振り返る、こともたまにある
03
それは大昔。見るからに古い掘建て小屋に、三人の子供が暮らしていた。
一人はその区画では知らない者はいないとされる猛者で、名を一護といった。残りの二人は、一護が拾ってきた子供達、ギンと乱菊といった。
「大きくなったらボク、姉ちゃんのおヨメさんになったる!」
「‥‥‥‥‥ほー」
フクロウのように鳴いて、一護は刀の手入れを再開した。端で見ていた乱菊が「っぷー!」と子豚のように鳴いた。ギンは顔を真っ赤にさせると、素気なく流した一護に食ってかかった。
「ボクっ、本気やで!」
「ガキの頃は色々夢を見るもんだ。俺もガキの頃は猫になりたかったからな」
「どうして?」
「甘えたフリすりゃ、タダで飯がもらえるだろ」
その答えに乱菊は笑い、一護の膝に身を乗り出してくっついた。羨ましくて、ギンも負けじと一護にくっついた。しかし女の子だけ、という一護の冷たい言葉とともにひっぺがされた。
「姉ちゃん、姉ちゃんっ」
「うろちょろすんな。危ないだろうが」
周りをぐるぐる回ってなんとか構ってもらおうとしたが、一護の視線は刀に注がれたまま。一護の膝の上で、我が物顔でくつろぐ乱菊が、ふふんと鼻を鳴らした。
「あんたみたいなちびっ子、お姉ちゃんが相手にするわけないでしょ」
「るさいっ、乱菊のアホ!」
「いったーい! 髪引っ張んないでよバカギン!」
取っ組み合って喧嘩を始めると、一護の盛大な溜息が落ちた。ギンと乱菊の二人はぴたりと喧嘩をやめて、すぐに謝った。
「ギン。明日、薪拾いな」
「なんでボクだけ!?」
「女の子の髪を引っ張った罰だ」
一護は平然とえこひいきした。それがギンにとっては我慢ならなくて何度も抗議したものの、一護は聞く耳持ってくれない。やれ女は大事に扱え、女には優しくしろ、と常日頃からギンに言い聞かせてくる。
けれど一護になら優しくしてもいいが、乱菊にはごめんだった。一護からは見えないように、あっかんべーと舌を出してくるこの憎たらしい幼馴染にどうやったら優しくなれるというのだろうか。
そのとき、表の開き戸が音を立てた。外は吹雪だから、何かが飛ばされてぶつかったものだとギンは思った。
一護は無言で立ち上がると、手入れをしたばかりの刀を手に表へと向かった。
「俺が帰ってくるまでに寝てろよ」
「どこ行くの?」
駆け寄った乱菊の頭を撫でて、一護はにっこりと笑った。
「仕事だ」
うそ、と小さな声が乱菊の唇から零れ落ちた。一護は聞こえなかったフリをして、防寒着を羽織ると立て付けの悪い戸を開けた。粉雪が勢いよく吹き込んでくる。
表には強面の男達が数人、寒さに顔を顰めて立っていた。一護は男達と短く言葉を交わすと、振り返らずに戸を閉めた。男の声で、今日は隣の街に、と聞こえてきたのを最後に、一護達の気配は消え去った。
直後、乱菊がわぁっと泣き出した。
「危ないこと、しにいくんだわっ、」
小さな体を丸めて、乱菊は咽び泣いた。つい先ほどまでくっついていた相手が、極寒の中、命の危険に晒されていると思うと不安で仕方ない。
ギンも泣きたかった。泣きたい気持ちでいっぱいで、けれど我慢した。唇を真一文字に引き結ぶと、押し入れから布団を引っ張り出して並べ始めた。
「‥‥‥ギン?」
「何しとる、手伝わんかい。帰ってくるまでに寝とけって言われたやろ」
囲炉裏の近くに布団を敷き詰めると、ギンは早くも横になった。乱菊はしばらく泣いていたが、涙が収まると同じように布団に潜り込んだ。
強い風が小屋を揺らしていた。その音を聞きながら、二人は眠れないでいた。
「‥‥‥お姉ちゃん、大丈夫かしら」
「大丈夫に決まっとるやろ。姉ちゃん、めっちゃ強いねんぞ」
「そんなこと知ってるわよ! ‥‥‥でも、隣の区画にはすっごく強い人がいるって聞いたことがあるわ」
二人の胸に不安が渦巻く。一護の強さは折り紙付きだが、それはあくまでもこの区画での話。別の街に行けば、そこにはまた別の強者がいるのだ。
「更木には、鬼がいるんだって」
「アホウ。姉ちゃんが行くんは別の街や」
「でもお姉ちゃんは他の街に行ったりするじゃない。そいつも来たらどうすんのよ」
「‥‥‥‥姉ちゃんは負けへん。伝説の百人斬り、知らんのか」
「あれ、嘘だって言ってたわよ。一人で百人も斬れるわけねーだろって」
ギンは押し黙り、乱菊とは反対方向に寝返りを打った。無事でいてくれ、と両手を合わせてこっそりお祈りした。
外では吹雪が増々強くなっていた。
「そんで朝起きたら姉ちゃんが隣に寝とったんです。ボクを乱菊と間違えて、抱きしめてくれとった」
人の隊首室に酒を持ち込み、酔っぱらった挙げ句に昔話をつらつらと話し始める部下を尻目に、藍染は黙々と書類を捌いていた。
「そんときおっぱいがボクの顔にむにゅーって‥‥‥‥はぁ、やあらかかったなぁ‥‥」
にぎにぎと片手を動かしながら、ギンは酒を呷った。その顔は既に上気していて、酒に強いこの部下にしては珍しいことだと藍染は思った。
「姉ちゃんの嫁になるんがボクの夢やったー‥‥」
「嫁にするんじゃなくて?」
筆を止めて疑問を口にすれば、ギンはけらけら笑って答えてくれた。
「あんときの姉ちゃんは嫁っちゅー可愛らしいもんからはかけ離れとったから、やからボクが嫁なんですぅ」
藍染は一度だけ会った一護を思い出してみた。派手なオレンジ頭を抜きにすれば、どこにでもいそうな人間に見えたが、どうやら昔は相当なワルだったらしい。
「‥‥‥でも姉ちゃん、変わったなあ。なんやまあるくなって‥‥‥」
空になった一升瓶をぶらぶら振って、ギンが熱っぽい息を吐き出した。
「男でも、できたんやろかー‥‥‥」
「ギン?」
それきり黙ってしまったギンに、寝たのかと藍染が視線をやれば。
「‥‥‥‥う、うぅううっ」
泣いてる。
一升瓶を抱きしめて、ギンがめそめそ泣いていた。
「嫌やー! 姉ちゃんのお嫁さんはボクやー!」
飲んだ酒が涙に変わったのか、あの、”あの”ギンが、涙を!
不気味。その一言に尽きる。
藍染はいつの間にか筆を取り落とし、ギンの醜態に声も出なかった。
「姉ちゃん、好き、ほんまに愛しとる‥‥」
そしてそのまま寝てしまった。酒瓶が一護なのか、大事そうに抱えて。
飄々としていてお気楽で、けれど胸の内には不穏を抱いた男だと思っていたが、どうやらそれは正確ではなかったらしい。
初恋を追い続ける、大人になりきれない男だったか。
「‥‥‥‥酒臭い」
藍染は顔を顰め、窓を開け放った。冷たい風に、酒の匂いが吹き飛んでいった。