それは無垢
「捨ててこい」
低い声。子供が聞いたら怯えて泣き出してしまうだろう。
だが小さな小さな子供は泣き出すどころか食って掛かっていった。
「や!!」
いつもは剣八に反抗することなどないやちるが小さな体をめいいっぱい怒らせた。その手には自分よりも小さな命が抱き込まれている。
「捨ててこい」
もう一度言った。できる限り、感情を込めないように。
「やだやだやだ!!」
今度は小さな足で地団駄を踏んだ。その振動で抱き込まれた子供の柔らかそうな髪がゆらゆらと揺れる。
やちるの桃色の髪と子供の橙色の髪が合わさって剣八の視界を焦がす。見ていて目が痛い。
「だったら俺が捨ててくる。貸せ」
「あっ!いっちー!!」
「いっちー?」
取り上げられた子供をやちるはそう呼んだ。剣八は怪訝な顔をしながらもいっちーと呼ばれた小さな子供、やちるよりさらに幼い、その顔を覗き込んだ。
先ほどから一言も喋らない。言葉を理解していないのか、ただ黙ってやちるに抱かれていた。今は剣八に首根っこを掴まれてぶらりとその小さすぎる体を弛緩させていた。
表情は無い。
「いちごっていうの」
「お前が名付けたのか」
「そうだよ。剣ちゃんがあたしにしてくれたみたいに、この子にも名前をつけたの」
その言い方はずるい。
剣八はそんな思いを込めてやちるを睨む。
「ねえ、剣ちゃん」
「お前で手一杯だってのに」
「あたしが面倒見るよ。剣ちゃんはあたしの面倒見てね」
「おい、」
「笑わないの」
なにが、と聞こうとしたがそれがこの子供のことだと気が付く。剣八にぞんざいに扱われようとも文句一つ言わない。それどころか顔を歪めることすらしない子供。
血に塗れながらも笑顔を向けてきたやちるとは大違いだ。よく見ればその身にまとう着物はぼろぼろで黒いと思っていた着物は血に染まっていた。虚ろともいえるその目は何も映してはいない。
「あたしは毎日笑ってるのに、どうしてこの子は笑ってないの?剣ちゃんはあたしを拾ってくれたのに、どうしてこの子は拾っちゃ駄目なの?」
「やちる」
「剣ちゃん。やだよ、捨てちゃ駄目だよ。この子にはもう、名前があるんだよっ‥‥‥」
うんと下から見上げてくる。その目には涙が溜まっていた。
初めて見る拾い子のそれに剣八は困惑する。そのときわずかな振動が剣八の腕に伝わってきた。その腕の先には子供が、己の小さな手をやちるに向けて伸ばしていた。顔は相変わらず無表情なものの、その意志ある動きに剣八は目を見開く。
同じように両手を伸ばしたやちるに剣八はその子供を渡してやった。
「いっちー」
ぺちりと音が鳴った。やちるは思わず目を瞑るとそこから涙がこぼれる。子供は何度も何度もやちるの目の辺りを叩いた。まるで泣くなと言うように。
くすぐったさからやちるが笑う。その光景に剣八はがしがしと頭を掻くとしゃがみこんだ。
「剣ちゃん、」
「一護だ」
やちるがきょとんと目を瞬かせる。
「いちごじゃ食いもんだろ。だから一等の一に守護の護で、一護だ。」
「剣ちゃん!!」
ぱあっとやちるの顔が輝く。許しを貰えた嬉しさからますます涙があふれた。
仕方無さそうにため息をついて剣八が一護の頭を撫でようとしたそのとき。
がぶり。
「‥‥‥‥‥‥」
さすがのやちるも笑顔が引きつった。
半拍置いて、一護がぺっと剣八の指を吐き出した。
「‥‥‥やっぱり捨ててこいっ!!」
「やーーーーーーーーーーー!!」
一護は言葉を発しない。
話せないのか、話さないのか。それはやちると剣八でさえも分からなかった。
一度、一護の斬魄刀に聞いたことがあるが黒衣の男はただ意味ありげな視線だけをよこしてみせた。一護の斬魄刀が始解をすることから、彼にはその声が聞こえているのかもしれない。
だが二人にとって話せるのか話せないのか、そんなことは重要ではない。声には出さなくとも一護の言っていることは理解できる。他の者にはそれが困難らしいが、やちると剣八のたった二人だけが一護の伝えたいことを正確に読み取れた。それが絆のような気がして、別に話せなくてもいいと二人は思っている。一護も特別不便には思っていないようだ。
「だって十一番隊は戦っていればそれだけで言葉はいらないから、なんだって」
「嘘つけっ、さっきの目線一つでそこまで言ってねえだろ」
「あたしには分かるのっ!」
「ぎゃっ!!」
一角の疑いの眼差しはやちるが潰してやった。両目を押さえて転げ回る一角をやちるは大笑いしたが、一護は無表情に見つめていた。
「そうなのかい?」
隣にいた弓親が尋ねると一護は頷いた。
「ね!言ったでしょ」
「分かんねえよ」
一角がそう漏らすが弓親も同感だ。はっきり言ってあまり表情の変わらない一護から何を考えているのか読み取るのは非常に困難だ。
その一護が突然立ち上がる。そして障子を開けて部屋から出ていってしまった。
「弓っち、ツルりん、机の上片付けてっ」
「なんでだよ」
「いっちーお腹空いたって。食事持ってくるんだって」
「あ、じゃあ僕も手伝いにいってきます」
弓親も部屋を出る。一角は納得いかないながらも書類などを整理して、改めて目の前で何もしないやちるに聞いた。
「なんで分かるんすか」
「だってあたしはいっちーのお母さんだもん」
「いや、逆だろ」
「逆じゃないよ。それにいっちー、ときどきあたしのことそう呼ぶもん」
「えええ〜?」
「ちなみにツルりんのことはハゲって呼んでるよ」
「なにぃっ!!」
もちろん嘘だがやちるは黙っておいた。
自分とやちると剣八、それと一角に弓親の五人分だ。一護は己の指を折っていき拳をつくったところでそう結論を出した。
食事は下っ端の隊員が取りにいくものらしいが、お腹がすいたのは一護なのだ。自分で取りにいく。
十一番隊の第三席が自ら食事を取りにくると、初めの頃は係の者に目を丸くされたが今では馴れたのかにこやかに挨拶をしてくれる。
剣八が隊長となったとき、実力からいえば一護が副隊長だが本人にそんな気はまったく無く、やちると剣八もそれを承知していたので何も言ってはこなかった。
言葉は無いが自分達は繋がっている。何も言わなくても理解してくれていることが一護には嬉しくてたまらない。こんな感謝の気持ちも伝わっているのだと思うと、言葉が自分にとって一体何の役に立つというのか一護には不思議でならない。
「一護」
呼ばれて振り返る。そこにいたのは一護の名を呼んだ小さな死神と副官の女性。
一護はやちるの次に背の低い死神を見やった。彼がここにいるということはもう隊首会が終わったということだ。それならば早く食事をとりにいかないと、剣八が帰ってくるだろう。
「一護、今日あんたのところの副官が来てなかったわよ」
副官の乱菊の言葉に一護は頷く。
それはそうだ。さっきまで一緒に話をしていたのだから。行かなくていいのかと一護は聞いたが、今日はそんな気分じゃないと言われたのでそうかと頷いた。
だが一護にはそれを伝える術は無い。
「まさかどっかに遊びに行ってていなかった?」
一護は首を振る。
「んーじゃあ、お菓子食べてて行きたくなかったとか」
近い。一護は半分頷きかけて首を傾げた。
「あ、もしかして近い?」
頷く。
「わ、当たった!」
乱菊はなぜか嬉しそうだ。それをただ一護は眺める。
「日番谷隊長羨ましいでしょう」
「今のは誰でも分かるだろうが。一護、メシはもう食ったのか」
これから。
首を振って一護は食堂がある建物を指差した。
「メシを取りにきたのか」
「ということは十一番隊で食べるのね。日番谷隊長、残念でしたね」
「うるさい、松本。黙ってろ」
この二人の会話は漫才のようだ。以前一護がそう言ったらやちるは笑っていた。周りには一護が言ったことは分からなくてきょとんとしていたが。
「一護、今度うちの隊長とも一緒に食べてやってね。もちろん私とも」
「余計なこと言うんじゃねえよ」
「あ、やっぱり隊長はいいって。私と二人っきりで食べましょうか」
「てめっ!」
やはり漫才だ。一護は面白くて眺めていたがその表情に変化は無い。
「日番谷、松本、相変わらずだな」
「浮竹隊長、京楽隊長も」
騒いでいた二人に声をかけたのは浮竹だ。その横に京楽が、それぞれの後ろには副官の海燕と七緒が控えていた。
「あ。一護ちゃん」
二人に隠れて見えなかった一護が姿を現すと京楽がすかさず駆け寄る。それに女性陣だけではない、男性陣も一斉に嫌そうな顔をした。表情を変えないのは一護だけだ。
「相変わらず可愛いね。久しぶり、会えなくてボク寂しかったよ」
最後に会ったのは二日前だ。そういう意味を込めて一護は指を二本立てた。
「え? ああピース? 一護ちゃんもボクに会えて嬉しいんだ」
「会ったのは二日前だって言いたいんだと思います」
七緒が冷たい声で訂正の言葉を入れたが京楽は聞いてない。そっかあボクも嬉しいよ、と一護の手を握って勝手に解釈したままだ。
「手を離せ、一護が汚れる。一護、菓子をあげよう」
京楽の手を容赦なく叩いて離させると浮竹はうってかわった優しい態度で一護に菓子を渡す。それを素直に一護は受け取った。あとでやちると半分こしよう。
ありがとうございます。
そう言うだけでは伝わらないので一護は頭を下げた。
「ああ。どういたしまして」
「一護ちゃん、いいかい。こうやってお菓子をあげる人にはついていっちゃ駄目だからね」
「京楽、お前には言われたくない」
この二人の会話も息が合っていて面白い。親友同士というのだとやちるから教えてもらったことがある。
それよりも、自分だけがもらっていいのだろうか。以前見たときは、浮竹は冬獅郎にも菓子を勧めていたのに。
一護がそんな思いから菓子と冬獅郎を交互に眺める。
「なんだ?」
分からないといった顔をする冬獅郎に一護は菓子を差し出した。
「あら、隊長。お裾分けですって」
乱菊がからかうように言ってくるので冬獅郎はむっときたがそれをなんとか抑えて菓子を受け取る。
「ありがとな」
「日番谷、俺が勧めても受け取らんくせに」
「あんたが俺を子供扱いするからだ」
冬獅郎は子供扱いされるのが嫌らしい。一護は同じように子供扱いされてもまったく嫌ではない。そう言うと剣八にはそういうところが子供なのだと笑われた。
一護はやちるよりも幼い。年齢だけではない、その精神がいまだ円熟していないのだ。見た目は十五、六の少年、女には見えないとよく言われる、だがその考えは幼く拙いものがあった。無口無表情が年相応の落ち着いた雰囲気を出してはいるが、考えていることはやちるとそう変わらない。
初めてそれを聞くとたいていの者は驚く。一護の目の前にいる者達も信じられないと最初は驚いていたが、そうと分かると皆優しく接してくれた。別に大人にするように接しても一護は泣きはしないのだが。
「こんなところにいやがったのか」
一護の姿が陰る。後ろを振り仰ぐと剣八が立っていた。
「一護君がまだ来てないって食堂の人が心配してたんだよ」
弓親が五人分の膳を抱えていたので一護がすぐさま手伝おうとしたが大丈夫と弓親はやんわり断った。子供に持たせるわけにはいかない。
「寄り道はするなって言ってあるだろうが」
そうは言っても誰かが話しかけてくればこちらも話をするのはあたりまえだ。それにこれは立ち話であって寄り道ではないと一護は思う。
「言い訳すんな」
ぺしりと頭をはたかれる。ようじぎゃくたいだ。
「バーカ。何が幼児虐待だ。漢字で書けんのか」
やちるよりは書ける。剣八こそ、字が下手なくせに。
「俺のは下手なんじゃねえ。味があるって言うんだよ」
それは言い訳だと思う。読めなかったら味も何もない。
そもそも書類を味のある字で書くのはどうなのだと一護は反論した。
「お前は段々口が達者になってくるな。可愛くねえ」
むに、と一護の頬を剣八がつねった。
いつもの光景だと弓親は微笑ましそうに眺めていたが周りはそうではない。剣八と一護の会話を納得できないといった顔で見つめていた。
剣八が一護の言っていることを正確に理解してやりとりするのがいまだに信じられないらしい。
「う〜ん。何度見ても不思議だよね」
思わず京楽が唸る。
「何か秘訣があるのか、更木」
あればぜひとも教えてほしい。
「ああ? そんなもん無えよ。ただ分かるだけだ」
ようやく離された自分の頬を一護は撫でる。あとでやちるに言いつけてやる。
「何でもかんでもやちるに言いつけるな。ガキだな、てめえは」
「ずるい。ボクも一護ちゃんと話したいのに。ねえ一護ちゃん、ボクともお話ししようよ」
京楽は一護の顔を覗き込むが、ただ見返されるだけだった。そこにはどんな思惑も読み取ることはできない。
「こいつはいつだって話してる。分からねえお前らが悪いんだ」
「今のはなんて言ったんだ」
「この人はどうして髭を剃らないんだろうだらしない、だとよ」
「い、一護ちゃんっ、これはわざとだから! 色男の象徴だからっ!!」
だらしないとまでは言っていないのだけど。それよりも色男とは何だろう。
「色男っていうのはこいつみたいにチャラチャラしてやらしい顔つきの男を言うんだよ」
それはエロ男です、と海燕が小さく呟いた。
一護は納得したのか頷く。ひとつ賢くなった。
「もう行くぞ。腹が減ってるんだろ」
そう言って剣八の大きな手が一護を抱き上げた。一護は落ちないように剣八の首にしがみつく。昔はやちるのように後ろからしがみついていたのだが体だけは大きくなった今、それをやると剣八は動きにくいようだ。やちるにももう抱っこはしてもらえない。やれないことはないのだが、あのすっぽりと包まれるような抱き方はもうできないのだ。それが悲しくて寂しい。どうして自分の体は大きくなってしまったのだろう。
そんな一護の心情を知って剣八がときどきこうして抱っこしてくれる。本当はやちるにしてもらいたいところだが一護は我慢した。たとえ剣八の体が固くて不満だとしても。
背を向けて去って行く剣八達を冬獅郎達はなんとはなしに見送った。一護だけがこちらに顔を向けたので、軽く手を振ると一護も振り返してきた。その仕草に改めて一護は子供なのだと認識する。
「あーあ、行っちゃった」
残念、と京楽が本当に残念そうに呟いた。
「ボクも抱っこしたかったのに」
「それは視覚的にあまりよろしくないのでおやめいただくことを推奨します」
「正直にこの変態と言ってやれ」
実は浮竹も抱っこしてみたかったがそれは決して言わない。隣で海燕が抱っこしたいんだろうなあという目で見てはいても。
「初めてあれを見たときは皆びっくりしましたよねえ」
今では日常茶飯事だが当初は剣八も変態だと口々に罵られた。一護の精神年齢がやちると同等かそれ以下だと聞かされたときはもっと驚いたのだが。
「私もちっちゃいときの一護を抱っこしたかったなあ。ねえ、隊長」
「俺に振るな」
「ああ、隊長は抱っこしてもらいたいほうですか」
「てめえっ!!」
上司を上司とも思わない態度に冬獅郎は切れる。それを見て乱菊は一護のように見た目相応にこの上司も可愛く幼ければいいのにと思った。なんというか全然可愛くない。切れたいのはこっちのほうだ。
「私もあんな子供が欲しい」
やちるが羨ましい。
旦那はいらないが、子供は欲しい今日この頃。
「お帰りいっちー、お使いごくろーさま!」
とは言っても全部弓親が持ってきたので一護は何もしていない。弓親ごめんなさい、ありがとう。
「ああ、いいんですよ」
これくらいは弓親でも分かる。
一護は代わりに、とお茶の用意をしに行った。
「よく働くよなあ。ねえ、副隊長」
お前は何にもしないのかと一角は暗に言ってやった。案の定殴られる。
「あたしはいーの。いっちーは今背伸びをしたい時期なんだから」
「おや、第一反抗期ですか。全然反抗してないですけど」
そういえば最近の一護は自発的にものをやろうとよく動く。その表情に変化は無いが、必死さは伝わってきていた。
「そのうち思春期が来て一緒の布団じゃイヤっとか言い出しますよ」
一角のその脅すような言葉にやちるはむっと顔をしかめる。だがその心配は無さそうだ。
なぜなら一護の持ってきた飲み物はお茶三つと蜂蜜水二つ。
「まだ当分は大丈夫だろ」
剣八の呆れたような声に一護は首を傾げた。