いまだ真っ白な
ある者は息を呑み、ある者は眉をしかめ、ある者は面白いとそう思った。
目の前の光景。新しい隊長の誕生を誰もが確信していた。
「剣ちゃんいっけー!!」
緊迫した空気に不似合いなほどの明るい声。挑戦者を応援する唯一のそれは幼い子供のものだった。その子供を無表情な顔をした少年が両手で抱いている。
声援に応えたのか始終楽しそうに歪められていた剣八の口元が更に歪む。一層狂気を増したその表情に、見ていた隊員達は恐怖した。中にはひっと怯えた声を出す者までいる。
キィン!!
「あら、折れてもうた」
見ていた副隊長の一人がおやまあと肩をすくめる。それを咎めるように浅黒い肌の隊長が眉をしかめた。
全員とはいかないが何人かの隊長達がこの一騎打ちを見守っていた。隊長の入れ替えなどそうは無いことだ。それも、統学院すら通っていない死神が一騎打ちでその隊長の座を奪うなど。
「始解すらしていない斬魄刀に卍解が退けられるとはね」
眼鏡をかけた隊長がそう呟いた瞬間、同僚だった者はその身を貫かれた。
崩れ落ちる体。それをもう興味が失せたように剣八は見下ろした。
「剣ちゃん!」
誰も彼もが声を出せない中、はじけるように明るい声が剣八にかけられる。声の主はたたっと走り寄るとその血だらけの死覇装も厭わずに飛びついた。
「やったね! 剣ちゃん!!」
「まあな。今まで戦った中じゃ一番強い奴だったが、倒しちまえばこんなもんか」
その何をも恐れぬ物言いに周りで見ていた隊員達は顔をしかめる。恐怖か、あるいは嫌悪で。
「いっちーも良かったねって!」
「こいつがそんな殊勝なことを言うかよ」
その一護は相変わらず感情を伺わせない表情で二人の傍に立っていた。手にはやちるの斬魄刀を持って。
「どうだ一護、今度は俺と一騎打ちでもするか」
一護は首を振る。
「けっ、そうかよ」
一護はすっと剣八の横を通り抜けると物言わぬ亡骸の傍らにしゃがみこんだ。信じられないといったように見開かれて絶命しているその目を一護が覗き込む。ほんの数秒のことだっただろうか、無言の会話の後、やがて一護は手を伸ばすとその目を閉じてやった。
その一連の動作を剣八は憮然とした表情で眺める。敗北者を労る一護が気に食わなかった。
背後から不機嫌な視線を送られているものの一護は気にも留めない。隊長だった男の死に顔をただ見つめていた。
「どけ」
一護の体を押しのけると剣八は男の体から隊長の証である白い羽織をはぎ取った。血に汚れ穴の開いたそれを剣八は奪い取る。勝利の証として。
無慈悲な、とどこからか声が聞こえてきたが剣八は気にしない。当然のこととして、今日からは自分こそが隊長となるのだから。この男はもう隊長ではない、ただの死体だ。
「一護」
だが一護にとっては違うのだ。剣八の声を無視して離れたところに落ちている折れた斬魄刀を拾うと、死んだ男の手に握らせてやった。
そんなことをしてどうする、死ねばもう戦うことなど出来はしないのに、刀など持たせてどうなるというのだ。同情か、死者への手向けか。だが羽織をはぎ取っても一護は表情一つ変えはしなかった。
一護が剣八を振り返る。剣八も一護を見据えた。
「‥‥‥ああ、そうかよ。行くぞ」
「ね、行こ、いっちー」
不機嫌な剣八に遠慮してやちるは小さな声で一護を呼んだ。一護ももうこれ以上することは無いのか、やちるの声にこくりと頷くと剣八の後ろに付いてその場を離れていった。
次いで十一番隊の隊員が戸惑ったように、だが何かを振り切るようにして剣八達の後を追った。これからは、あの男が隊長となるのだ。
多隊の死神達も去っていく。
ただそこには、一人の死神だったものが横たわるだけとなった。
「皮肉なものじゃな。」
隊長格だけがその場に留まる。中には帰ろうとしていた者もいたが、一応同僚だったのだ、無理矢理引き止めた。
「どれほど権勢を誇ろうとも死ねば顧みることもされぬ」
総隊長の元柳斎の言葉に誰も返さない。
「皮肉なものじゃ」
閉じられた目。握らされた刀。
彼の最期の威厳を守ったのは、己を殺した男の仲間。ただ一人。
コロリとあめ玉を口の中で転がす。隣に座る男から貰ったものだ。
「美味しい?」
甘くて美味しい。一護は頷いた。
「一護ちゃんは可愛らしいなあ」
変わった口調だと思う。柔らかいような、流れるような。
銀色の髪というのも初めて見た。
「ん? 髪、珍しのん?」
太陽が透けた曇り空に似ている。
「一護ちゃんの髪も珍しいで。夕焼け空や」
同じ空だ。一護は天を指差した。
だが伝わらなかったらしい。市丸は首を傾げてしまった。
手を繋ぎたいと言う市丸のために一護は手を繋いでやった。一護の手は市丸の大きな手によってたやすく包まれてしまう。
「どきどきする?」
市丸がどこか期待するように聞いてきた。
だが一護は首を振る。特にどこもどきどきはしていなかったので。
「‥‥‥正直やな」
子供は正直。そんな言葉が浮かんだ。
剣八とともにやってきたこの少女は十五、六の外見に反して中身は小さな子供だった。常に無表情で、それも喋らない。だがそれが不思議と不快ではなかった。
動物のようだ。猫に、とても似ている。だから喋れなくて当然なのだ。むしろ人間の言葉を理解しているほうが奇跡だと市丸はそう思う。
「ということは剣八はんとやちるちゃんも動物なんか」
一護の言っていることを理解できるのはこの二人のみだ。たしかにあの二人は動物の親子のようだ。野性的とでもいうのか。
養い親の名前に一護が反応する。
「ああ、悪口言うたんちゃうよ」
宥めるようにそう言うと一護はまた正面に視線を戻した。
「なあ、一護ちゃん」
名を呼べば一護は素直に振り返る。ますます猫のようだと市丸は思った。
「ボクが隊長になったら一護ちゃんが副隊長になってな」
一護はぱちりと一つ、己の目を瞬かせるとわずかに首を傾げて市丸の顔を見た。
「なあ、ええやろ」
今度はぱちぱちと二回瞬きする。一護は己の膝を抱えながら、市丸がなぜ自分にそんなことを言うのか考えていた。その市丸は後ろに両手をついて空を見上げている。二人は今建物の屋根にいた。
「お返事は?」
一護は首を振った。不用意に頷くなと剣八からきつく言われているからだ。否と言える死神になれ、それを一護は思い出す。だからよく分からないことを言われたときはとりあえず首を横に振っておけという教えを一護は守った。
「一護ちゃん。ボクの言うてることよお分かってへんやろ」
今度は言っている意味は分かる。一護は頷いた。
「うーん、何て言うたらええんかなあ。‥‥‥やちるちゃんおるやろ?」
市丸は右手の小指を立てる。
一護は頷いた。
「ほんで剣八はんがおる」
今度は左手の親指を立てる。
だが一護は首を傾げた。
「あれ、ここでつまづくん」
市丸は困った、というように眉をしかめる。だが一護にとっては大事な問題だ。なぜなら小指と親指の長さがほとんど同じなのだから。市丸の指は特に長いので、もしかしたら小指のほうが長いかもしれない。それをやちると剣八に例えられても一護にはいまいち納得できなかった。
それを伝えようと小指の長さを測って、それを親指に持っていった。
「ああ、長さが同じなんか。でもこれは例えやから。ほら一護ちゃん、小指のほうが爪が可愛らしいやろ。せやからこっちがやちるちゃん。ほんで親指の爪がごっついから剣八はんや」
市丸が己の指をぴこぴこと曲げて戯けてみせる。それを一護はじっと眺める。そう言われてみれば二人に似ている気がしてきた。
「ええか。親指は隊長。小指は副隊長や」
まるで人形遊びをしている気分だった。市丸は笑い出しそうになるのを堪えながらも一護に分かりやすいよう根気づよく説明する。
「そしたら今度は親指がボク、小指は一護ちゃん。分かる?」
一護は首を振った。
「あれえ」
今度はうまくいったと思ったのだが。うーんと唸る市丸の指に一護が手を伸ばす。
「ん?」
一護は親指ではなく人差し指を立たせた。
「ボク、こっちなん?」
一護は頷く。市丸は人差し指のほうが似ていると思った。
「これで人差し指が隊長って言うても剣八はんは親指やから分からんようになるんやろうなあ」
はあとため息をつく。
落ち込んだ様子の市丸に、まあ元気出せよと一護は頭を撫でてやった。自分もよくやってもらう。こうされるとなんだか元気が出てくるので、市丸にもしてやった。
しばらく撫でてやる。大人しくされるがままだった市丸が己を撫でる一護の手を握った。
「一護ちゃん。ボクのお嫁さんになって」
一護は考えた。
だが「およめ」というのがどこの誰なのか分からなかったので首を振った。
「やっぱり‥‥‥」
がくりと市丸の首が項垂れる。
やちると剣八の教育の賜物だった。
だが市丸は諦めていなかった。
「山本総隊長。ボク、副隊長は一護ちゃんがええです」
三番隊の隊長に任命されたその日、隊首会でのお披露目で総隊長に直談判した。目の前で聞いていた剣八がこれでもかというほどの凶悪な顔で市丸を睨みつける。
「ねえ、ええでしょ。実力でゆうたら一護ちゃん、副隊長やっとってもなあんもおかしないですやん」
「それはそうなんじゃが」
だが一つ問題がある。
「あいつはガキだぞ。副隊長なんてやれるわけがねえだろ」
「剣八はんは黙っとき」
「黙るのはてめえだ。一護の周りをちょろちょろしやがって。嫁になれとか言いやがったそうじゃねえか。この変態野郎が」
「‥‥‥一護ちゃん、黙っといてって言うたのに」
それは無理だ。一護は隠すということを知らない。
「あいつ、漢字も書けねえんだぞ」
「ボクが教えたるわ。手とり、足とり」
腰とり、は口パクで言った。だが隣に立っていた卯ノ花がそれに気付くと嫌そうに眉を寄せる。だがそれよりも気になることがあった。
「一護さんの教育はどうなさっているのです。以前から聞いていると放任しているように感じられるのですが」
「悪いか」
剣八の当たり前のような言い方に周りは一斉に反論した。
「悪いに決まっているだろう」
「基本的なことは教えてあるから、あとはあいつの好きにさせてりゃいいだろ」
「そんな無責任な」
「言うならやちるに言え。母親はあいつだ」
言っちゃ悪いがそれが不安なのだ。やちるは一護をのびのびと育てているつもりなのだが端から見ていると危なっかしくてならない。護廷に来たばかりの頃、初めて見た地獄蝶を一護が追いかけてそのまま池に落ちたときもやちるは笑ってしょうがないなーと言っていた。
「せめて簡単な読み書きや計算はできたほうがいいんじゃないかい」
「一護ちゃん、答えが十以上の計算できないでしょ」
指は十本。
「足を使えばいいんだよ」
「更木!!」
ついには怒鳴られた。剣八は面倒くさそうに顔をしかめるものの、皆が言うことに一理あると思っている。一護は戦うことと己の身を守ることはよく知ってはいるがそれ意外はからっきしできない。だが縛り付けるようにしても一護は息苦しくてならないだろう。
この胸の内を皆が知れば父親はお前だと言われそうだが、口には出さないのでそれはない。
「一護が嫌だって言ったら諦めろよ」
仕方がない。今回は剣八が引いた。
「ボクの件はどうなったん‥‥‥」
「太郎君はリンゴを八つ持っています。花子ちゃんはミカンを七つ持っています。太郎君はリンゴを花子ちゃんに五つあげました。さて、花子ちゃんはミカンとリンゴ、合わせていくつ持っているでしょう」
一護の答えはこうだった。
「どうして花子ちゃんは太郎君にミカンをあげないの、だって」
「‥‥‥そうきたか」
一護だけではなくやちるも勉強に参加していた。同じ子供なのでやちるも勉強するのが望ましいということなのだが、一護の通訳としての役割が大きかった。
本日の教師は浮竹。教えているのは算数だ。
だがこれが中々難しい。
「じゃあ、太郎君のリンゴと花子ちゃんのミカンを合わせると全部でいくつでしょう」
これなら大丈夫だと教師役の浮竹は問題を変更する。
「こら、一護。指を使うな」
一護の指はやちるによって封印されてしまう。仕方がないので一護は頭の中でリンゴとミカンを想像した。
リンゴが八つにミカンが七つ。それを持った太郎君と花子ちゃんが手を繋いだ。
「頑張れ、いっちー」
もうすこしだ。今度は太郎君と花子ちゃんは肩を組んだ。一層仲良くなった二人に、あとちょっとで答えが出そうだった。
「あっ、分かったってっ!」
「一護、答えは?」
ごくりと息を呑む。
「花太郎君は全部で十五個持ってる、だって。正解だよ、いっちー!!」
「‥‥‥名前まで足さなくていいんだぞ。まあいいか」
正解は正解だ。
「なんだよこれ」
剣八は渡された小さな本を眺める。ぱらぱらと捲ってみるが何も書かれていない。
だが一護はもう一度捲り直すと一番最初の頁を剣八に見せた。
「『たいへんよくできました』だあ?」
一護は頷いた。
日付と科目、学んだ内容、担当の教師の評価が書かれていた。いわゆる連絡帳のようなものだ。
「いっちー今日は二桁の計算ができたんだよ」
やちるが偉い偉いと一護の頭を撫でる。一護もまんざらではなさそうだった。無表情で剣八を見上げてくるがそこには満足したような気持ちが見てとれる。
「あーすげえな」
剣八も一護の頭を撫でてやった。
一護は『たいへんよくできました。』の下にある余白をしきりに指差してくる。
「なんだよ。‥‥‥保護者の、感想だと?」
そうだと一護は頷いた。授業の終わりにここに書いてもらうよう浮竹に言われていた。毎回の授業で確認するから書いてもらわなくてはいけないのだ。
「やちるに書いてもらえ」
「あたしは駄目だよ。いっちーと一緒に授業出てたもん。剣ちゃんに書いてもらいなさいって言ってたよ」
あの野郎、と剣八は舌打ちする。きっとからかっているのだ。
「貸せ、一護」
連絡帳をひったくる。
そして一番太い筆で何事か書いてやった。
「更木!!」
翌日剣八は会うなり浮竹に怒鳴られた。
「子供の連絡帳になんてことを書くんだっ!」
『寝床で羊の数でも数えてろ、このロリコン』
一護にロリコンとはどういう意味だと聞かれて浮竹は答えに窮したのだ。やちるは隣で面白そうにことの成り行きを見守っていただけだった。
お陰で算数の授業は台無しだ。
剣八はにやりと笑うと浮竹を無視して去って行った。自分をからかった仕返しだ。
このとき連絡帳がこの先も続くことを本人は知らない。