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  甘い匂いに誘われて  


 人間以外の動くもの=食べ物
 一護の頭の中でこんな式が成り立っていたとは剣八はおろか母親代わりのやちるも知らなかった。




 カエルだ。
 目の前には池。そしてそこから這い出してきたのは小さなアマガエル。
 一護はしゃがみ込み、そして正面からじっと見つめた。
 ‥‥‥‥食べ物だ。
 ちょうどお腹もすいてきた。
「‥‥‥‥‥‥」
 隊舎に帰ってちゃんとした食事をとるという選択もあったが今ここに食べ物があるのだ、戻る必要は無い。流魂街にいたころはカエルや鳥、とにかく食べれそうなものは食べていた。
 問題は、無い。
「‥‥‥‥‥‥」
 いただきます。
 瀞霊廷に来てから食事をとる前には手を合わせてそう言うように。やちるに教えられたことを忠実に守り、一護は両手を合わせてカエルへと拝んだ。
 そしてすばやい動作で捕まえると、そのまま口へと持っていった。
「何やってんだ!?」
 しかし邪魔が入った。
 手首を掴まれその拍子にカエルが逃げる。一護の目の前で食料はぽちゃんと飛沫を上げて池の中へと消えてしまった。
「‥‥‥‥‥‥」
 肉が。
 いつもは焼いていたが生でもいけると剣八が言っていた。しかしやちるは子供の体には良くないと一度も食べさせてはくれなかった。それをこっそりと食べるスリルと高揚感、生肉に対する憧れ。大人へと一歩近づけるようなその行為を邪魔した人間を一護は無表情に睨みつけた。
「お前、今食おうとしてただろっ、何考えてる!」
 それはこっちの台詞だ。
 人の食料を奪うなんて何考えてるんだこの小っさな生き物は。食べてやろうか。
「あれは食いもんじゃねえ」
「‥‥‥‥‥‥」
 お坊っちゃまだ。
 以前、剣八が言っていた。貴族のお坊っちゃまとやらは自分たちが食べられないようなものを食べている、と。つまりは自分たちが食べるものは食べていないのだ。
「‥‥‥‥‥‥」
「何だよ?」
 可哀想に。
 あれとかこれとか美味しいのに。それが食べられないなんて。
「言いたいことがあるなら言え。黙って見てくるんじゃねえよ」
 そうは言われても言葉が届かない。
 一護としては普通に喋っているつもりなのだがやちると剣八以外には聞こえていないようだ。だからそれを伝えるため、一護は人差し指二本でバツを作り唇の前へと持っていった。
「‥‥‥‥喋られないのか?」
「‥‥‥‥‥‥」
 それは違う。言葉が通じないだけだ。
 一護は首を横に振った。途端に小さな人間は怒ったような顔をした。
「‥‥‥‥からかってんのか」
 やはり通じない。
 焦れったい。というか飽きてきた。
 言葉の通じない人間と話すのは忍耐が必要になる。子供の一護は忍耐とは無縁だったので、嫌だと思ったら即実行に移す。つまりはその場から逃げるのだ。
「待て!」
「‥‥‥‥‥‥」
 死覇装を引っ張られた。鬱陶しそうに一護は振り返り、そして何かに反応した。
「な、なんだよ、」
 嗅覚に引っ掛かる匂い。間違いない、この人間は何か食べ物を持っている。
 柑橘系の匂い。果物か何かだ。
「なっ、にしてるっ」
 以前は白い髪の死神が袖の中に菓子を入れていた。同じように一護は袖の中を漁ってみたが、しかし何も出てこない。
「‥‥‥‥‥‥」
 どこだ、どこに隠している。
「どこ触ってんだ!!」
 とりあえず邪魔な白い羽織を取っ払った。小さいから脱がせやすかった。
「てめっ、殴るぞ!」
 殴ったら殴り返す。
 それにしても可愛い顔をしているこの人間は怒ってもちっとも怖くないと一護は思った。だって下から睨みつけてくるその目は緑色で昨日食べた葡萄に似ていなくもない。そして銀色の髪は冬に衣替えした獣の毛並みにそっくりだった。
「‥‥‥‥‥‥」
 美味しそうだ。
 空腹でしかも目の前には美味しそうな生き物。
 自然と手が伸びた。
 ちなみに考えてから行動しろ、とよく怒られる一護だがそう言う剣八が考えていないじゃないかと常日頃から不満に思っていた。やちるも同じく。そんな二人を見て育った一護なのだから当然考えて行動するなんてことは出来る筈が無かった。
「‥‥‥‥‥‥」
 だから後で一護は思うのだ。自分は悪くない、と。
 伸ばした両手で美味しそうな人間の頬を包み込み、間近に覗き込んだ。相手は目を見開いて固まってしまったがこちらとしてはやりやすい。
 鼻を寄せ匂いを嗅いだ。やはり良い匂いがした。鼻同士がちょんと触れ合ったら、相手は可愛い顔を真っ赤にさせていた。
 増々美味しそうだった。
「‥‥‥‥‥‥」
 では、いただきます。
「‥‥‥‥っい! ‥‥‥‥何しやがる!!」
 頭から齧った瞬間、一護は突き飛ばされた。小さいくせに結構な力があったのか、一護はすてんと地面に尻を付いた。
「馬鹿かてめえは! 俺は食いもんじゃねえよ!!」
「‥‥‥‥‥‥」
 いけると思ったのだが。
 目は葡萄。髪は獣。真っ赤な顔は桃みたいだ。
 食べ物みたいな人間だが、所詮は人間。食べられないと分かると一護は途端に興味を失った。そして突き飛ばされて咄嗟に付いた掌がじんと痛みだし、見れば血が滲んでいた。
 食べ物を逃がすは食べ物みたいな人間に突き飛ばされるは挙げ句に怪我をした。泣きっ面に蜂。博識な弓親が教えてくれた慣用句が頭に浮かび、蜂は食べられるだろうかと考えてしまった。
「‥‥‥おい、大丈夫か」
 掌を見下ろして微動だにしない一護へと心配そうな声が掛けられた。しかし一護はもう相手に対して興味が無い。その声を無視して血の滲んだ掌をぺろぺろと舐めた。
「やめろっ、汚いだろ」
 無視だ、無視。食べ物でもないくせに良い匂いさせやがって。
「ちゃんと消毒しろ。ほら、四番隊に連れてってやるから」
「‥‥‥‥‥‥」
 しつこいな。
 少し脅かしてやろうと思った。だって食べようとしてあんなに驚いて顔を真っ赤にさせていたのだ。もう一度食べようとしてやればどこかに行くだろう、子供の浅知恵で一護はそのときそう考えた。

 ぺろ。

「!!」
 驚いてる。
 ふふっと笑ったつもりで一護は無表情に相手を見下ろしてやった。しかし相手はどこかに行くどころかこちらを凝視してくるばかりで逃げようともしない。
 だからもう一度舐めてやった。相手の小さな唇をぺろりと。
「‥‥‥っお、お前っ!」
 うるさい、喋るな。
「!!!」
 ほんとに小さな唇だ。やちるよりもちょっと大きいくらいか。
 自分の唇でも簡単に塞げてしまった。
「‥‥‥‥! ‥‥‥‥!」
 息が出来ないらしい。鼻ですればいいのに。
 仕方なく唇を離してやったら相手は何か言おうと大きく口を開いた。これは駄目だと思い一護はもう一度塞いだ。そして暴れる相手の目をじっと見つめれば、ぱっと逸らされた。
「‥‥‥‥‥‥」
 勝った。
 獣同士の争いは先に視線を逸らした方が負けだ。ちょっとした優越感を感じていたら相手は随分と大人しくなっていた。
 今なら簡単に食べられる気がするがこれはもう食べ物ではないと一護は分かっていたので、結構あっさりと解放してやった。
「何で、こんなこと、」
 黙らせる為にしたことだ。そう言おうにも伝わらないので一護は相手の小さな唇を手で塞いだ。
「‥‥‥‥訳分かんねえ」
 あ、さっき地面に付いた手だ、と一護は思ったがまあいっかと気にしなかった。相手はもごもごと喋ってそして黙りこくってしまった。
「いっちー、どこー?」
 やちるだ。ということはもうとっくにお昼の時間じゃないか。
 こうしてはいられないと一護は声のする方向へと足を向けた。しかし思いとどまるとくるりと方向転換し、
「ぅあっ」
 最後にひと舐めした。
 残念。結構美味しそうだったのに。
 最後の未練を断ち切るかのように相手の唇をゆっくりと舐めた後、一護は真っ赤な顔をして立ち尽くす子供を置いて悠々と去っていった。







「隊長、どうしました?」
 中々帰ってこない冬獅郎を迎えにきた乱菊に、しかし上司は微動だにしない。
 乱菊は首を傾げる。その拍子に柑橘系の香りがふわりと辺りに広がった。
「なんで羽織脱がされてんですか」
 それに死覇装もところどころ乱れていた。
「え! まさか襲われたとか?」
 どこか面白そうに言った乱菊だが、怒る筈の冬獅郎はそれにもまったく反応しなかった。
「隊長? もしかしてヤられた?」
 食べたのはオレンジ色。
 そう言える筈も無くただ唇を押さえ、冬獅郎は俯くばかり。部下の香水の香りが一層オレンジ色をした犯人を連想させて、
「‥‥‥‥‥っ、」
 頬は桃から林檎へと赤さを増した。


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