥‥‥‥よりにもよって、今言う?」
「興奮するだろ」
 一護は意地悪く笑ってみせた。唇を吊り上げたとき、ぽとりと涙が落ちる。
 苦しさの正体が涙だと知って、あとはもう止められなかった。
「‥‥‥‥‥あんたが、好きだ、」
 一度口にしてしまったら涙と同じくらいぽろぽろと言葉が溢れた。同じ気持ちだということは息をするように自然と分かっていた。それなのに、涙が止まらない。
「逃げよう」
「だめだ、」
 肩に置かれた手に力が入る。抱き起こされそうになって、力づくでも連れていく気なのだと一護は悟った。
 その先手を打つように京楽の首に腕を回して引き寄せる。再び口付けて、一護は夢中で唇を合わせながらも京楽の死覇装を剥ぎ取っていった。
「一護っ、」
「静かに」
 外に聞こえる。
 京楽の口を手で押さえ、緩んだ腰紐を一気に抜き去った。流魂街にいた頃に、こうやって男を落とすのだと花街の女達が教えてくれたのだ。
 指が震えて本当は布団を被って隠れてしまいたいほどだった。けれども今しかない、そう思ったら絶対に出来ないような真似も簡単に実行できた。
「一護‥‥‥‥」
 名を呼ばれるたびに怖じ気づく心が消えていった。はだけた胸元に唇を落とし一護が上になろうとすれば、ベッドに押さえつけられた。
「一護、」
「っあ、」
 衿を強引に開かれた。肩から腹に至るまでを包帯に覆われていて、それを京楽が器用に解いていった。
 幼い体を斜めに走る大きな傷が露になって、それを見られるのが嫌な一護は身を捩る。しかしやがては受け入れるように大人しくなった。塞がりはしたものの、醜い痕を残す傷の上を京楽の唇が辿っていった。
 羽のように触れるか触れないか、そんなふうに傷をなぞられた。死神の力を奪ったその傷を可愛がられるというのはなんとも言えず、切なくなる。
「‥‥っ、う、ん」
「痛い?」
 首を横に振れば、ふ、と笑う声がした。
 それから後は、優しく体を求められた。

















「起きたら隣に誰もいない。この僕がだよ?」
 こんな仕打ちは初めてだと、嘆くもののその表情は妙に晴れやかだった。
「自業自得だ。身に染みたか」
 刑軍に連れていかれる一護を最後に見送ったのは浮竹だった。体を大事に、そう浮竹が言えば一護は笑っていた。
「十年。償ってくるとあの子は言った」
「そうか」
「僕もそうしようと思う」
 真摯な言葉にそういえばと浮竹は視線を京楽へと移す。いつも纏っている花柄の羽織が無い。
 目が合えば、京楽は捨てたのだと言った。
「どうかあの子だけは許してやってくれと山じいに泣いて懇願したんだ。そうしたらさ、自分で蒔いた種だ、花が咲いて枯れて地に落ちてもその土ごと愛せと、そう言われたよ」
 ならば他の花はもういらない。脱ぎ捨ててしまえば、随分と身が軽くなった気がしたと京楽は戯けてみせた。
 その姿を見て京楽が二度と他の女と浮き名を流すことは無いのだと浮竹には分かった。
「一護ちゃんの妹二人。その子達を、引き取ろうと思う」
「散々に罵られただろう」
「そうだね。なんでか班目君にも、殴られたんだよなあ」
 八つ当たりだと言われて殴られた。京楽は大人しく殴られてやった。弓親は黙ったまま、しかし怒りは一角よりも深そうで、それをじっと耐えていたようにも見えた。
 妹二人には馬乗りになって殴られたし爪も立てられた。泣きながら返せと言われた。
「仲直りして、三人で迎えてあげたいじゃないか」
 ぼろぼろになった顔で微笑むその顔は、浮竹が見たことも無いくらいに良い男っぷりだった。男でも思わず見惚れてしまうような。
 しばし呆然としている浮竹をよそに京楽は空を見上げて目を細めた。
「一護ちゃんも、見てるかな」
 牢には窓が一つあるらしい。
「見てるかな」
 泣きそうなほどに声を震わせ、晴れた空の中、流れる雲を目で追った。
 一護が同じ空を見ている。
 同じ空の下にいる。
 そう思うだけで、ひどく心が慰められた。

 二人並んで見上げるのは、十年後の晴れた日のこと。

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