振り返る、こともたまにある
01
過ちを起こさない人間はいない。
誰だって、脛に傷持つ身なのである。
「ぎょわっ」
晴れて霊術院を卒業し、死神になった一護の胸には夢や希望が渦巻いていた。今までの荒んだ生活からやっと脱出できる。死神という職業柄、平穏無事とまではいかないが、流魂街での暮らしに比べれば遥かにマシだろう。
しかし、一護の理想も護廷入隊初日にして、見事に打ち砕かれてしまった。
「どうしたんだ、お前」
一護が入隊することとなった十一番隊の第三席、班目一角が突然の奇声に驚いた顔で振り返った。
「‥‥っあ、っあ、あれっ、」
「あぁ?」
「なんで、ここにっ、」
震える指が差す方向には、中庭を挟んで五番隊の隊舎が見える。一角に連れられて護廷内を案内されていた一護は、その五番隊の隊主室から出てきた人物を見て蒼白になっていた。
「市丸副隊長がどうかしたか?」
「っふ!! 副隊長っ!? もしかして隊で二番目に偉い人!?」
「当たり前だろ」
一護は大口開けるとそのままの状態で固まった。脂汗やら冷や汗やら、なんだかヤバい水が背中を伝う。
そのとき、遠くの市丸副隊長がこちらを見た。
「‥‥‥‥何やってんだ、お前」
一護は廊下の端に蹲り、黒の死覇装で必死に目立つオレンジ色を隠していた。その姿はかなり怪しい。一護はできうるかぎり身を縮めながら、最悪だ、と呟いた。
五番隊の隊主室、その扉の前で一人考え込む十一番隊隊士がいた。
「参った‥‥」
一護はかれこれ十分以上は迷っていた。
書類渡しという新人隊員にはお似合いの仕事を任されたのだが、一護にとっては心が引き裂かれそうなほどの難作業だった。
果たしてこの扉の向こうに行ってよいものだろうか。しかし一護本人の手から五番隊隊長に書類を渡さなければならないのだ。五番隊の他の隊員を介して、というのは規則上許されない。
隊主室内の霊圧を探ろうにも、人の気配すらしなかった。隊長格ともなれば霊圧を消すことなど朝飯前だ。扉には隊長が在室中との札が掛けられているのだから、いるには違いない。
だがもし、いるのが隊長だけではなかったら?
‥‥‥‥無理だ。やっぱり俺にはできない。
一護は叱責覚悟で十一番隊に戻ることにした。別にいいじゃん、な勢いで開き直ってやろう。
「君。いつまでそこにいるつもりなんだ」
立ち去ろうとしたそのとき、隊主室の扉が開いた。一護は声にもならない悲鳴を上げ、突然顔をのぞかせた人物を凝視した。
「僕に用があるんだろう?」
「藍染っ、隊長、‥‥‥お一人ですか」
一護はごくりと唾を飲んでそう聞いた。何を言ってるんだこの子は、という顔をされたが、一護はぱぁっと顔を輝かせると持っていた書類を勢いよく差し出した。
「これ全部に判子をお願いしますっ」
「全部? これはまた、随分と溜め込んだものだね」
「はい!」
少しも悪びれずに元気よく返事をした一護だったが、その表情は次にはもう凍り付いてしまった。
「あらぁ、十一番隊の新人さんやないの」
藍染の後ろから出てきた男を見て、一護の全身からぶわっと汗が出た。
思い出すのは過去のこと。嫌な、嫌な思い出だ。
「御苦労さん、判子押して、あとで届けさすわ」
あれ、と一護は首を傾げた。そして同時に希望が湧いてくる。
もしかして、覚えていない?
「‥‥‥‥は、はいっ、では、これで失礼しますっ、」
内心では「イヤッホー!」と拳を突き出して、一護は表面上は真面目に礼をした。しかし頭を上げたとき、悪魔がタイミングよく囁いた。
「またなぁ、一護姉ちゃん」
‥‥‥‥‥ひぃ!
「っぶ! ははははっ、もうアカン、ケッサクや! 今の顔ときたら!」
銀髪の男は吹き出すと、腹を抱えて笑い転げた。一護は血の気の引いた顔で、ぶるぶると震え出した。
「忘れるわけないやん、なあ?」
背筋を伸ばした男に見下ろされ、一護は思わず仰け反った。
「‥‥‥‥なん、なんですか、なんのことやら、」
「っお。この期に及んでまだシラ切るつもりかいな。ひどいなあ、ボクは姉ちゃんのこと、一日足りとて忘れたことないゆうのに」
大げさに肩を竦め、男は深く息をはいた。
「ギン、知り合いかい?」
「はい。ボクの、お姉ちゃんです」
ち が う !
否定したいができなかった。一護はまさにこの期に及んでシラを切るつもりでいたからだ。
なんせ最後に別れたのは十年以上も昔のこと。記憶が劣化するには十分な年月だ。他人のそら似、そうだこの線で行こう。
「どなたかと勘違いしていらっしゃるんじゃー」
「白々しい。姉ちゃん、疾しいことがあるときは眉間の皺が消えるんや、知っとった?」
一護は思わず眉間に手を当てた。確かに皺が無い。
「ちなみに嘘吐くときは相手の目は見んと、鼻を見るやろ。相変わらず癖が治ってないんやねえ」
一護よりも遥かに高くなった背を屈め、ギンが顔を近づけてくる。大人っぽくなった顔つきに一護は驚いた。
「姉ちゃん、少しも変わってへんね。あの頃はボクや乱菊のほうがずっと小さかったんに」
「‥‥‥‥だから、何のことやら、」
一護の目線がギンの鼻先に行く。駄目だと思うのに、そうしてしまう。
「懐かしいなあ。ボクのお菓子奪って全部平らげた姉ちゃん、ボクをパシリに使っていつも楽しとった姉ちゃん、ボクを真冬の川に放り投げて魚を獲れと命令した姉ちゃん、ボクを」
「もういいっ、言うな!!」
非人道的な過去の所業をそれ以上は語ってほしくはなかった。一護は他人のフリを諦めると、悩んだ末にすばやい動作で床に正座し、頭を下げた。
「過去のことは謝る! ごめん!!」
いわゆる土下座。もうなりふり構っていられなかった。相手は昔パシリに使っていたガキとはいえ、今は立派な副隊長だ。下手な態度に出て瀞霊廷を追放されては適わない。
言い訳に聞こえるかもしれないが、自分が過去犯したギンへの仕打ちを今では猛省している。まあできれば顔を会わせずにやりすごしたいな、というせこい考えはあったのだが。
頭を下げること数秒。一護の肩に、ギンがそっと手を置いた。
「姉ちゃん、そんなことせんといて」
「ギン‥‥‥!」
「そんなことしたって絶対許さんから。これまで受けた仕打ち、きっちり返させてもらうで」
ドS、という言葉が一護の頭をよぎった。ギンはにたりと不気味な笑みを浮かべると、嬉しそうな声で言った。
「これからよろしくなあ。姉ちゃん?」