眼鏡祭

  そのときがくれば眼鏡は外すべし  


「静かになさいっ、貴方達ここをどこだと思って」
「っるせぇ! 眼鏡は引っ込んどけ!」
 飛んできた空の酒瓶が伊江村の顔面に直撃した。それをあーあ、と見下ろす萩堂の隣で一護は眼鏡をクイ、と押し上げると伊江村に引き続いて注意した。
「静かにしてください。あと病室にお酒を持ち込むのは禁止です」
「お荷物部隊は黙ってろ!」
「は? すいません聞こえませんでしたもう一度」
「イダダダダダダ!!」
 一護はすばやく相手にヘッドロックをかけると慈愛に満ちた笑みで再度質問した。
「お荷物部隊と聞こえたような。聞き間違いですよね?」
「頭がっ、割れるっ」
「それは大変ですね。荻堂さん、頭痛薬を」
「取ってきます」
 痛い痛いと訴える十一番隊の怪我人を一護はベッドに横たえてやった。しかしヘッドロックは決めたまま。
 見舞いに来ていた同僚達からは丁度死角になるため、何が起こっているのかは分からないようだった。
「煩くされると他の方々に迷惑でしょう? 治療にあたる隊員達にも影響します。傍でげらげら笑われて酒臭い息を吐きかけられた日には点滴に空気が入っても文句は言えませんよ」
「っひ」
 患者にだけ聞こえる声量で一護は言ってやった。猛者と呼ばれる十一番隊の隊員が一護の眼鏡の奥で不穏に光る目を見てしまい一気に青ざめた。
「顔色が良くないですね。気分が悪いんですか、胸でも開いて診てみましょうか」
「ややや、やめ」
「今度騒いだら寝てる間に切開してやるからな」
 ボソっと呟いて本気の目を向ければ、相手はがくりと枕に顔を埋めて微動だにしなくなった。少々絞め過ぎたか、しかしこれで静かになった。一護は笑みに切り替えると見舞いに来ていた隊員達を振り返った。
「寝てしまったようです。という訳で皆さん、お帰りになってはいかがです?」
 当の怪我人が寝てしまってはここにいる意味が無い。十一番隊の隊員達は仕方なく救護室を後にした。










「すごいなあ、あっという間に追い返しちゃって」
「肝心の見舞いの相手が寝ちゃったら、さすがに帰るでしょ」
 一護と荻堂は協力して気絶した伊江村を運んでいた。
「でもほどほどに。この間、班目第三席の首に手刀を入れて無理矢理気絶させようとしてたでしょ。やり損ねて怪しまれてたよね」
「あれは失敗でした」
 名の轟いた十一番隊の第三席。一撃では沈められなかった。
「さすがは『戦うお医者さん』の娘だ。やることが手荒で、卯ノ花隊長がしきりに懐かしがってたよ」
 一護の父、一心の副官だった卯ノ花はその娘が四番隊に入隊したことをとても喜んでくれた。一見淑やかに見えるその女性は父の元部下だが、元上司の性質をちゃんと受け継いでいるようだ。ときおり見せる修羅の様相が恐ろしい。
「お恥ずかしいです。患者には献身的に、って教えられてたんですけど、十一番隊の奴らにはどうにも我慢が出来なくて」
「でもこちらとしては助かってるよ。うちは皆、戦いには向いてないからね。絡まれてもどうしようもなかったから、黒崎君が入ってきてからは安心して働けるって皆言ってたよ」
 荻堂の優しい言葉に一護は照れたように眼鏡を押し上げた。しかし伊江村の上半身を支えていたのを忘れていた。伊江村の頭が床に打ちつけられる鈍い音がした。
「いけねっ」
「大丈夫大丈夫。伊江村さん、痛いの好きだから」
 荻堂が適当なことを言って一護の肩を叩いた。そのとき視線を感じて振り返れば、そこには見知った死神が立っていた。
「黒崎君、お友達」
「へ? あ、修兵」
 統学院卒業を期に髪を短くした友人が憮然とした表情で一護を睨んでいた。
「怪我でもしたのか?」
 修兵の体を上から下まで眺めて聞いてみたがそれらしいところは無い。
「メシ、まだだろ」
「まだだけど」
 修兵がちら、と荻堂を見た。
「伊江村さんは僕が運んでおくから。黒崎君は休憩にはいっていいよ」
「いや、でも」
「行くぞ」
 有無を言わせず修兵は一護を引きずっていった。その後ろ姿を眺めながら、荻堂は面白そうに笑っていた。










「ちゃんとやってんのか、お前」
 そう言われたのは丁度一護が修兵に奢ってもらったうどんを啜ったときだった。先ほどから機嫌の悪い修兵は自分の食事には手を付けていない。
「ちゃんとやってるからこの間席官上がったんだろ」
 眼鏡が曇るため今の一護は素顔を晒していた。食堂の卓に置かれた一護の眼鏡を手に取ると、修兵はそれを不機嫌そうに弄くった。
「さっき男とぺちゃくちゃ話してたじゃねえか」
「荻堂さん? 同僚なんだから、話くらいするだろ」
 するするとうどんを咀嚼する一護の目は疾しいことなど何一つ無いと言っていた。
「あいつ、うちの女共の会話によく上がってんだぞ」
「あぁ、モテるんだって」
「なんだよあいつ、顔だけじゃねえか。たいして強くもねえし」
「それって四番隊だから? 馬鹿にしてんのか」
 うどんにしか意識の向いていなかった一護が顔を上げて修兵を睨んだ。いつもは眼鏡越しの視線だが、それが無い今は更に鋭くなって射抜いてくる。
「そうじゃねえよっ、俺はただ、」
「俺が他の男と話してるのが気に食わないって?」
 修兵は押し黙った。当たりを言った一護は呆れたようにうどんに入ったかまぼこを突いた。
「うちの女の子の間でも修兵の名前、よく出るけど」
「お前はそれで、どう思うんだよ」
「‥‥‥‥‥‥」
 最近、ずっとこうだ。一護はかまぼこを口にいれ、修兵の顔を盗み見た。
 好きだと言われた。そして本気だと分かっている。
 学生時代はそれに対してはいはいどうもと軽く流していたが、最近どうもそれでは済まなくなっていた。
「‥‥‥‥いや別に。モテんだなぁ、て」
「嫉妬とか」
 一護は無言で首を振った。ここで付き合ってないし、と言えばじゃあ付き合おうと迫られるのが分かっていた。
「なあ、俺らいつまでこんななんだよ。さっきの奴に言われた”お友達”って言葉、結構傷ついたんだぞ」
 雲行きが怪しくなってきた。一護は食事の手を速めてこの場を去ろうと考えた。逃げていると自覚はあったが、今答えを出せるとも思えない。
 もしかしたら一生答えなんて出せないのかもしれないと、最後に残った麺を啜ったとき思った。
「ごちそうさん。じゃ、俺行くから」
「待てよっ」
「おぉ、一護じゃねえか」
 一護は腰を浮かした状態で静止した。頭に置かれた第三者の手がぐるりと一護の頭を回し、そして目が合った。
「なんだ、眼鏡かけてねえのかよ」
 忘れていた。そのまま去ろうとしていた自分に一護は驚いた。それほどまでに動揺していたのだろうか。
「なんか眼鏡がねえと生意気な面だなオイ」
「班目第三席、お加減はいかがですか‥‥‥‥」
 がしがしと頭を撫でられて一護はうんざりしたように息をはいた。
「怪我なんてどうもねえよ。それよりもテメエにやられたとこのほうがよっぽど傷んだっつーの」
「はぁ、すいません。なんか手が滑って偶然に」
「ま、そういうことにしといてやるけど」
 荻堂の言った通りだ、怪しまれている。しかし一護はしらをきると、眼鏡をかけて誤摩化すように笑った。
「こいつは? お前のコレか?」
 親指を立てられて一護は咄嗟に首を振った。修兵がそれを見て、鋭くこちらを睨んできた。
 一護は目を逸らして居心地悪そうに身を捩る。一角の腕から逃れようとしたが、力を込められ引き寄せられた。
「なんかありそうじゃねえかお前ら。あとで聞かせろよ」
 一角がじろじろと修兵を眺め回し、へっ、と笑った。
「九番隊の奴だな。あの、平和主義者の」
「東仙隊長を侮辱するな」
 修兵が立ち上がり、卓を挟んで一角と対峙した。丁度二人の間にいる一護は予想外の展開に息を呑む。
「お、やるか?」
 喧嘩の匂いを感じて一角が嬉しそうに口角を吊り上げた。隊の趣向は違えども二人は同じ流魂街出の死神だ、白黒つけるのには喧嘩が一番手っ取り早いと知っていた。
「そいつを離せ。それからだ」
「おぅおぅ、カッコいいねえ」
 修兵の顔が一層強ばった。握った拳が震えているのが見えて、一護はやばいと感じた。このままでは大乱闘だ、もしかしたら修兵は簡単にねじ伏せられて勝負にはならないかもしれない。一角がどれほどの強さなのかは知らないが、死神になって日の浅い修兵が勝てる筈が無い。
「修兵っ、やめとけ、お前んとこ喧嘩御法度だろっ」
「黙ってろ!!」
 思わず仰け反った。
 その大きすぎる声量のせいではない。怒鳴られるのは初めてで、それにひどく傷ついた自分に一護は驚いて続く言葉が出なかった。
「君達、何やってるの」
 張りつめた空気を絶ったのは落ち着いた声音だった。
「注目の的だよ、恥ずかしい」
「弓親」
 二人分の盆を持った弓親がさして気にしたふうもなく席について食事を始めた。呆気にとられたのは一護と修兵で、一角は溜息をついて一護を解放すると同じく食事に手を付けた。
「君。そう、69の君だよ」
「‥‥‥‥なんすか」
「恥かく前に行くといい。惚れてる子の目の前で、床に這いつくばりたくないだろう?」
 その言葉に修兵の目が吊り上がった。掴み掛かろうと一歩前に身を乗り出すが、弓親の視線で制された。
「分かってないな。ここで騒ぎを起こして迷惑するのはその子だって言ってるんだ」
「‥‥‥‥‥‥っ、クソ!」
 苛立ちまぎれに卓に拳を叩き付け、そして修兵は出口に向かって足取り荒く去っていった。一度も視線を合わさずに去っていく友人の背中に、一護は追いかけようと足を踏み出しかけたが。
「座りなよ」
 しかし止められてしまった。一角が四番隊に入院していたとき、見舞いによく来ていた弓親が一護には苦手だった。修兵を追いたいが、弓親の妙に冷めた視線に押されて一護は渋々席に着いた。
「しばらく頭を冷やす時間を与えてやるのが気遣いってものだよ」
「‥‥‥‥‥はぁ」
 優雅な所作で食事を口に運ぶ弓親は、次いで一角の足を踏みつけた。
「ってえ!」
「喧嘩上等は大いに結構だけどね、間に女の子を挟んですることじゃないよこのスッタコ」
 食事の途中に足を踏まれた一角はげほげほと咳き込んだ。その隣で弓親が茶を啜って一息つくと、一護に意味深な視線を向けてきた。
「ねえ、君は彼のこと好きなの?」
「え」
「あっちは見てたら分かるけどね、君はどうなのかと思ってさ」
 ただの興味だと弓親は言った。それに普通ならふざけるなと言い返すが、一護は黙ったままだ。
「君の父親はあの黒崎隊長だろう? 彼はいつも”愛こそがすべてだ”なんて声高らかに言ってたけど、どうやら娘の君はそうじゃないみたいだね」
 たしかに父親の一心は毎日愛してると言ってくるし、一護も言葉にはしないが愛している。しかし修兵に対してもそうかと問われれば、正直疑問だ。
 好意はある。いい奴だと思うし、一緒にいて楽しいことは確かだ。
「分からない?」
 そうだ、分からない。自分はどうしたいのか一護には分からなかった。
「お前おかしいぞ。若いときは考える前に行動しろよ。俺がお前くらいのときなんてそりゃもうあっちこっちで」
「その先下品なこと言ったらはったおすよ」
 一角の横槍を睨んで止めると弓親はもう一度一護へと視線を向けた。
「君、初恋まだだろう?」
 一護は唇を引き結んだ。それを見て弓親が薄く笑った。
「ねえ、いいこと教えてあげる」










「修兵」
 九番隊と四番隊の丁度中程に庭があった。死神になってからはそこが二人の定番の待ち合わせ場所になっていた。
「しゅーへー君」
 中々振り返らない修兵に、やはり先ほどのことを引きずっているのかと苦く思った。
「檜佐木くーん」
 まだ振り返らない。聞こえている筈だ。
 庭のベンチに腰掛ける修兵の背後に一護は立った。
「なあ、俺って初恋まだなんだよ」
 修兵の肩が少しだけ揺れた。
「親父達を見てるとさ、愛がどんなもんか分かるわけ。でも見るのとやるのとじゃ勝手が違うんだよ」
 修兵の頭を見下ろして一護は話す。想いのすべてを言葉にするのは難しくて、本当に自分の言っていることは心のままなのか分からない。
「俺はまっすぐ生きたい。親父みたいになりたいんだ」
 その姿に憧れた。白い羽織に『四』と書かれた後ろ姿、追いついて並び、追い越したいと思っている。
「だから立ち止まりたくない。ヘマして転んで、時間を取られたくないんだ」
 それの意味するところを修兵は察しただろうか。微動だにしなくなった肩が、それを表しているのかもしれない。
 少し間が空いて、それから一護は言った。
「でも初恋に限っては、失敗してもいいんだって」
 弓親に言われた言葉をそのまま口にした。
「初恋でどれだけ右往左往してもマイナスにはならないって。それが当たり前だし普通のことだから、むしろいい経験になるって言われたんだ」
 一護の手が伸びて、修兵の肩へと置かれた。
「‥‥‥‥なあ。失敗覚悟で俺と付き合ってみる?」
 震えてしまった声に、いきなり失敗したと一護は恥ずかしくなった。何も返してくれない修兵に不安を煽られる。
「修兵?」
「お前、分かってんのか」
 突然喋るから一護は驚いて身を引こうとした。しかし肩に置いた手を握り込まれる。振り返った修兵は怖いほどに真剣な顔をしていた。
「綺麗ごとばっかじゃねえんだぞ」
「それくらい、知ってる」
「キスとかセックスとか、お前が想像できないような恥ずかしいこといっぱいするんだぞ。お前、俺とそういうことできんのか?」
「‥‥‥‥‥が、頑張る、」
 一瞬怯んだが、一護はなんとか頷いた。耳が熱くなっているのを感じていたが、修兵から目を逸らさなかった。
 その修兵が口を開く。一体今度は何を言うのかと一護が身構えれば。
「じゃあまずお前は嫉妬することを覚えろ!」
 言われた意味が分からず一護は数拍言葉を失い、目を何度か瞬いた。
「他の女と話すなとかもっと会いたいとか我が儘を言え」
「‥‥‥‥‥いや、それは別に自由にすればいいんじゃねえの」
「そこ! そこがいけねえんだお前はっ」
 修兵は立ち上がると体ごと一護に向けた。
「他の男と話すな触れるな触れさせるな! こんくらいは言ってみせろ!」
「今のは、」
「本気だ。触れさせやがって」
 修兵の手が一護の髪に触れた。一角が何度もそうしたように、けれど今は優しく撫でた。
「俺は失敗にさせるつもりは毛頭ねえからな」
 言い終わらぬうちに一護の顔を引き寄せた。
 しかし重なる寸前、一護の腕が突っ張った。
「おい、」
「ちょっと待て」
 一護はいそいそと眼鏡を取ると。
「はい、どうぞ」
 その可愛い行動に、修兵は。
「‥‥‥‥‥いただきます」
 心の中で手を合わせ、そして美味しく頂いた。

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