とうしろう
「もう”小さいの”なんて言わせねえからな」
そう言って、かつての『小さいの』は不敵に笑った。
一護は面食らったようにぱちぱちと瞬きして、元『小さいの』を見上げた。そう、見上げたのだ。
「フフン。驚いてるな」
おかしい。元『小さいの』はこんなに、こーーーんなに小さかった筈だ。
一護は親指と人差し指でほんの五センチほどの隙間を作ると、元『小さいの』に見せた。元『小さいの』の口元がぴきっと引き攣っていたから、言いたいことは伝わったらしい。
一護はおもむろに懐に手を突っ込むと、菓子袋を取り出した。糖分が足りない。これはきっと糖分不足が為す幻覚かなにかに違いない。そう思って飴玉を口に放り込んだ。
「‥‥‥‥。‥‥?」
おかしい。味がしない。
飴玉の甘い味が少しもしてこないことに一護は驚き、ぺっとそれを吐き出した。
さっき拾ったビー玉だった。
「‥‥‥!!!」
この自分がまさか飴玉とビー玉を間違えるなんて。
それほどまでに元『小さいの』の変貌に動揺しているとは、そのときの一護はまだ自覚していなかった。
木刀同士の打ち合う音が響いていた。
「いっちーっ、頑張れーっ、負けるなー!」
菓子を片手にやちるが声援を送ると、一護の視線が少し動く。それを逃さず剣八が木刀を叩き込めば、一護はすばやく飛び退き、空中をくるくると回って着地した。
「猿かテメエは!」
一護は息を乱しながらも木刀を握り直すと、剣八目がけて突進した。滅茶苦茶に振り回しているようで、実は的確に相手の急所を狙う攻撃に剣八が満足げに笑っていた。また強くなったと言われたようで、戦いの最中だというのに一護は嬉しくて気を抜いてしまった。
それがいけなかった。衝撃と同時に目の前が真っ暗になった一護は、すうっと引きずられるようにして意識を失った。
「一護」
負けた。
剣八に負けたんだ。
肩と後頭部が痛い。倒れたときに打ったんだと分かって一護は起き上がろうとしたが、瞼一つ動かせない。
動きたいのに動けない。金縛りにでもあったかのように、自分の体が言うことを聞いてくれなかった。なんとか指先だけでも動かそうと一護が必死になっていると、唇になにか柔らかいものが触れた。
「一護‥‥」
また触れた。
ちゅ、と音が鳴って、一護は今度こそ瞼を押し上げた。
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥よぉ」
元『小さいの』がいた。それも目の前、ド真ん前。
見開かれた碧色の目が、相変わらず美味しそうだった。
「‥‥‥‥‥‥」
「なんか言えよ。‥‥って、言えねえか」
小さく笑って、元『小さいの』は離れていった。見えた天井は十一番隊の古い天井ではなく、白いそれだった。
はて、ここはどこだろう。何度か見たことがあるような、いや何度もお世話になったような。
「四番隊の病室だ。お前、更木にぶっ飛ばされて気絶したんだ」
元『小さいの』が言うには半日以上経っているらしい。まだ修行場にいると思っていた一護は驚いてすぐさま起き上がろうとした。
「‥‥‥‥、‥‥」
「おい。痛いんなら寝てろよ」
一護は是非ともそうさせてもらった。四番隊のベッドは柔らかくて好きだ。けれど剣八とやちるがいない。だから自宅の薄っぺらい布団のほうが好きだ。
「更木達は任務で現世に下りた。‥‥‥‥泣くなよ?」
泣いてない。寂しかっただけだ。
一護は痛くないほうへと寝返りを打って枕を抱きしめた。
「あいつらならすぐに戻ってくるだろ。ほら、草鹿が代わりにこれ置いてったぞ」
それはやちるの菓子袋だった。しかもぱんぱんに膨らんでいる。好きなだけ食えということらしい。一護は受け取ると、いそいそと中身を開けた。金平糖はやちるの大好物だから置いておいて、それ以外を遠慮なく頂くことにした。
口いっぱいに頬張っていると、元『小さいの』の視線を感じた。
「美味そうに食うよな」
当たり前だ、美味いのだから。
一護は旬の栗饅頭を半分に割ると、椅子に腰掛けてこちらを微笑ましそうに眺める元『小さいの』にお裾分けしてやることにした。
「じゃあ、頂く」
それはとても自然な動作だった。元『小さいの』が一護の手首を捕らえ、栗饅頭へと直接唇を持っていく。なにか変だ、そう思ったときには遅かった。
ガブリ。
「‥‥‥‥!!」
噛まれたっ、いや食われた!
栗饅頭ごと指を食べた元『小さいの』を呆然と見上げ、一護は無表情のままあんぐりと口を開けた。
「俺を頭から齧ってくれたお返しだ」
にやりと笑う、元『小さいの』のその顔に、一護はふいに胸がむずむずとするのを感じた。以前にもそんなことがあったのだが、それは成長痛だと教えてもらった。しかし今は奥がむずむずというか、キュンというか、とにかく違う、なんだこれ。
一護が難しい顔をしているので、元『小さいの』が訝しむように覗き込んできた。一護はとにかくこの変な痛みを訴えようと、元『小さいの』の手を取って強引に胸の上へと置いた。
「っバ、バカっ、お前っ、」
痛いんだ。
「あ、うわ、」
撫でて、という意味を込めて、元『小さいの』の手の上から一護は動かすよう促した。それなのに元『小さいの』は何を思ったのか、一護の小さな乳房をふにゅふにゅと揉んできた。
「‥‥‥っ、」
あれ、なんか違う、ちょっと待て、誰が揉めと言った。
「柔けえ‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
可愛い。
一護ははっと我に帰った。今のは何だ。
たしかに何度か可愛いと思ったことはあるが、それは女の子みたいで可愛いとか、小動物みたいで可愛いとか、そんなのである。
けれど今思った可愛いは、言葉では表すことのできない『可愛い』だった。その特別の『可愛い』に内心動揺していると、元『小さいの』の指が布の上から胸の突起に触れて、一護はびくんと背中を反らした。
「悪ぃっ、痛かったか!?」
一護が咄嗟に首を横に振ると、元『小さいの』はほっとした顔をした。そしてまた一護の乳房を優しく揉み始める。元『小さいの』の手は大きくて、一護のそれをすっぽりと包めてしまう。一護がおもむろに手を重ねてみると、その差は一目瞭然だった。
「お前、甘い匂いがする」
元『小さいの』の鼻先が、一護のささやかな谷間に埋まる。そしてくんくんと一護の匂いを嗅いで、はぁ、と満足したように息をついた。
それだけで、一護はどうしようもない気持ちにさせられた。壁に爪を立てたいような、じたばた足を動かしたいような、嬉しいのに悲しいような、不思議な気持ち。
表情は相変わらず無表情で、筋一つ動いていなかったが、一護はこのとき間違いなく照れていた。
「一護」
いつの間にか一護の呼吸は浅く速くなっていた。それは元『小さいの』も同じで、顔が赤くなっているのも同じだった。耳まで熱いから、それが分かる。
「一護、」
小さいの。
いや、違う。もう大きいから、『大きいの』と呼ぶべきだろうか。
「冬獅郎だ。日番谷、冬獅郎」
『‥‥‥とうしろう』
唇だけを動かして、一護はそう呼んだ。かすかに漏れるのは空気だけで、それは音にはならなかった。
けれど冬獅郎はいたく感激したように息を呑んで、次にはもう激しく唇を奪ってきた。
「一護っ、一護っ、‥‥好きだ」
ずっとこうして触れたかったと、口付けの合間合間に教えてくれた。
「いっちー、退院おめでとー!」
「たかが打撲と失神で大げさなんだよ」
「お、め、で、とぉー!!」
「うるせえっ」
剣八とやちる二人の掛け合いに、どっちもうるさい、と通りがかった四番隊員が呟いていった。
一日会わなかったから、てっきり一護は不貞寝していると思っていたが、意外にしっかりとした目つきで二人を眺めていた。
「次からは気ぃ抜くんじゃねえぞ」
「‥‥‥‥‥」
「ねえねえっ、金平糖食べよっ」
「‥‥‥‥‥」
「一護?」
「いっちー?」
「‥‥‥‥‥」
一護は無表情のまま、剣八とやちるを交互に見た。その目は相変わらず澄み切っていたが、見る者が見れば何を考えているかなんてすぐに分かる。
それなのに。
「いっちー、どうしたの、なんで何も言わないの」
「なんだお前、俺にぶっ飛ばされたこと、まだ根に持ってんのか?」
「あ、あ! そうだっ、任務に行ったこと? でもね、あれは」
一護は二人の言葉を遮るように、首を横に振った。そしてもう出てってくれと言わんばかりに、手をしっしとやった。
「‥‥‥‥剣ちゃん」
一護は窓の外を眺めていた。その姿はいつもとどこか違う。
いや、まさかそんなことはあり得ない。たった一日会わなかっただけで、一護の何が変わるというのだ。
「どうしよう」
小さな手が剣八の袴をきゅっと握った。
「どうしよう‥‥っ、あたし、いっちーの言ってることが、分かんないんだよう‥‥」
「俺もだ‥‥」
途方に暮れた二人の声が、病室の白い壁に静かにぶつかった。