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  ごめんね、  


 どうしてかなんて分からない。
 落とした書類を二人で拾っているとふと視線が交錯した。その近すぎる距離のせいだったのかもしれない。
 気付けば唇は重なっていて、離れなければならないと思うのに体はまったく逆の行動を実行していた。
「ん‥‥‥」
 肩を抱き、角度を変えて啄んだ。一護が少しも抵抗しないことが不思議だったけれど今そんなことを考える余裕など無くて、互いの吐息を交換するように夢中になって口付けを交わしていた。
 頭の中では唇が柔らかいだとかずっとこうしていたいだとかそんなことを考えていて、そして一護は自分のことをどう思っているのかが気になった。
 自分よりも恋次や修兵のほうがよっぽど仲がいい。自分は仲がいいといってもあの二人に比べれば疎遠で、一護の中に占める自分の割合なんてたかが知れていると思っていた。
「‥‥‥イヅルさん、」
 少し離した唇からは自分の名前が吐息とともに切なげに呼ばれる。それにぞくりと背筋が震えた。
 これがただの成り行きだとか流れだとかそんなことはもうどうでもいい。本能のまま、今度は荒々しく唇を奪った。驚いたように目を見開く一護の目がそっと伏せられ、それを見てしまえばあとはもう止められる筈も無く。
「ごめんね」
 そのまま二人、息があがるまで口付けを交わした。






 目が合った瞬間、一護に逃げられた。
「何? お前、嫌われてんの?」
 隣にいた修兵の軽い一言にイヅルは激しく落ち込んだ。
「何やったんだよ、ケツでも撫でたのか?」
「してませんよそんなこと!」
「やったのは先輩でしょ」
 恋次はそのときのことをこう話す。簡単だ、後ろを向いていた一護に修兵が忍び寄り、挨拶代わりに尻を撫で耳に息を吹きかけたのだ。
「ぶん殴られてましたね」
「いいんだ。ケツは触れたから」
 小っちゃくて可愛かった。
 そう言って触ったであろう右手をかざし、修兵は満足したような笑みを浮かべていた。そんな先輩の姿を恋次は呆れた眼差しで眺めていたが、イヅルは眉を吊り上げると修兵の足を思い切り踏みつけてやった。
「ってえ!! 何すんだっ、てめ、」
「不埒な行動は慎んでください」
 いつもの穏やかな雰囲気が嘘だというように、今のイヅルは厳しい顔つきで修兵を睨み据えていた。その様子に修兵と恋次がうっ、と息を呑んで後じさる。
「立派な痴漢行為です。女性死神協会に訴えられても仕方ありませんよ」
 そうされないのは一護が優しいからだ。親しい相手には気を許してたいていのことは水に流してしまう一護の気質は好ましいものだが、端から見ていてそれが危うく感じてならない。そういう一護の人の良いところにつけ込む輩がいるのだから自覚というものを持ってほしいと思う。
 もっと何か言ってやろうとイヅルは口を開きかけたが、先ほど自分を見て逃げた一護の顔を思い出し、結局は口を閉ざしてしまった。
「‥‥‥‥とにかく、副官らしい振る舞いをしてください」
 自分が言えた義理か。
 内心でそう罵り、イヅルは苦い顔を隠すように踵を返し去って行った。






「っあ」
「‥‥‥‥ども」
 曲がり角でばったり。
 ぶつかる寸前で足を止め、それから気まずい沈黙が続いた。遠くのほうで誰かの会話が賑やかに聞こえ、けれどここら一体は不気味なほどの静けさだった。
 一護は俯き、イヅルからはその表情を伺うことはできない。
「あの、一護君、」
 問いかけと同時に右手を動かせば、バサバサと書類が落ちてしまった。
「あぁっ!?」
 当然だ、右手で書類を持っていたのだから。
 緊張でそんなことさえ忘れていたイヅルは情けない声を出して激しく狼狽えた。すぐに膝を折り、書類を掻き集めていると自分以外の手が視界に入った。
 見上げれば、すぐ近くに一護がいた。
 既視感にイヅルは目を見開く。けれど一護の目は床に落ちた書類に向けられ、二人の視線が交わったのはほんの一瞬のことだった。
 二人、無言で書類を拾い続ける。イヅルの視界の端には一護の手が映っていて、指には包帯が巻かれていた。痛くないのかな、そうぼんやり考えてその手を見つめていると、一護の傷ついた手は拳をつくった。

「ごめん」

 小さな声だったが静かな分、イヅルの耳にやけに響いて聞こえた。
 一護は俯いたまま顔を上げる気配はない。
「ごめん、イヅルさん、本当に」
「どうして‥‥‥‥?」
 謝るな自分のほうだ。一護の気持ちなんて知らないで口付けた。
「どうかしてたんだ、俺、本当に恥ずかしい、なんであんなこと、」
 つくった拳を額に当て、一護は呻くように言葉を発した。そして拾った書類をイヅルに押し付けると一護は立ち上がり、逃げるようにその場を去ろうとする。
 その手を握り、押しとどめたのは、あの日と同じでどうしてかなんて分からなかった。
「待ってっ、そんな、どうして? あぁ、そうじゃなくてっ」
 何を言えばいいのか頭が混乱して、出てくる言葉も見つからない。けれど握った手は離してはならないということだけは分かっていた。
「謝るのは僕だ。君の気持ちを考えてなかった」
 想いを無視して口付けた。最低の行為だと謝れば、一護は困惑したような表情をつくる。
「イヅルさんは、雛森さんが好きだって聞いた」
 その言葉にイヅルは慌てた。言ったのは恋次に違いない。
 一気に挙動不審になったイヅルを見て、一護はなおも言葉を続ける。
「だから、ごめん。あれは犬に噛まれたと思って忘れてくれ」
 握られた手を一護は解こうとしたが、それは叶わなかった。逆に強く握り込まれて、先日負った傷に響いて顔を顰める。
「雛森君は違うんだ。ええと、確かに彼女に憧れていたときはあったけど、」
 一護を逃がさないように引き寄せて必死に言葉を探す。お世辞にも健康的とは言えないイヅルの顔色は今や朱に染まっていた。
 けれど情けなくもその先の言葉が続かない。唇が不自然に動き、空気だけがはきだされた。
「‥‥‥‥‥謝ったから」
「え?」
「あのとき、謝られたから。俺、あーあ、って思った」
 先ほどから一度も顔を上げようとしない一護の声はわずかに震えていた。
「ごめんね、忘れて、って、そう言われた、気がした」
 握られた手に巻かれた包帯からは血が滲んでいた。開いた傷口はじんと痛みを訴えていたが、一護は構わずイヅルの手を握り返した。

「ごめんね」

 あの日と同じ。
 あーあ、と一護が思った、そのとき、
 ちゅ、と唇に柔らかい何かが当たった。
「ごめんね。好きになって、ごめん」
 そういう意味だよ。
 囁かれた言葉に今度はじんと一護の目が痛みを訴えた。
「‥‥‥‥俺も、ごめんなさい」
 落ちた書類はそっちのけ。あの日と同じ、息があがるまで二人、唇を重ね合った。


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